キャッチボール

ゴールデンウィーク前のとある日曜日、その日は去年と同じように組まれた合宿の準備を整える為に、午後からの練習は無かった。
だから、前々から打診されていた提案を、その日に受ける事にした。

グローブとボールを手に、河川敷のグラウンドに向かいながら、自然に頬が緩むのを堪えられず、三橋が思わず声を出して笑うと、並んで歩いていた叶が顔を上げた。
「何だよ廉、変な声出して」
「うおっ、へ、変?」
「面白いけどな」
そう言って笑った叶の笑顔に、三橋はつられて再び笑った。

叶から遊びに行っても良いかと問われたのは随分前だ。
けれどお互いに練習があり、シーズンオフの冬の間も時間が噛み合わず、結局今日になった。
前日の土曜の夜から埼玉に来て一晩泊まっているのだが、三橋が午前中練習に出ていた間、家の周りで走り込みをしたり、庭で投球練習をしていた叶は、帰ってくるなりキャッチボールをしようと切り出してきた。
庭でやろうかとも思ったが、万が一の暴投が怖かったので、結局近くの河川敷に行くことになった。

「お互い、あんま投げられねぇけどなぁ」
所属する学校は違えど、同じく投手をしている叶もまた投球制限を受けており、肩慣らしといえどもそう多くは投げられない。
それでも、久し振りにする叶とのキャッチボールに、三橋は嬉しさでにやにやしたまま、叶の言葉に頷いた。
「で、も、全力でなかったら、平気だよ、ね?」
三橋の言葉に、叶は大きな目で勢い良く振り返り、見つめられた三橋は思わず肩をびくりと震わせた。
無意識に謝罪の言葉を紡ごうとすると、それより早く叶の目が細められ、満面の笑顔が浮かんだ。
「だよな!肩慣らし肩慣らし!」
叶の嬉しそうな様子に、三橋も心底嬉しくなって笑った。

リトルリーグの子供が試合をしていたグラウンドを避け、少し開けた他の人の迷惑にならない場所を探した二人は、少し距離を取って立つとグローブを嵌めた。
「行くよー修ちゃん」
「おーいつでも来い」
ボールを握っていた三橋が声をかけると、叶はグローブを掲げて見せた。

肩に負担のかかる速球は投げず、山形の弧を描く球を投げると、その場から動かずに、叶はピッチャーフライでも取るかのように捕球した。
そしてそれを持ち替えると、三橋に向かって投げ返す。
昔は良くやった友人との久し振りキャッチボールに、三橋は嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
「ありがと、修ちゃん」
球と共にそう投げかけると、叶は何の事だか分からず、首を傾げながら「何が」と問い返した。
すると、返された球ごとグローブを抱えるようにして立った三橋は、真直ぐに叶を見て口を開いた。

「あの、中学の時、野球やめるなって、言って、くれて、ありが、と」

三橋から飛び出した言葉に、叶は目を瞠った。
中学でエースを張るようになった頃から、三橋は自分から誰かに話し掛けるという事を極端に避けた。
それはもちろん、今もチームメイトである三星ナインのごく一部の者が原因なのだが、それを知っていながら守りきれなかった自分の、精一杯のエールに礼を返されて、叶は少し面食らった。
「何だよ、藪から棒に……ほら、球寄越せよ」

照れ隠しにボールを要求すると、三橋は小さく頷いて球を返してきた。
「俺、今凄く野球、楽しい。けど、それは、修ちゃんが、やめるなって言って、くれた、からだから……」
濁された語尾は、きっとまたありがとうに繋がるのだろうと思いながら、叶は思い切り照れてしまって、ボールを持ったまま、グローブに埋めるようにして顔を隠した。
「しゅ、しゅうちゃ……?」
自分の様子がおかしくなったことに動揺した声を上げた三橋を、きっと赤くなってしまっている頬を見られないよう、目だけを覗かせると、握っていたボールを投げ返した。

「ちぇっ!反則だっての廉!そんな事急に言われたら、すげぇ恥ずかしいじゃねぇか」
ボールを受け取って、叶の言葉を聞いた三橋は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに昔のように少し遠慮がちな、けれど彼なりの全開の笑顔を浮かべた。
小学生の頃はいつも見ていた笑顔だが、いつしか見られなくなっていた笑顔を、自分の手で取り戻してやれなかった悔しさが頭をもたげる。

去年の五月、三星で行われた練習試合の後、もう一度三星で一緒にプレイしたくて、中学からの持ち上がり組全員で謝り、戻ってくるように説得しようとしたとき、三橋の後ろでじっと動かなかった捕手の姿を思い出して、叶は眉を顰めた。

あの時はそうも思わなかったが、阿部は三橋にとって無くてはならない存在になったらしい。
お互いが夏の初戦を終えた翌日から、時々やり取りするようになったメールには、かなりの高確率で阿部の名前が出てくる。
長文を打つわけでは無いのだが、その短いやり取りの間に「阿部君は」「阿部君が」と、自分の事以上に出てくることがあるので、軽く嫉妬じみたものを覚える。
三橋の野球においての一番の理解者は自分であったはずなのに、半年もしないうちに三橋の中で阿部は絶対的な位置につけ、友人としても親密らしい。

三橋が居ない間に覗いた部屋の中に、三橋が買いそうにない野球雑誌や、理論系の本が置いてあるのを見つけて三橋の母親に尋ねると、阿部が遊びに来るたびに置いていったり、入れ替えたりしている物だと知った。
泊りがけで勉強や野球の事を教えてもらっていて助かる、という彼女の嬉しそうな言葉に、普通の捕手はそこまでやらない、という言葉は飲み込んだ。
自分がもし畠にやられたりしたら、部屋から蹴り出しているに違いない。
けれど、三橋自身に確認してみてもそれは不快ではないという返事が返ってきたので、それ以上口は出せなかった。

「ほら、廉。球寄越せよ」
「うん!行くよ!」
体を動かすと汗ばむような気温だが、川を渡る風が涼を運んでくれて心地良かった。
「なぁ、廉」
「なに?シュウちゃん」
叶は乾いた音を立ててグローブに納まったボールに、揃えた人差し指と中指を添えた。

あまり肩に力を入れないように気をつけながら、三橋に対して少し斜に構えを取る。
「うえ、しゅ、しゅうちゃん?」
叶が何をするつもりなのか察して狼狽する三橋を余所に、叶は左足を持ち上げて投球フォームに入る。

ぎりぎりまで迷う。
この球を投げるべきかどうか。
投げる事で何かが変わるのかもしれないが、もう手遅れなのかもしれない。

グローブから右手を抜き、捻りを加えながら腕を振りぬいた。





だが、続く筈の乾いたキャッチ音は響かず。三橋も動かなかった。

「やっぱばれたか」
左手のグローブの中に収まったままの白球を放り上げると、叶は笑った。
「やっぱ廉は目が良いよな。織田とかでもたまにこれ、びびんだけど」
ほんの悪戯、という風を装いながら、叶は胸に生じた小さな痛みに竦んだ。
この一球に、三橋に対する色々な気持ちを込めて投げようと思った。
けれど、今の彼はもう自分の知らない物を多く抱えて立っている。そんな彼に、今更自分の中の愛惜の念や寂寥をぶつけたところで、迷惑以外の何物でも無いのだ。
だからとっさに手を離し、フォームの真似だけして見せた。

「そろそろ帰るか。俺も三星に帰んなきゃなんねぇし」
声が震えそうになるのを、大きな声を張り上げる事で誤魔化しながら、叶はグローブから手を抜き、キャッチボールの終了を告げた。
自分の帰る場所は三星なのだ。いつまでも未練たらしく留まって、三橋に戻ってくるようにと言ってしまう訳にはいかない。
「ごめんね、しゅうちゃん」

何故か声を震わせて謝った三橋の顔を見ると、泣いているのかと思った顔には、真剣な表情が浮かび、いつもどこかおびえたような光を宿していた目が、今は強い光を灯してじっと自分を見据えていた。
「それから、ありが、とう……また、キャッチボール、しよ?」
三橋の言葉に、叶は困ったような笑みを浮かべた。
投げる必要など無かった。
頑固だけれど優しい三橋は、自分のぐちゃぐちゃとした感情を、ちゃんと感じ取ってくれていたらしい。
もうそれで充分だった。

「そうだな。なんならまた、三星と西浦で練習試合組んでもらえるように頼んでも良いな。次は俺等の勝ちだけど」
「ふおっ!お、俺……俺達も負け、ない!」
強気に言い放った「俺達」という言葉に、叶は喜びの笑みを浮かべた。
中学時代の三橋には、絶対に言えなかった言葉だ。
「お前等は去年勝ってんだから、今年は俺等に譲れよな!」
グローブで三橋の頭を軽くはたいてそう言うと、叶は三橋の家へと向かって駆け出した。

その後を、小さな頃のように走って追いすがってきた三橋の姿に頬を緩ませながら、叶は西浦ナインと、その信頼されたエースとしてマウンドに立つ三橋とに再びまみえる場面に思いを馳せた。





ニダコさん9000hitリク。カノミハで、阿部に内緒の逢瀬。
叶君は三橋に対してだけ、何となく庇護欲みたいなものを持っているのではないかと。本当に遅くなってごめんなさいです!!!(><)