BabyBaby -1-




土曜日の朝、花井は耳元でうるさく鳴り続ける携帯の呼び出し音に、眉間に深い皺を寄せながら、携帯を手繰り寄せた。
まだ早朝と言える時間で、もう少し暖かな布団で惰眠を貪れる予定だったのに、無残にそれを打ち砕いた相手を確認すると、花井は訝しく思いながら通話ボタンを押した。
「もしもし?」

『あ、お兄ちゃん?朝早くからごめんね』
寝惚け声の自分に対して、早い時間から元気一杯という気配の妹の声に、花井は眉を歪めた。
「こんな時間から何だよ一体」
『ちょっとお願いがあるの』
女からのこの言葉は恐ろしい。
それを経験から知っていた花井だったが、これを断るともっと恐ろしい事になることも分かっていた。



電話から一時間ほどして現れた妹は、しっかりとめかし込んで、満面の笑みを浮かべながら玄関先に立っていた。
「じゃ、悪いけどお願いね、お兄ちゃん!」
「ちょっと待てよ!おい!家に預けてくればいいだろ!」
「今お父さんとお母さん風邪引いてるのよ。向こうのお父さんお母さんは旅行だし。自分の子供抱えてるはるかの所は預けるわけにはいかないでしょ?だからお願い!お土産買ってくるし!あ、要りそうなものは全部、こっちの鞄の中に入ってるから。それじゃアキラ、行ってきますね〜v」
「こら、あすか!!」
兄の怒号など聞こえていないかのような軽い足取りで、自分の息子に向かって手を振った妹は、そそくさと玄関を開けて出て行った。

追いすがろうにも、足元に置かれた必需品が詰まっているというバッグと、キャリーケースに横たわる、生後5ヶ月ほどの甥とが邪魔をして、花井は動けなかった。
「ったく、あいつはー!」
柔らかい髪を乱暴に掻きながら叫んだ伯父を見上げて、赤ん坊は面白そうに笑った。





田島はその日、はやる心を押さえきれず、ランドクルーザーのステアリングを握る手に力が篭っていた。
丸々一週間だ。
一週間、遠征や何かで愛する人と離れていた。
その地獄のような期間が漸く終りを迎え、3日間の連休を得られた喜びに、顔には自然と笑顔が浮かんだ。

二人で共に暮らす為に購入したマンションの地下駐車場に車を置き、意気揚揚とセキュリティをパスし、土産と着替えが一杯に詰まっているバッグを背負って自宅に向かう。
今日帰れるという事を、待っていてくれる筈の人には連絡していない。
内緒で帰って、驚かせたかった。
まずそのサプライズの為の一歩として、いつもなら鳴らさずにいるチャイムを鳴らす。
鍵が掛かっていないのは確認済みだった。
昔からどこか甘いところのあるその人は、家にいるときはチェーンも鍵も掛けていない。無用心かとも思うが、結構なお値段のマンションだけあって、セキュリティはしっかりしていたし、高層階である事もあって、田島自身もあまり気にしていなかった。

扉の向こうから、ばたばたと足音が響いてくる。
ここを訪れるのは、昔からの友人達くらいなので、インターフォンで確認する事すら疎かになる事が多い。
今回も、幸運にもインターフォンチェックが入らなかったため、扉を開けた瞬間に思い切り驚いた顔が見られるだろう。そして、一週間ぶりの抱擁とキスを交わせる。
玄関でサンダルか何かに履き替える音がしたのを確認して、田島はドアノブに手を掛けると、勢い良く扉を引き開けた。
「ただいま梓―!」
笑顔全開、両腕をバンザイでもするかのように振り上げた田島は、未だに自分より背の高い相手に抱き付こうとした。
「え?悠……っ!ちょ待て!」
「ふえあああっ」
突然湧き上がった泣き声に、田島は振り上げた腕はそのままに、泣き声の発生源、花井の腕の中を見て目を丸くした。

「あずさ?」
「おっまえ!折角大人しくなってたのに!」
呼びかけに答えるどころか、いきなり怒り始めたパートナーに、田島は驚いた顔のまままじまじと彼の顔を見つめた。

「まさか……生んだ?」
「ああ?そりゃ誰かが生まないといねぇだろ」
不機嫌そうに言いながら、花井は少し落ち着きを取り戻し始めた赤ん坊をあやした。
「梓が?」

ポツリと呟かれた言葉に、一瞬花井の動きが止まった。
「は?……今、なんてった?」
まさかそこまで馬鹿ではないだろうと思ってはいたが、確認は重要だと考え直して、花井は恐る恐る問い返した。
「梓が生んだの?」
振り上げていた腕を漸く下ろした田島の返答に、花井は滝のように怒号を降らせた。





リビングに置かれた大きなソファの上に腰を下ろした花井は、目の前のラグの上に正座で座り込んだ田島の姿を、じっと見下ろしていた。
「で?事前に連絡してこなかった理由は?」
声に鋭い針を無数に含んだ言葉に、田島は大きな体を出来る限り小さくした。
「いや、だからさ、梓を驚かそうかなぁと思って……」
「あ、そう。でも俺、この前言ったよな?帰って来るときには連絡寄越せって」
言葉と共に冷たい視線が降り注いで、田島は居た堪れない気持ちになり始めた。

でも、何故帰って来て早々こんなに怒られなくてはならないのだろう?
「それよりさ、あの子は?」
少しでも話の矛先を変えようと話しかけると、黙れといわんばかりに睨みつけられ、田島は口を噤んだ。
そのあまりのしょぼくれ具合に、花井も流石に可哀相になってきたが、遠征から帰ってきた田島を迎えに行って、どこかで食事でもして帰ってこようと計画していたのを台無しにされ、少し機嫌が悪くなっていた為、ぶっきらぼうに「アキラだよ」とだけ答えた。

「え?あすかんトコの?へー!でっかくなったな!」
寝付いたため、自分達のベッドの上に寝かせてきた赤ん坊の方を見ようとでもしたのか、ソファの向こう側にあるベッドルームの方を見る為に、体を伸び上がらせた田島に向かって、花井は盛大な溜息をついた。
「今日は夫婦二人だけでデートすんだと。ウチの親は風邪だし、向こうの親御さんは旅行で不在、はるかのところも子供がいるから預けらんなくて、俺のところに連れて来たんだとよ」
「ふーん、そっかぁ」
返事を返しながら足を崩そうとした田島に一瞥をくれると、田島は再び正座に戻った。

「なあ、梓」
段々と怒りを解くきっかけを失いつつある事を自覚しながらも、それでも久し振りに顔を合わせたパートナーの姿に、落ち付きを取り戻し始めた心が、喜びの鼓動を刻み始める。
その時に問い掛けの言葉をかけられて、花井は顔を背けながら無愛想に返事を返すと、田島が足を崩し、花井に向かってにじり寄って来た。

「俺まだ聞いてないんだけど」
田島の言葉に、花井は何の事だか分からずに彼の顔を振り返った。
「は?何を聞いてないって……って、何寄って来てんだよ!」
じりじりと花井にのしかかるようにして近づいてきた田島に向かって叫ぶと、見覚えのある鋭い視線が、花井を真正面から見据えた。
「あずさ」
低い声が、耳だけでなく肌の表面からも吸収され、自分の真央に染み渡る。

何年も付き合っているのに、それでも馴染めずにいるのか、鼓動の速度が速くなるのを感じて、花井は眉根を寄せた。
「俺、帰って来たんだけど?」
下方から、僅かに上目遣いに見上げられる。
田島必殺のおねだりポーズだ。
この顔をされると、どうにも弱くなる。現に今も顔、特に頬が上気しているのが分かる。
「あずさ」
もう駄目だ。

計画を台無しにされて怒っていたこと等、もうどこかに消し飛んでしまい、体全体が愛する人を感じたくて、無意識に彼の背中に腕を回させる。
「お帰り、悠一……」
語尾を吸い取られるようにして、少しかさついた感触の唇が重ねられる。

挨拶代わりの浅いキスなど無く、最初からがっつくような勢いで貪られ、頭がくらくらした。
僅かに乱暴だと思える手技の所為で、時々歯がカチリと鳴るが、そんな事はどうでも良かった。
一週間ぶりに感じる狂おしい欲求に、二人は共に酔いしれていた。
「ふっ……ぅ…………んっ」
呼吸の度に漏れる鼻に掛かった声に、のしかかってくる重みに、花井は全身が快楽のための感覚器官にでもなったかのような錯覚を覚え、ソファの上に横たえられても、この先に控えているのであろう行為を、押し留める理性は働かなかった。

「会いたかった、梓」
唇を離し、どちらのものともつかない唾液に濡れた唇で囁かれると、自然に微笑が浮かんだ。
「俺も……悠一郎……お……」

「あっあっあああああーっ」

ベッドルームから、泣き声が上がったのはそんな時だった。
「アキラ?」
一瞬にして理性が自分の本分を思い出し、花井の中のスイッチを切り替える。
それを感じ取った田島は、自分の下に組み敷き、キスの合間にシャツのボタンをはだけさせた花井の意識をこちらに向けさせようと、彼の名前を呼んだが、全く効果は無かった
「おら、どけよ悠一郎」
「えー!あかんぼは泣くのが仕事だろー!」
「アホか!近所にも迷惑だし、あんま泣かせすぎっと、ひきつけ起こしたりすんだぞ!」
そう言うと、一向に自分の上からどかない田島の腹に一蹴りくれて、花井は転がり落ちるようにソファから下りると、ベッドルームへと姿を消した。

鳩尾に喰らった一撃に咳き込み、それが治まると田島は盛大に溜息をついた。
義理の妹のような存在とはいえ、何もこんな時に連れてこなくても、と恨めしく思いながらも、部屋着のスウェットに着替えようと、自分もクローゼットのあるベッドルームに向かった。
ベッドルームでは、キングサイズのベッドの上に腰掛けた花井が、横抱きにしたアキラを左右に振りながら、ぐずるのを何とか宥めようとしていた。
本当なら今頃、このベッドの上か、先ほどのソファの上か、二人で疲れ果てるまで絡み合っていただろうに、と思いながら、無言でクローゼットに向かうと、花井が彼を呼び止めた。
「何?」
一週間、一週間だぞ?俺、かなり我慢してたんだぞ?おまけに吃驚作戦は失敗で、こっちの方がびっくりさせられたし、踏んだり蹴ったり?ってまさにさっき腹に蹴り喰らったじゃん。何?俺今日運勢最悪?と思いながら振り返ると、はだけたシャツから覗く素肌が酷く誘っているように見える花井は、すまなさそうに眉尻を下げた。
「すまない、悠一郎。この埋め合わせはする」

そのあまりに申し訳無さそうな、情け無さそうな顔に、田島はさっきまで感じていた寂寥感などホームランのようにどこかへとかっ飛ばした。
そして、自分がなんとも思っていない事を伝える為に、ベッドに上がり、花井の元にはいずるようにして近付くと、柔らかい髪を梳きながら、こめかみや頬、そして唇の端に口付けた。
「気にすんな、梓。お前にもアキラにも罪はねぇよ。いちゃつくのはまた、いつでもできっからな」
言ってにかっと笑うと、花井の顔にも、安心したような微笑が浮かんだ。

「早く帰って来てくれて、嬉しかった」
満ち足りた笑顔で花井が囁くと、田島も小さく笑った。
「吃驚させようとしたのにさ、こっちが真剣にびびった!だってさ、梓に良く似てんじゃん?アキラって」
「そうかぁ?」
そんな他愛ない会話をしながら、徐々に田島のスキンシップがキスだけに留めて置けそうになくなり始めたとき、突然花井が田島に攻められた時のような声を上げた。
自分は何もしていないのに?と思って、花井の肩口に埋めていた顔を上げると、花井が顔を真っ赤にして小刻みに震えていた。
何事かと思い、ふと視線を下に向けると、花井の腕の中に居たアキラが、下着代わりに着ている白いシャツの上から、花井の胸元に吸い付いていた。

「ああっ!こらアキラ!」
「ぶあああああっー」
田島の声に驚いたのか、口を離したアキラは、再び盛大に泣き始めた。
「これは俺のだっての!」
アキラから引き離すように、花井の肩をぐいと後ろに引いた田島の言葉に、花井は全身を真っ赤に茹で上げた。

「あ、あっ、アホかーーーーーーーーーーーー!」

花井の本日二度目の怒号が、部屋の中に響いた。



必需品が入っている鞄の中から、固形ミルクと哺乳瓶を探し出し、メモに書かれていた分量を準備すると、花井はベッドルームで待機している田島とアキラの元に向かった。
「アキラ、ご飯の準備できたぞー」
人肌になっているかどうか確認の為に、自分の頬に哺乳瓶を押し当てながら部屋を覗くと、赤ん坊の軟語だけが出迎えて、花井は目を細めた。
それほどの時間をかけたつもりは無かったが、待ちきれなかったらしい田島が、ベッドの上で赤ん坊を小脇に抱えるような姿勢で眠っていた。

もう少し子供が大きければ、腕枕をしているようにも見える姿に、花井は頬を緩めた。
本当ならありえないショットだ。
思い立って、花井は踵を返すと、リビングの引き出しに片付けていたデジカメを手に、ベッドルームに舞い戻った。
「おーし、アキラ。これ撮ったらご飯だからなー」

伯父の言葉が理解できているのか、空腹の筈の赤ん坊は、両手足を打ち合わせるような姿勢で、じっとファインダーの方を見つめた。
そしてシャッターを押そうとした瞬間、アキラは天使の微笑みを浮かべた。



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あ、あれ?続く?(^^;)誰かがご希望下されば続くかもしれません。
個人的希望としては、○山あすか、○はるか。二人ともお兄ちゃんの野球の応援に行っていたのがきっかけになれば良いよ!(笑)