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- SIDE-A -

西浦高校硬式野球部の初めての夏大が終わった。

好成績を残した事によって、クラブの扱いも少し良くなった秋、来年に向けての筋力強化に重点を置いたトレーニングメニューを、俺達は地道にこなしていた。
スポーツ新聞に、総評として書かれていた長打力不足は、俺達も全員痛感していて、日のあるうちはマラソンやダッシュ練習、すっかり早くなった日没後は、他のクラブとの共用のトレーニングマシンを使っての筋力アップが、俺達の日課になっていた。

「うー寒っ!汗で濡れたアンダーのまま出たら冷えちゃったよ」
「ちゃんと着替えるか何かしろよ?」
「お前が風を引くのは勝手だけど、俺達にうつすなよ」
タオルを取りに部室に行っていた水谷が、トレーニングルームに入るなり言った言葉に、栄口が親切な事をいってやったが、俺が冷たくそう言い放つと、水谷が「鬼」と小さく呟いたのが聞こえ、俺はマシンを動かす足を止める事無く睨み付けた。

今年の美丞大戦の時痛めた足は、もう完全快復していたが、来年はあんな事があっても、あそこまでの怪我をせずに済むようにと、俺はトレーニングに余念が無かった。
他のメンバーも、夫々が強化したい場所を重点的にトレーニングしていて、部屋の中の熱気は、暖房も不要にしてしまうほどだった。

俺の近くで、沖と共に肩や上半身の強化用に組まれたメニューをこなす三橋も、あの薄っぺらい体のどこにそんな力があるのか、ダンベルやバーベルを、ゆっくりとだが何度も上下させている。

西浦の長打力不足の他に、速球派投手がいない事をあげつらっていた新聞を、三橋が気にしているのを、俺は良く知っていた。だが、四月の段階からここまでで、10キロ以上のスピードアップと、神業のようなコントロールを共存させる事を可能にした、三橋自身の努力を根気良く説明し、来年までの筋力強化を頑張れと納得させるのに、俺はかなり苦労した。

「おーし、そろそろあがるぞ」
花井の声がして時計を見ると、すでに時計は八時半を示していて、俺達は道具の片付けを済ませると、揃って部室に向かった。

「今日は冷えるねぇ」
「年寄りくせっ」
「何だよ、事実じゃん」
巣山のツッコミに栄口が口を尖らせたが、不意に傍らにいた三橋に目を留めた。

「三橋、どうした?顔赤いぞ?」
「ふへっ、そ、そうかな……」
栄口の言葉に、俺も三橋を見たが、明かりの乏しい通路を通っている最中で、分かり辛かった。

「三橋」
「な、何、阿部君」
俺は普通に声を掛けたつもりだったが、三橋は俺にウメボシを食らう事を自覚している時の反応を見せた。また何か隠れてやってたのか?何にせよ、風邪を引かれるのはまずい。

「早く汗を拭いて着替えろ。それからしっかり水分摂れ。帰ったら風呂上りにもコップ一杯は飲めよ。間違っても湯冷めするまで布団の外に居るような真似はするなよ」
「出たよ、女房」
「ああ?」
田島のツッコミに、俺は眉を吊り上げて後ろに続いていた田島を振り返った。

「だってさぁ、阿部って三橋の事心配すんじゃん?んで、バッテリーでキャッチャーの事は女房って言うんだろ?だからだよ」
あっけらかんという田島に、花井も同意するように笑った。

「いやぁ、阿部はどっちかってぇと、母親だろ。三橋も大分しっかりしてきたけど、三橋が心配で仕方が無いって感じは……いや、すまん。俺が悪かった」
まだ何か言いたかったらしい花井は、俺の形相に気付いて口を噤んだ。

「あ、阿部君、大丈夫だよ。俺、一人で出来るから……」
三橋が、遠慮がちに俺の顔を見た。

無知なる残酷とはこの事か。

近くに寄ってきた事でが良く見えるようになり、トレーニング上がりのためか、確かに頬を赤らめている三橋の顔は、俺には目の毒だった。

この気持ちを自覚したのは、夏大予選前だが、それから約三ヶ月の間、自然と目で三橋の姿を追ったり、必要以上に構わないようにするのに、かなりの忍耐力を必要とした。
俺は、三橋に怒っていない事のアピールの為と、自分を落ち着かせる為に、小さく深呼吸すると、三橋の顔をまっすぐ見た。

「俺も、そこまで心配しちゃいねーよ」
そう言って、三橋の左肩を軽く小突いた瞬間、三橋はバランスを大きく崩して後ろによろめいた。

「おい!」
「うわっ」
「危ない!」

血相を変えた俺の叫び声と、沖や西広が手を差し出して三橋を支えるのはほぼ同時だった。
「大丈夫か三橋!」
「怪我は?」
言葉も出ないほど驚いた俺の代わりに、花井と巣山が叫び、俺達の大事なエースの様子を確かめた。

「だ、大丈夫。ちょっと、バランス、崩しただ……」
「ばっ……俺はそんなにきつくやってねぇよ!お前、まさか」
言い訳をしようとする三橋を制して叫びながら、三橋の額に手の平を当てると、案の定そこは平熱の時よりも熱かった。もう一度、確認の為に今度は手の甲を首筋に当てると、子犬の鳴きまねのような声を出して、三橋が体を固くした。

「やっぱり熱があんじゃねぇか!」
二度も確認した為、確信を持って叫ぶと、三橋はいつもの涙目になって謝り始めた。この野郎、分かってて練習に参加していたのか?!
「まぁまぁ、阿部、落ち着けよ。三橋も自覚無かったんじゃないのか?どう?三橋」
栄口の仲裁に、三橋はこぼれ始めた大粒の涙を拭いながら、小さく頷いた。それを見て、栄口が「な?」と俺を振り向く。

「〜〜兎に角、速攻着替えて帰るぞ。良いな」
大声を出しそうな自分をどうにか静めて、びくつかせないよう、優しく優しくと、自分に暗示をかけながら言うと、三橋は申し訳なさそうに、再び頷いた。



着替えを終え、恒例の寄り道に向かう一団とは別に、俺は三橋と一緒に、あのでかい三橋邸へと向かっていた。
「あ、阿部君、俺大丈夫だよ?だから……」
並んで自転車を押しながら、俺を帰らせようとする三橋を、俺は無言のまま横目で見た。

別に睨み付けている訳でもないのに、それだけで三橋は体を小さくして口を噤む。
合宿以来、少しづつ、本当に少しづつだが俺達は互いを良く理解しようと努力し、多少なりとも成果が上がっていると思うのだが、三橋の生来の引込み思案と、俺の口の悪さが、時々それをややこしくする。

「俺の事こそ気にすんな。お前、さっき自転車乗っててもこけそうになったの忘れたのか?絶対ぇ家まで送ってくからな」
断固とした口調で言うと、三橋はまた顔を伏せ、眉を八の字に歪めた。

本人は気付いていないのか、歩きながらでもふらふらとした足取りで、まっすぐには歩けていない。
千鳥足とまでは行かないが、俺があんな風になるのは38度を超えた熱が出ているときだ。だけど、自転車二台と三橋を抱えては歩けない以上、せめて家までは帰り着いてもらわないと困る。
投球の調子や、野球の話で気を逸らしながら歩き続けていると、何とか三橋の家まで辿り着く事が出来たが、俺は家を見て眉間に深い皺を刻んだ。

「三橋……」
「何、あ、阿部君」
「今日、おばさん達は?」
俺の問いかけに、三橋はゆっくりと俺から視線を外した。

「今日、は、二人とも出張……俺、一人で……」
電気が一つも点いていない家から三橋に視線を移して、俺は青ざめた。

普段の三橋なら、別に一人で留守番をする事に何の問題も無いだろう。だが、今日の三橋は風邪から来るものなのか熱が高くなり始めている。それを一人で置いて行けるほど、俺は人でなしではない。
俺はおもむろに携帯を取り出すと、電話を掛け始めた。

「阿部君?」
「ああ、シュン?俺。今日ちょっと三橋ん家に泊まらせてもらうって言っといて。……なんでって、三橋が熱出してんのに、三橋ん家誰もいねぇんだ。……あぁ?ざけんな!てめ、待てコラ!」
電話口の弟に向かって叫んだ俺に、三橋は驚いた顔のままびくりと体を震わせ、俺が携帯を片付けると、おずおずと声を掛けて来た。
「あの、阿部君?」
「悪いけど、今聞こえた通りだ。今日、お前ん家泊まらせてもらうからな」
弟とのやり取りの憤慨が収まらず、少し不機嫌気味に話してしまった俺は、言うやいなや、慌てて三橋を振り返った。

「言っとくけど、お前今日調子悪いのに一人で置いとくのが心配だし、飯とか色々、自分でやる事を考えるより、体休めて、熱下げる事に集中しろって事だからな」
一気にまくし立てるように喋ると、三橋は見開いた大きな目をぱちくりとさせ、やがて俺の言った事を理解したのか、「ウヒ」と、いつもの笑顔を浮かべた。

「あ、ありがとう。阿部君」
……ああ、三橋も成長したよなぁ……少し前なら、多分青ざめた顔で、まだ俺を家に帰らせようとしていただろう。そして、業を煮やした俺がウメボシを繰り出していた筈だ。

「とにかく入ろうぜ、冷えたら熱が上がっちまう」
目頭が熱くなりかけた事を誤魔化す為、俺は三橋を急かして門扉を潜った。



俺は勝手知ったる他人の家である三橋の家の中を、取り敢えず真直ぐ三橋の部屋へと向かった。

ふらふらと、危なげな足取りの三橋を、それとなく支えるようにして辿り着き、部屋の電気を燈すと、三橋は力尽きたかのように、その場に座り込んだ。
「おい、三橋。こんなとに座り込むな。せめてベッドへ行け」

俺の言葉に、三橋は情けない声で答えた。これは熱が上がってきた証拠だろう。何とか立たせてベッドに連れて行くと、俺は着替えるように言い置いて、階下のリビングとキッチンに向かった。

夏大以後、夏休みの宿題をする為や何かで、野球部のメンバーで何度か集まった事があり、三橋の家の中の事はかなり知っていた。そのお陰で、救急箱の中の常備薬を出し、氷枕を準備するのに、何の問題も無かった。

キッチンに入ると、三橋のおばさんが準備していたのだろう夕食があったが、あいつが食べられるかどうか不安があったから、適当に鍋を拝借すると、おかゆを作り始めた。
時々、自分一人で留守番をしている時に作る程度の料理経験だが、おかゆ位は何の問題も無く作れる。っていうか、俺は作れない奴が信じられない。

味付けは塩だけのおかゆを作っている間に、冷凍庫をあけて氷枕を出したり、薬の為の水を準備していると、ふと背後に人の気配を感じ、振り返った俺は血の気が引くと共に、こめかみの青筋を立てた。

「何してんだ三橋!お前は寝てろ!」
「だ、だって、阿部君のご飯とか、いろいろ、分、かんないかと、思って……」

俺の言い付けどおり、部屋着に着替えた三橋は、熱で上気した頬は赤いまま、俺に怒鳴られて青くなり、目には涙を浮かべているというのに、泣き笑いのような変な顔をしていた。

「良いから布団に戻れ!もうちょっとでおかゆが出来るから、それ持って俺も行くし!その時も起きててみろ、病人でも容赦しねぇぞ!」
「は、はいいっ!」
やっぱりふらふらとしながらも、何やらにやけた顔で二階に上がっていった三橋を見送ると、俺は鍋の火を止め、適当な器に三橋の分のおかゆを盛って、二階へと上がって行った。

「三橋ー入るぞー」
扉の前で声を掛け、引き戸を開けると、俺の居ない間に、俺用の布団を用意していた三橋は、けど流石に言いつけどおりベッドに入っていた。そして俺の姿を見ると、上半身を起こして俺を出迎えた。
俺はトレイに乗せたおかゆやコップを隅に追いやられていたローテーブルの上に置き、小脇に抱えていた氷枕を三橋の頭に乗っけてやった。

「三橋、熱測れ」
一緒に持って上がった体温計を渡すと、三橋は頭の天辺に乗っけたままの氷枕を下ろす事もせず、器用にそのまま体温計を胸元から脇に差し入れた。
「……お前、氷枕下ろせよ……」
俺は笑いを必死に堪え、冗談で乗せた氷枕を取ってやり、枕の上に置き直した。
やがて体温計が仕事を終えた事をアラームで知らせ、三橋がそれを取り出して数字を見るや竦んだ。

「三橋、何度だ?」
「8度丁度……あの、でも寝てれば平気!」
そそくさと体温計を片付け、桐青戦の時のようなテンションで振舞う様子に、一瞬救急車を呼ぼうかとも思ったが、俺は内心の焦りを押し殺して、三橋の顔色を窺った。

「食欲はあるか?ちょっとでも食って、薬飲んで寝ろ。それで下がらなかったら病院行きだ。いいな」
俺の言葉にうんうんと何度も頷くと、三橋は俺の作ったおかゆを物凄い勢いで食べ始め、あっという間に平らげた。そして、解熱剤を飲むと、氷枕に頭を乗せ、満足したように大きく息を吐き、目を閉じた。それを見て少し安心した俺がその場で立ち上がると、気配で気付いたらしい三橋が、小さく声を上げた。
「何だ?三橋」
「どこ、行くの?」
甘えたような声で囁かれ、俺はびくりと体を震わせた。

落ち着け俺、今三橋は熱が出ているんだ。潤んだ目で見上げて来るからといって、いちいち反応している場合じゃない。
「どこにも行かねぇよ。もう一回家に電話して、着替えとか持ってきてもらおうかと思っただけだ。心配するな」
無意識に口の端を笑みの形に歪めると、三橋もふにゃりと笑った。
「ありがと、阿部君……」
そういうと、限界だったのか、三橋はすぐに寝息を立て始めた。

俺は何度か呼びかけて、全く起きる様子が無い事を確認すると、意を決して体温計をもう一度三橋の脇に差し入れた。
暫しの静寂の後、かすかな電子音がしてからもう暫く置いて、体温計を取り出すと、案の定、熱は8度5分を示していた。
俺に確認させる間も無く片付けた時からおかしいとは思ったが、やはり熱は高い。

内心かなり焦りながらも、俺は自分の携帯を手に取ると、三橋の部屋から出た。

一度眠ってしまうと、小一時間は起きない三橋だが、側で話し込んでいればそうも行かないだろうと、一階のリビングに下りて、自分の携帯で家に電話を入れた。

シュンからちゃんと伝言を聞いていたらしい母親は、三橋の容態を色々と聞き出し、「要りそうな物を持っていくわ」という言葉を最後に、通話を切られた。
親を待っている間に、三橋のおばさんが息子のために用意していた夕飯を、勝手に食べさせて貰った。
部活後の欠食児童に、夕飯抜きはきつい。それに、何か温かいもんを摂取しないと、こちらも風邪を引きそうな程、だんだん冷え込んできた。

夕飯をご馳走になり終わり、洗い物を片付けていると、俺の携帯の呼び出し音がなり始め、慌てて置いていたリビングに取りに行くと、母親からのメールが入っていた。

『着いたよー』

簡潔な文面を読み終わると同時くらいに、玄関の呼び出しベルが鳴り、上の三橋に聞こえているんじゃないかとひやひやしながら、玄関に向かった。

「三橋君の具合は?」
開口一番にそう訊きながら、俺の荷物が入ったバッグを押し付け、家の近所のコンビニの袋に、解熱シートとスポーツドリンクの2リットルペットを入れたものを持った母親が、家の中を窺うように入ってきた。
「さっき熱測ったら8度5分あった。今は薬飲んで寝てるからわかんねぇ」
玄関から先に上がろうとはせず、「そう……」と呟くと、母親は暫く思案顔だったが、やがて何かを決めたらしく、片付けていた携帯を取り出した。
「今夜一晩は様子を見ましょう。母さんから三橋さんには連絡入れるわね、で、あんたは三橋君に付いててあげなさい。いいわね」
言いながら、アドレス帳から検索を掛けた三橋のおばさんの携帯番号に掛け始め、意外に声の響く玄関から外へと一旦出て行った。

俺は荷物の中身を確認し、厚手の上着があるのを見付けて着込むと、渡されたコンビニ袋を片手に、三橋の部屋へと上がっていった。
音を立てないよう、静かに引き戸を開けて中に入ると、うなされたようなかすかな声がして、俺は慌てて三橋の側に寄って、ベッドサイドに腰掛けた。

「三橋?」
俺の声に、三橋はかなり眠たそうに目を薄すらと開けた。
「阿部……君……」
名前を呼びながら、まるで赤ん坊のように笑った三橋の顔に、俺の心臓は鼓動を早めた。

熱が高い所為で眠りが浅いのだろうかと思いながら、部屋の電気を眩しくない程度に燈し、袋の中の解熱シートを取り出すと、三橋の前髪を押し上げて額に貼ってやった。
「うひゃ」
半分眠っているのに、いつものような奇声を聞いて、俺はほんの少し安心した。

「気持ち良いか?」
「うん、気持ち、良い、よ」
眠気といつものキョドリとで、単語毎に区切りながら喋る三橋の額に、俺は手を添えた。

今日、ここまで三橋の体調が悪くなる事を見越せなかった自分が、どうしようもなく許せなかった。
でも、本当に許せないのは、そんな状況にあるにもかかわらず、三橋を独占できる時間を得る事が出来て、嬉しくて仕方が無い気持ちが、一番許せなかった。
俺は、三橋を見つめる事が出来なくなって、床に視線を落とした。

「阿部……君?」
「何だ、三橋。飲み物か?」
呼び掛けられ、顔を上げると、何やら心配そうな顔をしていた三橋が、また笑った。

俺の問い掛けに、「違う、よ」と答えると、三橋は俺の目を真直ぐ見つめて口を開いた。

「お、俺、今日は凄い嬉しい。阿部君の作ってくれたおかゆ、食べれたし、二人だけで、ゆっくり喋れる」
ゆっくり……まぁ、確かに今はそうだが、少し前まで怒鳴っていた記憶しかないぞ?俺は。

俺だって、三橋とは普通に喋りたい。でも、話題を探すより先に、つい気になる事柄を見つけてしまい、そこを指摘してしまう。そうするともういつものパターンで、謝る三橋を怒鳴りつけてウメボシを喰らわせる。

……俺の未来の展望は、限りなく暗い気がしてきた。

何気に落ち込んだ俺が顔を伏せると、三橋は布団から手を伸ばし、俺の上着の裾を引っ張り、自分の方を向かせた。
「あ、の、阿部君」
「……どこにも行かねぇから、寝ろよ三橋。な?」

「好きだ」

熱で朦朧としているのだろうに、まだ話したそうな三橋を眠らせようと、俺がなけなしの理性で笑みを浮かべた途端、三橋は10トン爆弾並の言葉を放った。

「俺は、阿部君の事が、好きだよ。ずっと一緒にいたいし、ど、独占したい。駄目だって分、かってるけど、俺の事だけ、見て、俺の球だけ、捕って欲しい」
最初の言葉の衝撃から立ち直れず、呆けたような顔をしているであろう俺を翻弄するように、三橋はたどたどしいながら、言葉を紡いで、俺に潤んだ目で訴えかける。

「お、俺に、阿部君を下さい」

冷静な自分は、「嫁を貰いに来た彼氏かよ」と、ツッコミを入れたが、三橋の言葉を理解した大半の俺は、どこかで鳴り響くファンファーレの幻聴に耳を傾け、高鳴る心臓が送り出す大量の血液に、顔が真っ赤になるのを押さえられなかった。

先手を打たれた軽い悔しさはあるが、それを大きく上回る嬉しさは、今まで感じた事の無い種類のもので、俺は、三橋の額に置いたままだった左手を滑らせ、あまり日に焼けない白い頬に添えた。
「三橋……」

うっすらと汗の浮いた首筋から上る熱で、熱に浮かされているだけだと警告する理性が溶かされ、俺の中は、三橋への想いだけで一杯になり、俺は三橋の顔に、自分の顔を近付けた。
三橋も、俺が何をしたいのか察したのだろう、ゆっくりと目を閉じた。

「俺も、お前が好きだ。俺達の投手としても」
同性とか、時々ムカツク事とか、全て丸ごと、三橋廉という存在が好きだ。そう続けようと、顔を近付け、柔らかそうな唇に、自分のそれを触れ合わせられるような所まで迫っていた、まさにその時だった。

「タカー、どこにいるのよー」
扉の向こうから、母親の声がして、俺はびくりと肩を竦め、弾かれたように扉のほうを見た。
幸い、部屋の引き戸を閉めていた為、覗かれた様子は無かったが、どこから俺を呼んだ?

「タカー」
遠くからの呼びかけの声に、微かな怒気を感じ取って、俺は泣く泣く三橋から体を離した。
チクショウ。いいところなのに……!!
「ちょっと待ってろ、みは……」
愛しい投手を振り返った俺は、すやすやと再び寝入った三橋に、がっくりと項垂れた。

分かってる、今こいつは熱が高いんだ。いつもの三橋じゃないんだ……

久しぶりに悔し涙を流したくなりながら、俺は三橋の部屋を後にし、一階に居た母親の元に向かった。
「ちょっとー、呼んだらすぐ来てよ」
子供みたいに口を突き出しながら文句を言った母親に、三橋のおばさんへの電話の事を尋ねて話を逸らすと、そうそうとか言いながら小さく手を叩いた。

「あんた、今晩一晩お世話になんなさい。その代わり、三橋君の看病しっかりやんなさいよ?あんたいっつも三橋君にウメボシしたりして苛めてるじゃない?母さん三橋さんに申し訳なくてさぁ……三橋さんも、明日朝一番に戻るって言ってたし、この機会に仲良くなんなさいよね」
そう言い置いて、さっさと車に戻って言った母親を見送ると、俺は盛大なため息を漏らした。

仲良くなれそうだったところを邪魔したのは誰だよ!

心の中で叫びながら、俺は風呂を借りようと、バスルームに向かいかけて、リビングで何かが光っているのを見つけた。
緑のランプを点滅させていたのは、置き忘れていた俺の携帯だった。

部活のメンバーの誰かからメールが入ったのかと見ると、案の定、花井と栄口の二人と、珍しく泉から入っていた。
花井と栄口は、三橋の具合を純粋に心配した内容のメールで、俺は泊り込みで看病をする事を伝えた。そして泉のメールを見て、俺は血の気が引いた。

『急いては事を仕損じるぜ。今日は我慢しろ』

……どこまで見透かしているんだ……
俺は体を震わせると、気持ちを切り替え、風呂へと向かった。



翌朝、あまり眠れない一夜を過ごした俺は、ぐっすり眠った三橋の熱が微熱程度に下がった事を確認した後、起きた三橋一人を残して家に戻った。眠気もそれ以外も、もう我慢の限界だった。

夕べの事は何一つ話さず、寝不足からくる不機嫌そうな顔の俺にビビりながら見送ってくれた三橋の顔を思い出して、俺はベッドに突っ伏すと、笑いを噛み殺した。

三橋が元気になっただけでも嬉しい。
俺の作ったおかゆを、凄ぇ勢いで平らげてくれただけでも嬉しい。
熱に浮かされただけかもしれないが、俺の事を好きだと言った。
俺を欲しいと言ってくれた。
駄目だ。これだけ煽られた以上、もうこれからは容赦しねぇ。
ああ、でも、このニヤケ顔を何とかしないと、今日学校に行けねぇな……

「兄ちゃん……」
見たくない物を見たような声に顔を扉の方に向けると、開け放ったままのドアの向こうで、シュンが変なものを見たような顔でじっと佇んでいた。その途端、夕べの電話を思い出して、俺はベッドの上で体を跳ね起こした。
「シュン、てめぇ、人が居ない間にプレステ持ち出すなって、何遍言った?コラ!」
「何でこんなに早く戻ってんだよ!」

自分の部屋に逃げ帰ろうとしたシュンを捕まえ、三橋にするときよりも3割増しの力でウメボシを食らわせながら、俺は心の中で小さくシュンに感謝した。

こんな事でもなけりゃ、気持ちを切り替えるきっかけは無かっただろう。
俺たちのやり取りに気付いた母親に怒鳴られながら、俺は手を休める事はしなかった。






熱を出した時の様子と、シュン君の行動はクロエの実体験(笑)
八度を超えた目安になるのですが、大体このまま仕事をこなす。そして帰ってダウンした後、特に薬も飲まず、病院も行かず、一晩寝て下げる。一度風邪薬を飲んだら、副作用の方が辛かった。プレステ持ち出しはシメ吉では無く弟。シメ吉は壊す。(爆笑)