独占慾




それは夕方、授業が終り、部活に向かおうと下駄箱に向かった時だった。
言っては何だが久し振りだった。
去年の夏の大会が終わった後、野球部の一部が第一次モテ期に入り、活躍を見せた選手が女子から告白をされるという、人から見ればささやかな、けれど本人達には大事件が立て続けに起こった。

新人戦や秋大を控え、彼女を作る心と時間の余裕の無かったその一部の選手は全員が全ての告白を断り、それを妬んだ極一部の生徒からとんでもない汚名を着せられたりもしたが、野球部の練習量を知っている大多数の生徒は、それもやむなしだろう、と同情の声が多く寄せられていた。
そして第二次モテ期。クリスマスイブ前に突撃してくる女子に対して、第一モテ期に断られた者達が釘を刺して回る中、それでも多くの女子生徒がその網を潜り抜けて現れ、第三期、バレンタインデーになると、かなり本気の者達が集約されていた。

そうこうしているうちに、野球部全員が一度は誰かから告白をされるという、人から恨みを買いそうな状況になった所で三学期を終え、二年生に進級した。
進級に伴い行われたクラス替えのお陰で、女子の関心も新しい友人関係の構築に向けられ、ここ暫くはそういう意味では静かな時間を過ごしていたのに、下駄箱の前では一人の女の子が、三橋の事をじっと見つめて立っていた。

その彼女の顔には見覚えがあった。

去年同じクラスだった子だ。

長い髪を一まとめにし、右サイドでおだんごを作ったその髪形を、前に一度器用だと言ったことがあったのを思い出す。
「三橋君……」
そっと呟かれた声に込められた感情に、三橋は小さく震えた。



「三橋?」
そっと呼びかけられた声に瞼を開けると、傍らで横になっていた阿部が、心配そうに顔を覗きこんできていた。
「あ、べ……」
返事を返そうとして、自分のこめかみに涙が伝っているのを感じて慌てて手を伸ばすと、阿部がその手を横から取って、甲にそっと口付けた。
「悪い夢でも見たのか?」
深夜の静けさの中、誰に聞きとがめられるわけでもないのに潜められた声に、三橋は小さく首を振った。

「わかん、ない。もう忘れちゃった、から」
ふへ、と笑いながら言うと、阿部の顔に嘘だな、と感じ取った表情が浮かんだが、彼はそれ以上は何も言いはしなかった。
自分がもう忘れた、と言えば、それが真実で現実だ。
もしもそれが二人の間に亀裂を生むようなものであれば、阿部とて今のように黙ってはいないが、夢にまで口を出す訳にもいかないと自重してくれている。

そんな阿部の優しさに答えるように、そっと体を摺り寄せ、彼の胸元に顔を埋めた。

目を閉じると、その後の事が思い起こされて、三橋は瞼に力を込めた。
自分と同じように、大人しい印象のその相手は、人の目の無い校舎の影に場所を移すと、手にしていた可愛らしいデザインの封筒を、小刻みに震える手で差し出しながら、聞き取り辛いほど小さな声で「好きだ」と告げてきた。

自分に関心を持ってもらえた事、野球をしている自分を褒めて貰える事は本当に嬉しかった。
けれど駄目なのだ。
感謝の気持ちは持てても、それ以上の気持ちを持つこと等できない。
多くの物を抱えられない自分の気持ち、その殆どを向けている相手から返される愛情以外、もう抱えられないのだ。

結局その場ですぐに断りを入れた。
正直に好きな人がいて、その人の事と、野球の事しか考えられない事を告げると、これからも声を掛ける事は許して貰えるかと問われた。
普通、それくらいなら、というのが正しいのだろうとは分かる。
けれど、それすら許さなかった。
許せなかった。

野球と、今、自分の事をその腕の中に捕らえてくれている人の事しか考えたくなかった。
だから、少しでも煩わされそうな事は排除したかった。
「阿部君……」
裸の胸に、唇が触れそうな距離で囁きつけると、呼びかけた相手の体が小さく跳ね、肌が粟立ったように感じた。

背中にそっと回された腕の輪が狭められ、更に二人の距離が短くなる。
いつも、自分の事をこうして抱きしめてくれる彼の優しさが翳る事が無い様、今日のような事があったことすら知られたくなかった。
「阿部君、大好き……」

けれど、胸の中に突き刺さった罪悪感は消えも溶けもせず、それが今の夢を見せたのかも知れない。
その苦しさに押し潰されそうになりながら、自分も阿部の背中に腕を回し縋り、自分の気持ちを確かめるように言葉にした。
この気持ちを大事にしたくて、今日引導を渡してしまった気持ちを思って、もう一粒だけ涙を流した。
「三橋、顔上げろ」
不意に掛けられた声に、条件反射のように顎を上げると、阿部の優しい目が見下ろしていて、心臓がとくりと鳴った。

寝癖がつきやすい柔らかな髪に、額に、瞼にと次々にキスを貰いながら、三橋は再び涙が溢れだすのを感じて、それを誤魔化そうと自分から阿部の唇を奪った。
慣れない行動だが、それでも精一杯の気持ちを込めて、強請るように唇を重ねていると、阿部は驚いた様子も見せずにすぐに主導権を奪い、薄い唇を舌先でなぞられ、歯列を割って差し入れられた舌を自分のそれと絡めた。

練習を終え、風呂と食事を終えた後に一度肌を重ねていたのだが、貪欲な自分の欲求は次を求めていた。
けれど、それは相手には負担になるかも知れないと思い、唇を堪能した後、熱い吐息を漏らしながら顔を離すと、更に首筋に口付けようとした阿部の体を突き放した。

「阿部君、今日は練習、朝から……だから……」
「苛めて欲しいくせに」
放たれた言葉に、三橋はびくりと全身を震わせた。
外していた視線を阿部の顔に向けると、強い光が宿っている目とは裏腹に、太い眉が奇妙に歪められていた。
その表情一つで、彼が自分の気持ちを全て理解してくれている事を悟って、三橋は再びぽろぽろと涙をこぼした。

「ごめ……なさ……」
「俺の腕の中に居るときは、俺の事だけ考えてよ」
抱き寄せられ、後頭部に回された手が彼の逞しい肩に額を押し付けるに任せたまま、三橋は堪えられなくなった涙をこぼし続け、頷いた。



自分の腕の中、再び寝息を立て始めた恋人の顔を見ながら、阿部は顔も知らない同級生の女を相手に、暗い感情を覚えた。
夕方、三橋が誰かに告白されたというのは、たまたま見かけたという部のメンバーから聞き知っていた。
三橋の頭の中は、いつも野球に関することで一杯だ。
その中に自分の事を特別に思ってくれる領域を作る為に、どれだけの時間と労力を要しただろうか。
けれど、今日はそれが裏目に出てしまい三橋を苦しめる結果となった。

大事な投手で恋人の部屋の中、同じベッドでお互い生まれたままの姿で横たわりながら、阿部は三橋の首筋に顔を埋め、鎖骨近くに小さな赤い花びらを落とした。
小さな小さな主張。
もっと彼を自分で一杯にするにはどうすれば良いのだろう。
何度抱いても足りない。
人に口外できない関係になる事を望んだ自分の為に、三橋にも負担を掛けていることは分かっているが、そんな事くらいで諦められないほど、三橋に向ける気持ちは強大だった。

「ごめんな、三橋……」
眠っている相手に届かない事は了解していたが、口にせずにはいられなかった。
幸せにするから、などとは到底口に出来ない。
脆く、いつ崩れ去ってもおかしくない砂の城を、いつまで二人で作り続ける事が出来るのかと考えて、阿部は恐怖を覚えた。








たまには共に落ち込んだり不安になる二人。