ある日常 「はわっ!」 練習を終えた後、部室で着替えていたメンバーは、花井が突然上げた奇声に、一斉に彼を振り返った。 「や、やめっ!たじ……!ひゃははっ!」 「花井感度良いなーほれ!」 「ひーっ!や、めっ!」 振り返った先には、その長身をのた打ち回らせ、声を上げて笑い悶えるランニング姿の主将と、その体に絡みつくように手を回し、脇腹や背中をくすぐっている田島の姿が目に入って、幾人かが苦笑いを浮かべる。 この西浦高校野球部無敵の四番の行動に、下手に口を挟めば自分がその餌食になる事を、全員がよくよく理解していたからだ。 が、花井が撃沈するや、次のターゲットを狙う目になった田島を見て、狭い部室にひしめいていた他のメンバーは、びくりと肩を震わせた。 「田島ぁ、疲れてんだからやめ……あははははっっ!やっめねぇっ…なはははぁっ!っこっの!」 同じクラスのよしみで止めようとした泉だったが、全く意に介さず襲い掛かった田島は、逆襲とばかりに泉に襲い掛かられた。が、彼は涼しい顔をして攻撃の手を全く緩めなかった。 「へ、へーん!俺、全然平気だもんねぇ!うりゃりゃりゃ!」 「ひゃははは!や……ぁっ!」 「うっわー……凄ぇ……泉が悶えてる……」 「早く着替えよう……」 水谷の言葉に、栄口が小さく呟いた途端、それを聞き咎めた田島の目がきらりと光り、次の獲物に狙いを定める。 「次は栄口だ!」 「ヒッ!やめてくれよ、俺くすぐられるのよわっ、てあはははははははははっ!」 栄口の隣で着替えていた水谷は、飛び掛るように栄口に襲い掛かった田島を避けると、着替えもそこそこに鞄から取り出した携帯を、まだロッカーに寄りかかって肩で息をしていた泉に向け、フラッシュ付きでシャッターを押す。 その瞬間、復活した花井を含めた全員が、内心水谷の冥福を祈った。 「水谷……テメェ覚悟は良いな?」 「え?ってか、冗談だしぃ……」 口ではそう言いながら、携帯をさっさと片付けた水谷は、鞄を引っ掴むと、泉の向こう側にある部室の扉に向かって走り出そうとする。が、西浦の切り込み隊長は、フェイントも何も無く、ただ横合いをすり抜けようとした水谷の襟首を掴むと、その脇腹をくすぐり始めた。 「この野郎!」 「いひゃひゃひゃひゃひゃっ!い、いずみ、テ、テクニシャ……ひゃひゃひゃひゃひゃ!」 蜘蛛の足のように、緩急をつけてくすぐられた水谷も笑い悶え始め、田島のくすぐりに身を捩る栄口と二人、狭い部室の中は一時騒然となったが、巻き込まれるまいと避難しようとしていた沖、西広の二人も、栄口から乗り換えた田島に襲われたり、悪ノリした巣山に襲い掛かられたりして、収拾が付かなくなり始めた。 「おい!お前等いい加減にしとけよ!」 主将であり、最初の被害者の花井がそう声を張り上げた途端、くんずほぐれつ、団子のようになって遊んでいた塊の中から、田島がひょこりと顔を覗かせ、にんまりと笑った。 「まぁまぁそう言わずにぃ。ほれ、もう一回やっちゃる!」 「待て田島!俺は!あははははははははははははっっ!」 一人後退り、逃げようとした花井だったが、学年一番の運動神経には敵わなかった。 再び田島の手に捕らえられると、今度は脇腹だけでなく、首筋や背筋、足の裏まで攻め立てられて、床の上でのたうち始め、やられたらやり返す、昔の法典に則ったくすぐりの応酬に、狭い部室には部員の嬌声が響き渡った。 と、その時── 「手前等!!何してやがる!!!」 怒号一声、どんなに気の強い奴でも絶対にビビる声音に、団子のようになっていた8人は、ピタリと動きを止め、声のした方、部室の扉に視線を向けた。 夜の闇と、気弱なエースを背後に従えた大魔王、こと阿部は、急に静かになった部員一人一人をゆっくりと見回すと、その顔を不機嫌そうに歪めた。 「お前等、そんなに元気があり余ってるならグラウンド10周くらい走ってくるか?あ?花井まで一緒になってんじゃねぇよ」 「花井は俺が巻き込んだの!悪くねぇよ!」 「やっぱり元凶はテメェか、田島……」 抗議の声を上げた田島に向かって鋭い視線を向けると、不機嫌を隠そうともしない阿部は、田島の両方のこめかみに握り拳を当てた。 「監督がいねぇからなぁ……今日は俺が代わりをやってやるよ!」 「いでででででっ!いだいいだい!!」 いつもは気弱なエース、こと三橋に対してだけ繰り出されるウメボシに、田島は悲鳴を上げ、されてもいない三橋も、阿部の背後で頭を抑えてしゃがみこんだ。 「まぁまぁ、阿部、それぐらいにして上げなよ、ちょっとしたイタズラなんだし、俺が乗っちゃったのも悪いしさ……ほら、三橋も怯えてるぞ?」 西浦の母や、菩薩との異名を取る栄口が、怒髪天を突く勢いで手首を捻り続ける阿部に取り成すと、阿部は仕方が無いとでも言うかのように息を吐き、田島を解放した。 「本当ならこんなもんじゃ済まねぇ事を覚えとけ!お前、今日練習前に三橋を餌食にしたらしいな。調子がおかしいからさっき問いただしてみたら、お前がいつ襲い掛かってくるか分かんねぇから、近くを通るたんびに反応してたらしいが、それでもし怪我でもさせたらどうするつもりだったんだ?あ?」 「えー?半分は俺の所為かも知れねぇけど、三橋がびくびくし過ぎなだけだろ?」 「まだ言うか!」 「待て待て阿部!もう許してやれ!な?」 再び拳を振り上げた阿部と、田島の間に割って入った花井は、そう言いながら、阿部の手に小さな鍵を手渡した。 「ほら、俺等はもう着替え終わるし、田島は連れ出すからさ、ゆっくり着替えろよ、な?」 「……しゃーねーな……」 「ほら、田島、さっさと着替えろ!」 田島を叱り付けて急かす花井に目もくれず、彼に渡された部室の鍵を握り締めた阿部の顔に、微かな笑みが浮かんだ事を、部員の誰も気が付くことは無かった。 今日の調子の悪さに、練習後二人でグラウンドに残ってミーティング(という名の阿部からの一方的な詰問)をしていた阿部と三橋の二人は、他のメンバー全員が居なくなった部室の中、特に何も話す事も無く、黙々と着替えを済ませ、荷物を片付けていた。と、思っていた三橋は、不意に「三橋」と声を掛けられ、びくりと肩を震わせた。 「何、あべっ!ふひっひひひひぁ!」 「うっは!……凄ぇ笑い声」 背後から気配を殺して近付いた阿部は、三橋の背筋を一撫でした後、脇腹をくすぐってやった時に零れた、三橋の笑い声に口元をたわませた。 だが、三橋は自分の笑い声が阿部の気に障ったのっだと思ったのか、両手を口元にあてがい、くすぐり続けられているにも関わらず、必死になって声を漏らすまいとし、海で揺らめく海草のように身を捩り始めた。 「っ、アホか!別に笑ってもおかしくねぇだろが!手ぇ離せ!」 言いながら、脇に当てていた手をそのまま滑り込ませ、背後から歯がいじめにするように抱きつく形になった阿部は、硬い手で三橋の手首を掴み、口元から引き剥がした。 「ご、めん……」 「謝んなっつーの。珍しいもん聞けてたのに」 阿部はわざと三橋の耳元に口を寄せ、声量を落として囁いた。 その途端、涙目で阿部を見つめる三橋の頬に朱が登る。 阿部と三橋は、互いを愛おしいと思い合い、それを認識しあっている。 阿部の誕生日から付き合い始めているのだが、まだキス止まりで、こうしたスキンシップですら、三橋の性格や練習の関係で、なかなか出来ずにいる。 実は田島が三橋を笑いよがらせていた事を知って、嫉妬に燃えていた阿部は、しかし三橋の怯えたような様子に自分の中の衝動を何とか押さえ込むと、三橋の左肩にあごを乗せ、寒そうなカッターだけの背中を温めようと体をぴったりと合わせた。 「俺こそゴメン。ちょっと悪ノリした。でも、三橋ももっと笑ったりしても良いんだぜ?やられたらやり返しても、全然大丈夫なんだし」 自分の鼓動が早さを増し、体温が上昇する。 十二月も半ばになり、暖房を点けていても、下着とカッターだけの今の格好では、風邪を引くこと請け合いなのだが、阿部は離れ難く思い、少しばかり体を固くしている三橋を、腕の中で半回転させ、向き合うようにすると、その唇に口付けた。 そっと触れるだけの物なのは、それ以上のキスにすれば、阿部の理性の箍が外れてしまい、ここで押し倒してしまう自信があったからだった。 だが、誰がいつ戻って来るかも分からないし、今、手元には何の準備も無い。おまけに明日も普通に学校も練習もある。 そうなると、夏に比べれば大分付いてきたとはいえ、体力と持久力の低い三橋が辛い目に合うだけなので、阿部としては、自分の衝動を押さえ込むしか無かった。 それに、まだ阿部自身が、事に及ぶだけの度胸を持っていなかった。 頭の中でどんどん膨らみ始める様々な妄想を、今日の授業で習った数式で追いやろうとした瞬間、阿部の背中に、何かがたどたどしい動きで一本の線を描いた。 「三橋?」 「し、かえ、し……。阿部君が、しても良いって、言った……」 いつものたどたどしい言葉で、僅かながらにこちらを見上げて呟く三橋の姿に、一瞬数式が吹き飛び始めるが、口元に心からの笑みが浮かぶ。 この気弱な恋人は、自分から何かをするという事が苦手、というか出来ない。 元々の性格に加えて、中学時代の経験もあって、この西浦でエースを張るようになっても、それが完全に払拭された訳でも無くて、時には阿部も苛立たされる事もあった。 それなのに、彼が今のような行動を起こしてくれた事が、また、それを自分にだけ見せてくれた事が嬉しくて堪らなかった。 しかし…… 「悪ぃ三橋。俺、全然平気」 にやりとそう笑うと、三橋の顔に驚いたような表情が浮かんだが、すぐに子供のような膨れ面になり、頬をリスのように膨らませた。 「じゃ、これは?」 そう言って、三橋は脇腹に手を這わせたが、阿部は全く動じず、三橋のなすがままになっていた。 「なん、で」 半ば意地になってきた三橋が、一生懸命に指を這わせようとするが、阿部は喉の奥で笑った。 「あのな、三橋。くすぐられるって分かっていると、結構平気になるんだぜ?それに俺、元々こういうの強いしな」 「ず、るい!」 「ずりぃ訳じゃねぇよ。体質みたいなもんなんだから」 随分と甘えた事を言ってくれる三橋に、阿部は笑顔が零れるのを止められなかった。 三橋がやりたいように出来るように、体の力を抜いていた阿部だったが、他の部員が見れば絶句するような全開の笑顔で三橋の体を抱きしめると、その首筋に顔を埋め、三橋の匂いを肺一杯に吸い込んだ。 「でも、そろそろお終いだ。この辺で止めとかねぇと、俺の理性が限界」 「で、も!」 どうやら阿部をどうしてもよがらせたいらしい三橋は、そう言ってまた背中と首筋に手を這わせたが、全く動じずに三橋の耳元に口を運び、その耳たぶを食みながら、阿部は小さく囁いた。 「じゃあ、三橋。今度お前の家に泊まりに行っても良いか?それなら、思う存分くすぐらせてやるぞ?」 柔らかい感触のそれに舌を添えながら喋ると、その触感に、三橋の体が電流でも走ったかのようにビクビクと震えたのが分かって、阿部は策士の笑みを浮かべた。 実はクリスマスイブの日に、三橋の両親が家を空けるという事を知っている。 本当は二人だけで過ごそうと計画していたのだが、部員全員が集まって、三橋が友人とはやった事が無いというクリスマスパーティーを開く計画があって、二人だけ、という重要なポイントを逃しかけていたのだ。 そこに持ち込まれたおいしい情報に、阿部はすぐにでも飛びつきたかったのだが、いかんせん、「こと」 への手順を色々と考える事に集中し過ぎて、今まで話を持ち出せずにいたのだ。 「どう?三橋」 再び優しく言い募ると、三橋はくすぐる事に集中していた手を阿部の背中にそっと添えて、自分から力を込めて抱き付いた。そして、僅かに首を伸ばすと、阿部の耳に口を寄せた。 「うれ、しい!」 待ち構えていたとはいえ、三橋からのOKの言葉と、吹きかけられたささやかな吐息に、阿部の体にも電流が流れ、びくりと震えた。 声にも行動にも出さず、心の中で喝采を叫びながらガッツポーズを繰り出した阿部だったが、不意に腕の中の恋人が体を離した事に気付いて、三橋の顔を見つめた。 「みは……?」 問いかけの言葉は、目をきらきらと輝かせた相手の顔に飲み込まされ、阿部は何が起こったのか分からずに固まった。 「阿部君、耳、なんだ!」 否、違うし。 そういうくすぐったいではなくて、違う意味だから。 という言葉を、あまりに嬉しそうな恋人の顔を目にしてどうしても口に出せない阿部は、がっくりと頭を垂れた。 こういう反応を理解してくれない三橋を相手に、「こと」を挑む自分は、エベレスト登頂よりも難しい事を挑もうとしているのかもしれない。 いや、それはそれでやりがいのある挑戦なのかも知れない、とも考えながら、阿部は三橋を開放すると、三橋にお泊りの許可を貰うという本懐を遂げた事もあって、今日の所は大人しく家路につく為に、支度を終えていなかった三橋を促した。 ハツ様、桐川様への捧げ物。 こんな物にしかなりませんでしたが、どうでしょうか…… 頑張ってみたのですが、イラ萌え難しいです……申し訳ありません。クロエにはこれが一杯一杯でした。次があれば頑張ります! |