BabyBaby -2-




何かが白く閃いたのを、閉じた瞼の下で感じた田島は、浅い眠りの淵からゆっくりと意識を浮上させ、低く唸りながら瞼をこすった。
「っと、悪ぃ悠一郎。起こしたか?」
「んぁー……でーじょーぶ。そんなに寝入ってない」
何やら少し慌てたような花井の声に、田島は花井の顔を見上げた。

「何かあった?」
「何もない。アキラにミルクやろうかと思ってたとこだ」
そう言って、手に持った小さな哺乳瓶を振って見せた花井の、どこかよそよそしい気配に、田島の脳裏に何かが閃いた。
「梓」
「ん?何だよ。ほらアキラ。ミルクだぞー」
自分の横で寝転がっている赤ん坊を、ベッドサイドに立って抱き上げようとする花井のズボンのポケットに目をやった田島は、そこに長方形をした何か固いものが入っているのを見つけて、むくりと起き上がると手を伸ばし、問答無用でその中に手を入れた。

「おわっ!てめっ!何す……」
「何隠してんだよー」
抱え上げてしまったアキラを落とすまいとするが為に、碌な抵抗が出来ない花井は身を捩って逃れようとしたが、田島の固く大きい、以外に器用な手はするりとポケットの中身を取り出し、掌におさまるサイズのそれを見つめた。
「デジカメ?」
手の中の物体の総称を口にしながら電源を入れると、花井が慌てた様子を見せたので、田島は意地の悪い笑みを浮かべながら花井の手をかわし、メモリーカードの中のデータを呼び出す為にそれを弄くった。

すると、液晶モニターが切り替わった途端、赤ん坊の傍らで添い寝する自分の姿が一番に映し出され、田島は言葉を失った。
「うっわー……俺、あかんぼ梓に添い寝してる……」
「俺じゃねぇよ!アキラだ!」
腕の中でむずがるアキラの口元に哺乳瓶の頭を運んだ花井は、一心不乱に自分の顔を見ながらそれを吸い立てる甥に笑いかけ、安心させようと試みながら、モニターに見入っている田島を振り向いて声を張り上げた。
「えー?でも、やっぱ写真で見してもらった、お前のあかんぼの時と似てるって」
言いながら、視線はモニターから外さず、口元にえもいわれぬ幸せそうな笑みを浮かべた田島に、花井は首を傾げた。

「悠一郎?」
「なぁ!これから外に行かね?」
「はぁ?」
呼びかけに答えた、と言うよりは自分の思い付きを言う為に顔を上げた田島は満面の笑みを浮かべた。
「まだ昼だしさ、アキラも散歩に連れてってやろうぜ」
「でも、おま……折角の休みに……」
スポーツ選手にとって、時には必要な完全休養日に当てれば、と口を開こうとすると、田島の人差し指が伸びてきて、花井の唇にそっと触れた。

「ちょっと予定を変更するだけ。だってアキラは今しか居ないんだぜ?だったら伯父さんはかまってやれよ」
田島が言い出したら聞かない事を良く分かっていた花井は、小さく溜息を吐きながら、ミルクを飲み終えたアキラを抱えなおし、縦抱きにして口元にガーゼハンカチを宛がってやった。それから軽く背中を叩いてげっぷをするように促すと、田島をじっと見下ろした。
「お前も行くんだろ?だったらとりあえず着替えろよ。俺もじゅ……」
肩口で小さくげっぷをした甥が、それと同時にかぐわしい匂いを放ちはじめたのに気付いて、大人の二人は無言で鼻を抓んだ。
「ほれはたずへて、ひゅんびすっから……」
「うん゜わはっは」
鼻を抓んでいる所為で聞き取りにくいはずの言葉で遣り取りしながら、二人はそそくさと出かける準備を始めた。



5ヶ月ほどの赤ん坊と、プロの野球選手を引き連れての散歩となると、長時間出かける事は、花井にとって結構なプレシャーになったが、それ以上に苦になったのが、周囲から注がれる視線の痛さだった。徒歩で5分ほどのところにある広い公園に向かう道すがら、どれだけの人から好奇の目を向けられたのか、途中で数えるのを止めてしまった。
なのに、隣を歩いていた田島は子供服を扱う店のウインドウに目を奪われ、突撃する勢いで店の中に入ってしまい、花井は慌てて追いかけた。

他に客の居ない店の中、少し暇そうにレジカウンターで喋りこんでいた店員の気の無い返事に出迎えられた田島は、店員が彼の事に気付いた事を気にも留めず、目当ての商品が並んでいた棚に向かって突進した。
「なぁなぁ花井!これぜってぇ似合うって!」
そう言って目の前に掲げられたミツバチをデフォルメしたらしい服に、花井はげんなりと眉を下げた。
「田島……散歩に行くんじゃねぇのか?」
「えー?これも散歩だろ?。それよりさ、これアキラに着せてみようぜ!」
言うが早いか、縦抱きタイプの抱っこ紐からアキラを抱き上げようとしたのを見て、花井は慌ててその手を止めた。
「バカ、お前ちゃんと買ってからにしろよ!」
「試着ぐらい平気だろ?」
「赤ん坊の不意打ちと、よだれをなめんなよ?」

花井が呆れて呟くと、「じゃあ買ってくる」と、まるでお菓子を買いに行く子供のような勢いでレジに向かったのを乾いた笑いで見送ると、誰にも気付かれないように小さく溜息を吐いた。
アキラがスイッチになったのか、田島の今日のはしゃぎ様を見ていると、彼が子供好きなのが良く分かる。もちろん、自分も甥だけでなく、小さな子を見ると和むし、普通に可愛がるが、田島はそれ以上に可愛がっているように見える。

自分の子供を持つ、という選択を捨てた自分達にはありえないはずのこの状況を、ただ楽しんでいるだけなのかもしれないが、あまりに嬉しそうな様子を見ていると、自分自身が恨めしく思えてしまう。
もちろん、自分を否定したところで始まるわけではないと言う事は分かっているが、何ら実りの無い想いを受け入れ、返してしまった事で、田島の為にならない事をしているのではないか、という思いが頭をもたげ始めた。

昔から、どうしても時々考えてしまう問題に陥ってしまった事を誤魔化そうと、陳列されている子供服を見る振りをしていると、店員が寄ってきて横合いから色々と話し掛けてきた。だが、渦を巻き始めた思考に囚われていた花井は、気の無い返事を繰り返していた。

「花井?」

高校一年の夏の活躍から、お互いそれなりにもてていたのに、気がついたらもう彼の虜になっていて、彼に負けまいとする気持ちと、尊敬し、愛して止まない気持ちとにもみくちゃにされてここまで来た。
「おーい、はないー」
けれど、共に選び取った道が間違いで無いとは言い切れない。現に、自分の父親はいい顔をしていない。それなのに、まるで家族連れのように出歩くというシチュエーションに、少し浮かれている自分もいる。

「馬鹿だよなぁ俺……」
「梓が馬鹿なら俺はどうなんだよ。もっと頭悪ぃのに」

不服そうな声に我に返ると、いつの間にか店員は居らず、レジを済ませていた田島が不満げに眉をしかめ、拗ねた子供のように口を尖らせていた。
「何考え込んでんだ?何回も呼んだのに全然返事しねーんだもん。ほら、アキラも心配してんぞ?」

言われて胸元にある甥の顔を見ると、その感情こそ読み取れないものの、こちらをじっと見つめる視線とぶつかった。
「あー悪ぃ……心配掛けちまったか?アキラ」
「俺も心配したっ!ったく、冷てーなーあず……!」
家の中以外では許していない名前呼びを止める為、甥の頭を撫でていた大きな右手を、素早い動きで田島の顔面に張り付かせると、花井は指先に力を込めた。
「悪かったな。じゃあ行くぞ!」
「いてーっ!!」
野球を辞めたとはいえ、体を鍛える事は続けている花井の目一杯の握力を込められたアイアンクローに、流石の田島も悲鳴を上げて口を噤んだ。



くすくすと笑い続けていた店員に見送られて、三人は再び目的地に向かって歩き出した。
ランニングコースや、芝生の敷き詰められた広いフリースペースのある公園は、春休み真最中の所為か、子供の姿が多く見えた。
うららかな日差しが心地よくて、ついこの間までの寒さが嘘のように思いながらも、時折吹き付ける風が冷たく感じられて、花井は赤ん坊にブランケットを巻きつけつつ、アキラのための荷物を入れてあるデイバッグの中に忍ばせていた薄手の上着を、田島に向かって差し出した。

「結構風冷てぇから着とけ」
「ん。サンキュー」
ジーンズにパーカー、ノーブランドのキャップにスニーカーという出で立ちの田島は、大人しくそれを着込むと、嬉しそうに口元を緩めた。
「たまにはこうしてのんびり散歩すんのも良いな。なんか普通に親子連れみてぇな感じ」
おかしな事を言い出した、と、花井は僅かに眉をひそめた。
「いや、どーみても俺が父親で、お前は付き添い位にしか見えねぇだろ……」
「他人からどー見えるかじゃねぇよ。俺の気持ち的には、親子連れなの!」

笑顔のまま、2、3歩先に進んだ背中を見て、花井も苦笑した。
まったく損な性分に生まれてしまったものだと思う。
彼のように、自分の思うことを臆面も無く口にする事ができれば、こんな重い気持ちを抱えずに済んだかも知れない。

「花井も、どう思ってるか言えよ?」
まるで自分の気持ちを見透かしたような田島の言葉に、花井は心臓が跳ねるのを感じた。
そんな花井の動揺を感じたのか、先を歩いていた田島が足を止めて振り向き、真剣な表情で花井を見つめ返してきた。
つられるように足を止めた花井は、その瞳に宿る真摯さに微動だにできなくなり、跳ねる心臓の所為か、呼吸までし辛くなる。
「花井は分かりやす過ぎだよ。でも、分かんねぇとこも一杯ある。だからさ、もっといっぱい話してよ」

力強い瞳の奥に、自分が抱いた気持ちと同じ物が揺らめいているのを見て取って、花井は心がほぐれたのを感じた。
「そうだな、俺も言えば良いんだよな」
お互いにそんな遠慮などしない、と決めたはずのに、二人揃って遠慮している。
それに気付いて、込上げてきた嬉しさに自然と顔が綻んだ。
「なぁ、田島」
「なに?花井」
「俺を選んでくれて、ありがとな」

花井の一言にぽかんと口を開けた田島は、見る見るうちに顔を茹で上げてしまい、キャップを目深に被り直し、大きな手で口元を隠して殆ど表情をみせないようにすると、花井から顔を背けた。
「田島?」
「破壊力バツグンだぞそれ。あー抱きしめてぇ」
高校時代、身長差が大きかった間は良く繰り返されていた強襲を思い出し、思わず身構えてしまったが、必死に自重している今の彼の姿に、花井は声を上げて笑った。

散歩コースをのんびりと歩き、ちらほらと咲き始めた桜を眺めたりしながら、田島が持参していたデジカメで次々と写真を撮り始めた。
途中、ミルクやおむつの取替えに休憩をしている間も、お互いカメラマン役を交代したりして撮り合った。
大人達がはしゃいでいるうちにアキラが眠ってしまい、二人は家路についた。

暮れる町を、二人で他愛ない話をしながらゆっくりと歩いた所為で、行きの倍以上の時間を掛けてマンションに帰りつくと、ベッドに赤ん坊を寝かせ、花井は漸く重たい体を下ろせた安堵感に息を吐いた。
「ちょっと肩が凝っちまったな」
「あかんぼってさ、小さくても重たいよな」
ずっと眠っているアキラの頬をつつきながら田島は笑い、花井もそれに釣られて頬を緩めた。
「お前も、子供とか欲しいって思う事あるのか?」

意識せずに口から零れた言葉に、まるでそれを口の中に返そうとでもするかのように、花井は口元を手で隠した。
馬鹿な事を言った。
自分を望んでくれている田島に、そんな事を聞いても仕方無いのに、何故口走ってしまったのだろう。

けれど、そんな逡巡は次の瞬間に吹き飛ばされた。

「んー?そりゃあるよ」

天にいたはずなのに、一瞬にして奈落の底に叩きつけられた気がした刹那、眠る赤ん坊をいとおしげな目で見つめていた田島が、ついと立ち竦む自分に顔を向けた。

「俺と梓のさ、いいいとこばっか集めた子供とかいたらどんなだろ、って想像しねぇ?頭良くて、顔も綺麗で。んで野球のセンスはばっちり!身長もあってさ、昔対戦した佐倉みたいに十割ヒッターとかになったら凄くね?俺昔さ、男が子供産んじゃう映画とか見たことあって、あれ実現し無ぇかなとか真剣に考えた事あんだよね。したら梓に俺の子供産んでもらえんじゃん?……梓?」
くだらない夢物語だと、いつもの自分なら叱り飛ばしていたかも知れないが、今の自分には、喜びに涙を零す事しかできなかった。
小さく口の中で見るなと呟いて顔を背けたが、眉だけ困らせた田島が、優しく抱きしめてくれるのを跳ね除ける事は出来なかった。

それこそあかんぼうでもあやすように、背中をリズム良く叩かれながら、花井は田島の背に腕を回し、その背中を掻き抱いた。
「ごめ、ん……!」
自分の中の負い目に似たものから出た謝罪を口にしようとした時、少し乱暴に髪を掴まれ、伏せていた顔を上向かされると、言葉を唇で堰き止められた。

口内を動き回る田島の舌に翻弄され、やがて息が乱れ始めると、田島は安心したように花井を解放した。
体温が上昇してしまった所為で、お互頬に朱を登らせながら見つめ合うと、田島はもう一度触れるだけの口付けを花井の唇に落とした。
「頼むから謝まんな、梓」
言って頭を抱えられると、触れられた田島の手が微かに震えている事に気付いて、花井は目を瞠った。
「謝んなきゃなんねぇのは俺の方だ。お前ならきっと、いい家庭ってやつを作れたんだろうけど、俺はそれを奪っちまったんだよな……」
「悠一郎……」

花井は自分の気持ちをどう伝えれば良いのか分からなくて、全身を田島に預けた。
「なあ悠一郎……」
子供が甘えるように、田島の短い髪の感触を確かめ、堪能する為に頬を摺り寄せると、呼吸を整えた。
「……俺とお前の子供、女の子って選択肢は無いのか?」
この胸の内に溢れる喜びと感動、そして幸せを上手く伝えられる自信がなくて、花井にはそう言うのが精一杯だった。
現国の成績はそれなりに良かったし、本も結構な数を読んでいるのに、こういうときにどう言えば、自分の気持ちを素直に、正確に伝える事が出来るのか分からない自分は、やっぱり馬鹿なのだろうと思う。
けれど、僅かな間を置いて噛み殺すように笑い始めた田島の様子を見ると、いくらかは伝わったらしい。

「やっぱ凄ぇな梓は!」
とうとう堪えきれなくなって声を上げ始めた田島は、満面の笑みで再びキスを交わそうと花井の唇に、自分のそれを寄せたが、次の瞬間、数時間前に嗅いだ覚えのある臭気が立ち込めるのを感じて、二人で顔を見合わせた。

「あずさ……」
「悪ぃ、悠一郎……始末すっから離れてくれ」
「あと……」
「かぶれたりするし、不衛生だ。それにそのうち泣き出すぞ」

言うが早いかベッドの上でぐずり始めたアキラに、田島は恨めしそうな視線を向けたが、ふと何かを思いついたような顔をして、花井を腕の中から解き放った。
「俺、風呂準備する。ついでにアキラも入れる」
「は?まだちょっと時間早いぞ?」
つい今ほどの甘い雰囲気など無かったかのように、ばたばたと準備に動き始めた田島に声をかけると、昔とかわらぬ悪戯小僧の笑顔でニヤリと笑い返された。
「これ着せて写真撮りたい」
掲げられた黄色と黒の衣装に、花井はどう答えたものか思案した。



甥や姪の風呂入れを手伝ったという田島が、なれた様子で風呂に入れたアキラを受け取り、諸々の後始末をすると、満足そうに笑いながら手足をばたつかせる甥と、田島が着せたがっていた衣装とを順に見遣った。
「なんでこんなもんにこだわんだ?なぁ?」
言葉を解しない子供に真剣に問い掛け、訝しく思いながらも、この派手な衣装が気に入ったのか、それを見ながら更に興奮した様子のアキラに根負けした気分で、花井が甥をミツバチに変身させた頃、田島が濡れ髪のまま寝室に姿を現した。

「おお!やっぱ似合ったな」
「悠一郎……なんでこの衣装なんだ?」
ベッドの上に広げていた、細々としたベビー用品を片付けながら振り返ると、花井の素朴な疑問に、田島は意味深な笑みを張り付かせた。
「アキラは可愛いけどさ、暫く振りの俺達のおーせを邪魔するお邪魔虫だかんな。ついでに水を差す、にも引っ掛けてみたんだ!」
嬉しそうに語る恋人の言葉に、花井は呆れて良いのか怒って良いのか、どうしても判断がつかなかった。






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novelページの改造と共に一度消失してしまったので、ここのコメントに何を書いたかうろ覚え(泣)
シメ吉の馬鹿!
ご報告下さった方、本当にありがとうございますm(_ _)m
とりあえずもう少し続く、という事と、アキラ君のお迎えがいつになるのか……という事を書いたことは思い出しました。年をとったので物忘れが激しい……いや、元々か(撃沈)