tasty kiss

「浜田!アイスコーヒー!」
店のドアを開けるなり叫んだ泉は、返される筈の返事が無い事に、ドアを開け放った状態のまま固まった。
店の中にはいつもどおり、少し寂しげなメロディーラインのシャンソンが流れ、つい今しがたまでそこに誰かがいた事を示すかのように、濃厚なコーヒーの香りが漂っている。
(人が折角この蒸し暑い中来てやったってのに!)
泉はしっかりと締めていたネクタイを緩めると、遠慮なく店の中へと入り込み、空調の効いた店内を奥へと進んだ。

六月も残り僅か。
梅雨の真っ只中であるこの時期、夕方になって急に蒸し暑さが増してきた。
仕事を終え、旨いコーヒーを飲みたくなってわざわざ家からも職場からも遠いこの店に足を運んだというのに、当の店主が留守では話しにならなかった。

「ったく、どこ行きやがった……」
苛々と呟きながら、いつもは入らないカウンターの向こう、キッチン側に入り込むと、泉は自分でコーヒーを淹れようと道具を準備し始めた。
客の注文を聞いてから準備を始める浜田のいつもの様子を見ているため、どこに何があるのかは分かっている。
中粗引きの粉とフィルター、ドリッパーとカップを用意すると、浜田がいつも使っているケトルに水を入れて火に掛ける。

量を調節した為、すぐに蒸気を吹き上げたそれを火から下ろし、見よう見真似で最初のお湯を粉の中に投入する。
『最初はちょっとだけなんだ』
いつだったか聞いた浜田の声が脳裏に蘇った。
『全体にお湯がいきわたらない、ほんのちょっとのお湯で蒸らして、香りを出すんだ』
姿の見えない店主の言葉に従って、慎重に投入したそれは成功だったらしく、一気に香ばしい香りが立つ。

「俺、結構上手くね?」
一人悦に入って呟くと、充分に蒸らした事を確認して、追加のお湯を入れた。
ドリッパーから徐々に滴るコーヒーの量を時々確認しながらお湯を入れ終え、ケトルをコンロに戻すと、コーヒーの満たされたカップを横に置き、アイスにする為にグラスを探した。
棚に並んでいるグラスの中からどれにしようかと、様々なデザインのグラスを見比べていたそのときだった。
「え?!泉?なにしてんのぉっ!」
悲鳴じみた声に振り返ると、浜田が信じられないものを見たような顔で、カウンターの向こう側からこちらを覗いていた。

「どこ行ってたんだよ。ま、いいや。おら、アイスコーヒー淹れろ」
ほんの少しの後ろめたさを隠す為、急かすように促すと、何かを呟きながら浜田はキッチン側に回りこんできて、いつもの手際の良さで一から準備を始めた。
自分の淹れたコーヒーは、邪魔にならない場所に置いた所為か、目に入らなかったらしい。
それならそれで、浜田の入れた旨いコーヒーが飲めるし良いかと思って、ぼんやりと緩やかなシャンソンに耳を傾けていると、あっという間に背の高いグラスに注がれたアイスコーヒーが、いつもの定位置に座り込んだ自分の目の前に差し出された。

「サンキュ」
「ゴメンな。どうせ客来ないだろうと思って、店そのままでちょっと上に上がってたんだ」
申し訳無さそうに言う浜田の手元に、もう一つアイスコーヒーが淹れられているのを見て、泉は目を丸くした。

まさかと思ってカウンターの上に身を乗り出し、先程自分が入れたコーヒーのカップを探すと、シンクの中に収まっているのが目に入った。
「浜田それ!」
「泉のアイスコーヒーは俺が淹れたの。で、こっちは泉が淹れてくれた奴」
しれっと言った浜田はミルクも砂糖も入れず、グラスに口を付けるや一口口に含み、その味を確かめるように味わった後、残りを一気に飲み干した。

「うまっ!泉コーヒー淹れんの上手いじゃん!」
「てめっ!誰が飲んで良いっつったよ!」
カウンターに身を乗り出したまま叫ぶと、浜田の目にちろりと何かが光った気がした。
「この店で泉が飲むコーヒーは、絶対俺が淹れる。たとえ泉が淹れた物でも、絶対ぇやだ」
ど素人が、プロと言って良い喫茶店のマスターに自分が淹れたコーヒーを飲まれる事に抵抗を示しただけの泉は、浜田の言葉に絶句した後、顔を真っ赤に茹で上げて伏せた。

「……浜田……」
してやられたままというのは気に食わない。
泉はまだ頬に大分熱の残る顔を上げると、拳から突き出した人差し指を器用に動かし、浜田を呼びつけた。
「何?いずみ」
数瞬前の気配が消え、いつもの気の緩んだ笑顔になった浜田は、何の警戒も見せずに、泉に呼び寄せられるまま顔を寄せた。
その無警戒な隙を突いて、泉は浜田の襟首を掴み上げると自分の唇と浜田の唇を重ね合わせた。

突然の事に動転している隙を突いて、薄く開かれていた唇から舌を差し入れ、口内を荒らすと、僅かにコーヒーの香りと味が伝わってきた。
カウンター越しの体勢が辛くなって、まだもう少しと思いながら顔を離すと、完熟トマト並みに顔を赤くした浜田が、呆然と泉の顔を見つめていた。
「ホントだ。結構俺の淹れた奴も旨いな」
早鐘を打つ心臓の鼓動を誤魔化すように一息でそう言うと、泉は自分用に差し出されたコーヒーに手を伸ばし、それを呷った。
「ま、これには負けるけど」

泉のその言葉に、浜田はカウンターの向こうで尻餅をついた。





(2008.9.23)
6月22日のmemoより転載。ちょっとだけ文章を弄りましたがほぼそのままです。
コーヒーを飲んでいて書いていたのを思い出したのでこちらにUP致しました(^^;)