青嵐



泉は部屋を出て階段を下りながら、階下から聞こえてくる声に眉間に小さなシワを寄せた。

くすくすと忍び笑いを洩らす女の声が聞こえてくるという事は、その側に必ずある人物が居る事を知っているからだった。
わざとらしく咳払いをするのも面倒で、音を吸収してしまうじゅうたん敷きの階段を順に降りて行くと、そのかすかな足音でこちらの存在に気付いたらしい声の主が口をつぐんだ。
「こ、孝介様……」

彼女が仕えるべき主筋の人間である泉の姿に、侍女は慌てて自分の前に立ちはだかる男を押しのけ、居住まいを正して頭を下げた。
「手紙を、出しておいてくれないか」
別段咎める事もせず用事を言いつけると、階段を下りきったところで彼女は泉が差し出した手紙を両手で掲げるように受け取った。

彼女が、階段下で受け取った手紙を持って家の奥へと去って行くのを待って、泉は侍女の話し相手であった男──書生の浜田をじろりとにらみつけた。
「……何か?お坊ちゃま」
まったく悪びれたところの無い笑顔を浮かべた浜田が小首を傾げるのを見て、泉は小さく溜息を吐いた。

「坊ちゃまはやめろ。つーか、屋敷の中で所構わず女を口説くなって何回言ったら理解するんだオメーは」
「ぼっちゃまこそ、その言葉遣いを直された方が宜しいかと?」
家令あたりが耳にすれば、すぐさま浜田をしかりつけるようなからかいを含んだ態度だったが、泉は怒るどころか小さな苦笑を洩らしただけで踵を返した。
「町に出る。お前も付き合え」
「おおせのままに」

浜田が了解してくれた事が嬉しくて、泉はそっと、誰にも気付かれないように頬を緩めた。



浜田が泉家に書生として入ったのは、五年前だった。
元は羽振りの良い商家のお坊ちゃんであったが、父親が事業に失敗し、破産の憂き目には会わずに済んだものの、商売は縮小を余儀なくされた。
丁度その頃、一高への入学を果たしていた浜田は、学校を辞めて実家の事業再建を手伝おうとしたが、両親から学校は卒業して出るものだと諭され、古くから付き合いのあった泉家に書生として住み込む事となった。

幼い頃からの知己であり、兄分として慕っていた浜田と共に暮らすのはとても楽しかった。
一高への進学を果たすだけあって、勉学の師としても仰ぐ事になった浜田はとても良い教師で、いつの間にか、街で知り合った友人達と外を走り回るよりも机に向うことの方が長くなり、それを苦痛と思わなくなった。

そんな自分を不思議に思った事がきっかけだったのかもしれない。
他愛無い話に花を咲かせ、満面の笑みを浮かべた浜田を好きだと感じた。
自分に向けられる言葉、視線、そういった何気ないもの全てに愛おしさを覚え、泣きたいほどの想いに胸が潰れそうになった。

それは恋だと教えてくれたのは、ほかならぬ浜田だった。

戯れに、浜田はそういった感情を知っているのか、そんな気持ちを抱く相手が居るのかと尋ねてしまった。
勉強の合間の息抜きのつもりだったが、そう尋ねた瞬間に激しい後悔を覚えた。
男の自分が、同じ男である浜田相手にそんな気持ちを抱いているなど、何があっても口には出来ないし、表に現すべき事ではないというのに、声に込もってしまった心は明らかだった。

必死になって誤魔化そうとしたが、浜田はただ静かに逃れようとした泉の腕を捕らえ、そっと抱きしめた。
その逞しい腕の中の居心地は、言葉に表すことが出来ないほど甘美だった。
強すぎず、かと言ってすぐに戒めを解かれるほどの柔らかさも無く、触れ合う事を望んだ相手の虜になれたのだという喜びが背筋を這い登った。



──それが去年の事。

その直後、泉は陸軍幼年学校の寄宿舎に入ってしまい、しばらくは手紙を書く余裕すらない生活を送る羽目になった。
それまでの生活と違い、毎日繰り返される訓練(といっても、華族である泉のそれは他の同級生より幾分易かった)や勉強漬けの毎日、そして慣れない集団生活に馴染むのに必死で、初めての休暇で家に戻るその直前まで、どんな顔をして浜田に会えば良いのか、考える事すらしていなかった。

それでも休暇を心待ちにし、喜び勇んで戻った屋敷の中で、泉は以前とは人が変わってしまったかのようによそよそしい態度を示す浜田に再会した。
短い休暇の中、何とかして浜田と話し合おうとしたが、相手はのらりくらりと自分をかわし続け、まるで子供の鬼ごっこのような事を繰り返しているうちに、短い休暇は終わってしまった。

学校に戻ってからは、浜田の真意を問い質そうと何度も手紙を書き送ろうとしたが、あの優しい抱擁が夢のようにも思え始め、胸の内の不安を表す言葉を見つけ出せずに居るうちに、次の長期休暇が差し迫っていた。
結局手紙は書けないまま休暇を迎えてしまい、渋々戻った家では、浜田が相変らずの他人行儀な態度と、当て付けるように女中と話し込む姿を見せるようになっていた。

その苛立ちを、浜田本人にぶつけられたらどれ程楽だっただろう。
しかし、接触を持とうとしても決して他人の目の無いところで会おうとしない浜田とは、最後まで二人だけの会話をする事は出来なかった。

心を殺す事が出来れば、どれ程幸せなのだろうと考えながら幼年学校での生活を続け、休暇の度に顔を合わせるものの、ゆっくりと話をする事ができない日々を過ごした泉は、もう我慢の限界を迎え、今や最後の賭けに出ようとしていた。

「坊ちゃーん、どこまで行くんですか?」
そんな泉の心情を知ってか知らずか、浜田は情けない声を上げながら、泉が道々で買い付けた学用品や、療養中の学友への見舞いの品を持たされていたが、肩越しに振り返った泉にじろりと睨みつけられて怯んだ。
「うっせぇ。いい加減黙ら無ぇと力ずくで黙らせるぞ」
言いながら腰に下げた剣を鳴らすと、浜田は一瞬冗談だろう?という表情をを見せたものの、すぐに沈黙が身を守る最良の手段だと判断したのか、泉の背後を静かに付き従って歩いてきた。

街の外れへと向う道を進み続けると次第に家並みが消え始め、やがて周囲は良く手入れされた竹林が目立つようになってきた。
泉は知人から教えられた道順に不安を覚えながらも、それを気取られないよう気を配りながら歩き続けた。
やがて竹の陰に小さな門が現れ、泉は胸の内でかすかに疑ってしまった知人に詫びを入れつつ、門を潜った。

良く手入れされた小径を、飛び石を辿るようにして歩いて奥へと進むと、趣(おもむき)のあるこじんまりとした屋敷が現れ、泉は浜田を伴って広い玄関戸を開いた。
「お待ちしておりました、泉様」
待ち構えていた年配の女が一人、廊下に手を付いて頭を下げているのを鷹揚な態度で受け流すと、泉は軍靴を脱ぎ、浜田にも屋敷に上がる事を促した。

「坊ちゃん、ここは……?」
「知り合いの持ち物だ。今日、明日と借り受けてる」
女の先導に従って奥に進むにつれ、浜田はにわかに警戒心を呼び起こされたようだったか、わざとそれを無視して、泉は案内された座敷の障子を開け放った。

薄い和紙一枚で目隠しされていた部屋は、この屋敷の持ち主の趣味らしく無い部屋だった。
何気なく置かれた調度の数々はそれなりに値の張る物ばかりで、人を圧倒するような気配があるが、時折場違いにも思える品があるお陰で、かろうじて持ち主の姿をうかがわせる。
場違いな品物達は、おそらく持ち主が街で見かけて気に入ったものを置いているのだろうが、ビードロや張子の人形、金平糖の詰まったビンなど、まるで子供の宝物置き場だ、と感想を抱きながらも、泉は卓についた。

「まぁ浜田も座れよ。今日の買い物に付き合ってもらった礼に、旨いメシ食わせてやっから」
「旨いメシって……坊ちゃん、学校ではそんな言葉使いを勉強しておられるんですか?」
「確かに勉強の一環だな」
呆れ顔の浜田にうそぶくと、困ったようにではあったが浜田が小さく笑った。

浜田が席に着くのを待っていたのか、出迎えた女が茶を用意して下がってしばらくすると、事前に頼んでおいた食事が運ばれ、しばしの間舌鼓を打った。
夕飯というには少し早い時間ではあったが、街中をかなりうろうろと歩いていたのと、料理人の腕前がかなりのものなのか、家での食事より旨いと思いながら箸を進めていると、あっという間に食事は終りを迎えてしまい、泉は緊張に喉を鳴らした。

「……飯、旨かったな」
屋敷の周りを取り囲んでいる竹が、優しく吹きぬける風にざわめく音に耳を傾けながら、目線を向ける先を選びきれず、緊張に震えそうになる瞼を閉じた。
「そうですね……で?俺に何を言わせたいんですか?」

冷たく突き放す言葉に顔を上げると、切なそうに目を細めた浜田がゆっくりと息を吐きながら、膳の片付けられた机の上に手を伸ばした。
「この手を伸ばせば、俺はいつだって泉に触れられる。でも、それは許されない事だってことは、泉も分かってることだろ?」
まるで知り合った頃のような気安い言葉使いながら、柔らかな拒絶を滲ませた声に、泉は背筋が震えるのを感じた。

「……確かに、俺は浜田の主筋に当たる家の家族だし、間違いなく男だ」
強張る体を弛緩させようと、ゆっくりと息を吐きながら泉は拳を握った。
「でも、俺はお前の事が好きなんだ……同じ男でも、誰もが後ろ指を指しても、お前が好きで仕方が無ぇんだ!」
握った拳を机に叩きつけると、茶托に載せられていた茶碗が跳ね、少し残っていた中身が机上に散った。

「いずみ……」
「お前が何をしても、誰に手を出しても構わ無ぇ。でも、お前の心は俺の……俺だけの物にしたい」
泉は目頭が熱を帯びるのを感じながら、真直ぐに浜田を見据えた。
「誰もが許さなくても、俺はお前が俺に触れる事を許す」

言いながら、叩き付けた手を解き、浜田の手の近くに置いた。

もし、これだけ自分の心を晒しても浜田が受け入れてくれなければ、もう二度と家には戻るまいと決めていた。
浜田が学校を卒業し、家業を継ぐ為に泉家を出たとしても、彼と共に過ごした思い出の多く残る家に居る事は耐えられないだろう。
次男である自分が家を継ぐ事も無いであろうし、軍に居る限り、住む場所と食べる物には困らない。

きな臭い世情を見る限り、戦場に出ることもありえるだろう。
いっそのこと、そこで散ってしまうのもいいかも知れない。
そんな風に思いつめていたのは数秒だったのか、数分だったのか。
見つめ続ける泉の視線から逃れるように目を背けた浜田は、その心の迷いを表すかのように落ち着き無く視線を彷徨わせると、やがて眉間に皺が寄るほどに強く目を閉じた。

「俺の中の好きって気持ちと、泉の好きは違うんだよ……俺みてぇな汚い気持ちなんて、泉は知らなくて良い」
搾り出すような言葉に、泉は目を瞠った。
「なんだよそれ……」
「俺は、泉の事が好きだ。でも、だからこそ泉に触れることは出来ないんだ」
かすかに震える声がはっきりとそう告げた瞬間、泉はそれまでの間頭の中を埋め尽くしていた問題が全て消え去ったように感じた。

今確かに、浜田は自分の事を好きだと言った。
ならば──

茶碗を跳ね除け、机の上に膝を乗せると、泉は上半身を伸び上がらせるようにして、伸ばされていた浜田の手を取った。
反射的に、浜田は伸ばされた泉の手から逃れようと腕を引いたが、泉の方が一歩早く、しっかりと掴んだその手を放すまいと力を込めた。

「それなら」

掴んだ手に滲んだ汗の冷たさと、耳の側に移動したかのようにうるさい鼓動が、泉の中で渦巻く焦燥を駆り立てる。

「俺から触れるから、浜田は全部俺の所為にすれば良い」

お互いに冷えていた手を握りしめると、触れた箇所で混ざり合った熱が全身に伝わり始め、徐々に頬が熱を帯び始めた。
「だから……だから、お前の事をずっと好きでいる事は許してくれ」

泉の切なる願いを世界から隠すように、外で一際強く吹いた風に、雨音に似た葉ずれの音が響いた。












(2010.10.1)
タジハナの雪明かりと同じ設定でのハマイズバージョンです。
浜ちゃんが別人になってしまい、修正できませんでした……浜ちゃんはやっぱりヘタレですよね!(←酷)