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俺と阿部君が、一緒に暮らすようになって、二年が過ぎた。

甲子園で、輝かしい成績を残した俺達西浦高校野球部創部メンバーは、今はもうあまり顔を合わせる機会が無い。
田島君は、周囲の予想通り、ドラフト指名を受けてプロ入りし、今は一軍定着を目指して頑張っている。
花井君も、幾つかオファーがあったらしいけど、大学で勉強したいから、と俺や阿部君と同じように、大学野球の世界に入った。
でも、他の殆どのメンバーが、高校で野球を辞める事を選んで、俺は少し寂しい気持ちでいた。

「じゃぁ三橋、俺、今日も遅くなるから、冷蔵庫の中の物温めて食っとけ。いいな」
「う、ん。いってらっしゃい……」
「おう」
優しい笑顔を飲み込み、玄関扉が音を立てて閉まるのを見て、俺は溜息を吐いた。
大学も二回生の冬休みとなると、本当ならそろそろ就職活動に備え始める所だけれど、俺はまだ進路を決めかねていて、気持ちだけが焦る休みを、ぼんやりと過ごしていた。
ぼんやりとは言っても、所属する大学の野球部の練習もあるし、プロ入りという選択肢も欲しかったから、自主練習を欠かしてはいなかった。

自分だけの部屋に入ると、阿部君が、光熱費と寒さ対策にとスウェットの上に二枚も着せてくれていた上着と一緒に全部脱いで、急に襲ってきた寒さにぶるりと体を震わると、俺は練習用のジャージに着替えようとして、ふと姿身の鏡に写り込んだ自分の体に見入った。

昔から、食べてもあまり太らない体質だったけれど、それでも高校に入学した頃から比べると、身長も伸び、かなりの筋肉も付いた。
ずっと投げ続けていたせいで、左右の長さが違う腕は、俺の密かな自慢。
だって、投げ続けられたのは、阿部君が一生懸命俺の事を考えて、調整してくれているお陰だから。



俺と阿部君が、普通は男と女でいうところの意味でお付き合いをするようになったのは、高校一年の冬、阿部君の16歳の誕生日からだった。

その年の夏の大会は、今でも鮮明に思い出せる。
一年生だけのチームで挑んだ大会は、俺達に沢山の経験をさせてくれて、その脆さと弱さを、存分に教え込んでくれた。
阿部君が怪我をした時の衝撃は、鮮明な分いつまでも俺の心の中に居座り続けていて、思い出すたびに胸が痛くなる。
けれど、それを経た事で、俺達は自分達の気持ちに気付き、互いに正面から向き合う事を学ぶ事が出来たんだと、今なら思える。
正面から向き合い、そして、自分達が夫々抱いた気持ち──

馬鹿な俺でも、易々と口にしていい気持ちで無い事は良く分かっていた。
泉君が居なければ、多分一生それを阿部君に伝える事は無かったと思う。

泉君は、俺の大好きなハマちゃんとお付き合いしている。
偶々それを知っちゃった俺に、相談(と昔は思ってたけど、今なら惚気ていたんだって分かる)をしてくれるようになった泉君が手を貸してくれて、俺は阿部君の誕生日に自分の気持ちを伝える事が出来た。
今思い出すと、一人よがりで、阿部君の気持ちを考えていなかった出来事だったけど、もう好き過ぎて破裂しそうになっていた俺は、たとえ嫌われても、阿部君に自分の気持ちを伝えたくて仕方が無かった。

それは阿部君がずっと「思った事を喋れ」と言ってくれていたからかもしれない。
たとえ嫌われても、花井君や沖君、次の年に入ってくるかも知れない新入部員の中のピッチャーが、試合に出られるようになるまで、俺が投げ続ける事は出来ると、どこか打算的な考えがあったからかも知れない。

阿部君が、俺の投げた球を捕ってくれて、それを投げ返してくれる。

たとえリードをしてくれなくなっても、それだけで充分だと思える程に、昔の俺は自分の気持ちと衝動に追い詰められていた。
けれど、それは阿部君も同じだったと聞いたのは、付き合い始めて一年近く経った頃だったと思う。

自分の目の前に現れた、理想的な技術を持つ投手で、言う事を何でも聞いて、便利な奴。
そういった最初の印象を覆す、俺の投球と努力に段々魅せられ、惹きこまれ、そして釘付けになった。
けれど、友人としての好意にとどまらないそれを俺に押し付けて、支配するような事はしたくなくて、ずっと隠しておこうか、いやそれとも告げて清々しく振られて、嫌われてしまおうかと、迷路に迷い込んだみたいな感じで、あの誕生日の日が無ければ、暴走したかもしれない、と教えてくれた阿部君は、話しながら凄く怯えた顔をしていたのが印象に残ってる。

もう何度目かも分からない程重ね合わせた、阿部君の裸の胸に顔を埋めながら、俺は嬉しくて涙が止まらなかった。
俺を好きになってくれる人なんか、家族しか居ないと思っていた。
投げる事が好きなだけで、他に何の取り得も無くて、馬鹿で、凄く嫌な奴の俺の事を、凄く大切にしてくれて、好きだと言ってくれて、全身から嬉しさが溢れて、涙に姿を変えたそれを、阿部君が唇で拭ってくれたのを、今でも体が覚えてる。

甘い、甘い、大切な記憶。
それは今、俺を少しだけ苦しめる。



着替え終わって、いつものロードワークに出るためにマンションの玄関キーを閉めた俺は、冬の冷たい空気を肺一杯に吸い込んで、少しストレッチをした後、ゆっくりと走り出した。
ここ暫く、阿部君は帰りが凄く遅い。
午前様なんか当たり前で、なのに、朝も早くから出掛けている。それでも、俺の食べるものとか、練習メニューをしっかり用意していて、体を壊すんじゃないかと心配になる。

阿部君が、自分の事をあまり喋らないのは昔からだ。
最近は俺も、少しずつ阿部君の事が分かってきたから、あえて聞かない事もあるけど、今は聞きたくても聞けない。
だんだん温まってきた体とは裏腹に、心は冷え切ったままで、凍りつきそうだと思う。
俺が聞きたくても聞けない事。考えたくなくても、一日に何度も考えてしまう事──

それは、俺達のこれからの事だった。



今、阿部君はバイトの数を増やしている。
「冬休みの間は稼ぐ」と前から宣言していたから、俺も了解はしていたけど、まさか朝から夜中まで、殆ど家に居なくて、一緒に眠る時間も無い程とは思っていなかったから、俺の不安は募っていく一方だった。
でも、絶対に阿部君のバイトが自分の為だけの行動ではない事も分かっていたから、俺は不満を口にする事が出来なかった。

両方の家から、夫々それなりの援助があるから、生活に困ったり、食べる物に困ったりする事は無い。
学校の友人の付き合いとかで飲み歩く事もあまりないし、着る物も、お互いあまり頓着しない。だから、阿部君がそこまでお金を必要とするとすれば、それは野球に関する物だけだ。
そして、野球に関する物は、殆ど俺に結びつく。
自惚れではなくて、今までの経験でそうと知っていた。

アンダーがくたびれれば新しいものを、グラブが痛めば俺好みの新しい物、バッティンググローブのサイズが合わなくなってくれば、これもまた新しい物を。
俺は気持ちだけでなく、色々なものを阿部君から貰っている。
もちろん、俺も阿部君に同じようにプレゼントしているけど、何故だかいつも、同じようにお返ししているだけでは足りないように思えてしまう。
そして足りないと思っている気持ちは降り積もって、まるで高校時代の頃のように、俺の中で膨れ上がり、はちきれそうになっている。

阿部君が好きだ。
好きで好きで、もう、阿部君が居ないと生きていけないと思うほど、切実に阿部君が好きだ。
だから触れ合いたい。
お互いの肌で、相手の体を感じたい。

走りながら、不埒な熱が一点に集中し始めて、俺は慌てて速度を上げた。

でも欲望が高まると同時に、俺の中の不安も大きくなってくる。
阿部君の進路が気になるからだ。
俺は最初、何の迷いも無く、プロ入りを希望していたし、阿部君もそうだと思っていた。
けれど、この間掃除をしようと入った阿部君の部屋の中に、あちこちの企業のパンフレットがあるのを見つけて、俺は凄く驚いた。
阿部君は、社会人野球に進むつもりなのか、それとも、野球を皆みたいに辞めて、普通に就職だけするつもりなのか分からなかったけれど、その時初めて、俺の中でこれからの二人に対する不安が芽生えた。

もし阿部君が野球を辞めるのなら、俺はどうすれば良いんだろう。
一緒に辞めて、二度とボールに触れないで居る事が出来るのかな?
そう考えて、俺は頭を振った。それは無理だと思う。
子供の頃からの、俺の存在理由に近い野球を捨てる事は出来ない。
阿部君から離れる事が出来ないのと同じくらい、俺にとっては無理な相談だ。

次に進むべき道を考える事無く、体が勝手にいつものコースを進み続ける。
おととし、阿部君とあちこちを走って決めたコースで、何度も一緒に走ったコースは、色々な思い出がある。
こんな風に、俺は野球を続けるための道を、阿部君と一緒に進み続けて行くと思い続けていたのに……

俺は溢れそうになった涙を零すまいと、俯いた。
その瞬間、何かが急ブレーキを踏む音が聞こえた。





「三橋っ!!」
久し振りに聞いた阿部君の怒鳴り声に、俺は思わず体をびくりと震わせた。
「お、お帰りなさ……」
「お帰りなさいじゃねぇ!怪我は!?」
予定の時間より早く、二人のマンションに帰ってきた阿部君は、コートを脱ぎもしないで、肩で息をしながら俺に近寄ると、右頬と左手の甲にガーゼを貼り付けてリビングに座り込んでいた俺を見て、顔を真っ青にした。
「怪我は酷くない、よ?ちょっと擦りむいた、だけ……」
俺は必死に笑おうとした。

ランニングの最中、車通りの多い道の脇の歩道を走っていた時、すぐ側で車とバイクの事故があって、歩道に突っ込んできたバイクを避けようとしてバランスを崩し、俺は転んでしまって、顔と左手の甲を少し擦りむき、所々に打ち身を作った。
突然の事に呆然としている間に救急車に乗せられて、気が付けば病院で手当を受けてた。

気を取り直した所で、警察の人が来て、俺の住所と連絡先を聞かれて、素直に応えた後、誰かに連絡を取ったほうが良いかどうか尋ねられて、俺はつい、阿部君の携帯番号を伝えてしまった。
すぐに連絡はしなくて良いと言おうとしたのに、あんまり吃驚していた所為か、昔みたいにどもっている間に、阿部君の携帯に、警察の人が連絡を入れてしまった。
けれど、バイトの最中だったみたいで、留守電だったと告げられた時、少し寂しくなった。

事故を起こしてしまった方の人の身内だという人が現れて、俺に何度も頭を下げて、治療費とタクシー代だと言って一枚の封筒を渡され、その人に連絡先を聞かれた後やっと俺は解放されて、雨が降り始めた夕方の闇の中、素直にタクシーを使って家まで帰って来た。

「三橋……」
力が抜けた操り人形みたいに、がっくりとその場に座り込んだ阿部君は、大きく息を吐き出すと、それに併せてがっくりと頭を垂れた。
「ごめん、ね?バイト中に……俺、連絡しなくて良いって、言ったんだ。けど……」
俺が全部を言い切る前に、阿部君が弾かれたみたいに顔を上げて、俺を見た。
「あ?何で?」
その声の冷たさに、俺は体を硬くした。

やっぱり阿部君は、俺に興味が無くなったのかな……?
俺とこのままずっと一緒に居る、なんていう選択肢を捨ててしまいたいのかな?
だから、なんとも無いのに、大変な事みたいに連絡を入れたりして、大事なバイトをキャンセルして帰らされたりしたから、凄く……凄く怒っているのかな……。
それにバイトも、もしかしたら野球の関係する事で必要なんじゃ無くて、もしかしたら……

俺と離れて暮らすために、準備を整えようとしているのかも知れない。

「三橋……」
溜息混じりに、阿部君が俺を呼んだと思ったら、阿部君は両手の拳を俺のこめかみに当てて、ぐりぐりと力を込めた。
「いいぃっぃぃぃ!!!」
「お、ま、え、はーっ!」
凄く久し振りのウメボシを喰らいながら、俺はその痛みに涙が溢れそうになったけど、それは目を潤しただけで、零れはしなかった。
「このアホっ!俺がお前よりバイトを優先するとでも思ってたのか!」
俺の頭を解放した阿部君は、すごい剣幕で俺に向かって怒鳴った。
「留守電聞いて、俺がどんなに……っ!」

言いながら、阿部君の目が潤み始めたのを見て、俺は目を瞠った。

阿部君が、泣いてる?

そう考えた瞬間、俺は阿部君の腕の中に閉じ込められていた。
「三橋……三橋……っ!」
酷く切ない声で、阿部君は俺の名前を何度も呼んで、抱きしめてくれた腕に、更に痛いくらいに力を込めた。
「阿部く、ん……?」
「無事で良かった……ホントに……」
少し鼻声になりながら、耳元で囁かれた言葉に、俺の心臓がどくんと跳ねた。
「あ、べく……ん」
「お前、結構怖かっただろ?」
もう、いつもの落ち着きを取り戻したように聞こえる阿部君の言葉に、阿部君の涙と抱擁にこそ驚いていた俺は、「ふへ?」と変な声を出してしまった。
その声に、阿部君は小さく吹き出した。
そして一度体を離すと、真直ぐに俺を見て、感触を確かめるようにそっと俺の頬に口付けた。

「帰ってきた時の顔、凄ぇ強張ってたぞ」
優しい笑みを浮かべた阿部君の柔らかな口調に、俺は確かに緊張していたみたいで、体からごろんと何かが落ちた気がした。
いつも、何度も通った道であんな事が起こった事は、確かに怖かった。
それに、怪我をしたのが顔と左手で良かったものの、もしこれが右手だったり、もっと酷い怪我だったりしたらと、血の気が引いていたのも確かだった。
でも、阿部君に言われて初めて、そんなに色々な事を考えていた事に気付いた。

驚いた俺の顔を見て、阿部君が右頬に貼り付けられたガーゼにそっと触れながら、同じくガーゼを貼られた左手を手に取り、まるで映画のワンシーンみたいに、ゆっくりとガーゼ越しに手の甲に口付けた。
「もう大丈夫だ、三橋。お前は無事にここに居て、野球が出来るよ」
大好きな声にそう言われて、俺は涙を堰き止めていたものが崩れるのを感じた。
もう駄目だ、我慢できない。

「阿部、く……っ」
俺はぼろぼろと、昔みたいに涙を流しながら、阿部君の体にしがみつくようにして抱きついた。
俺を受け止めてくれた阿部君は、背中を優しく叩いたり、撫でたりして、俺が落ち着くまでずっと待ってくれた。
声を出してまではいかなかったけど、暫く泣き続けた俺は、ふと顔を上げて、阿部君の顔を見つめた。
「まだ不安?」
本当に優しく、甘く囁かれた言葉に、俺は素直に頷いた。
すると、阿部君はちょっと驚いたような顔をした。

「何が不安なんだ?三橋」
穏やかな声に、俺は涙を拭うと、ちょっと勢い込んで口を開いた。
多分、今でないと聞けない。
今、昂ぶった気持ちの勢いに任せてでないと、阿部君に直接聞くことなんて出来ない!

「阿部君、は、ここを出て行き、たいの?」
「はぁ?」
「俺から、離れたい、の?」
「ちょっ」
「野球辞めて、会社に入って、それで、それで……」

どんどんと質問しながら、俺は自分の中で育っていた不安を、やっと正面から見据えた。

俺は阿部君と同じく、男だ。
阿部君がどれだけ好きだと言ってくれても、阿部君とずっと一緒に居続ける事を望んでも、俺達の両親や、世間の目がそれを許してくれないと思う。
そして、親は多分、俺達夫々に子供を望むんだ。
でも、俺には無理だ。
では阿部君は?
阿部君は、もしかしたら、普通の人が描く幸せを望んでいるんじゃないのかな?こんな、筋肉がついた硬い体じゃなくて、柔らかい女の子の方がいいんじゃないのかな?
そして、その女の子との間に、可愛い子供とかを望んでいるんじゃないのかな?

いつもいつも、それこそ付き合い始めた頃からずっと押し殺していた不安を、俺はやっと自分の言葉に乗せて、阿部君に伝える事ができた。
今までは、そんな事を考える余裕も無いくらい、阿部君に夢中になっていた。
そんな幸せに気付けた事は嬉しい事だったけど、けれど、これからもずっと、一緒に居られる保障は何も無い。だからもし、阿部君が俺達の関係を解消したいと考えているのなら、早く言って欲しかった。
早く引導を渡してもらって、阿部君を解放してあげなきゃって思った。
だって阿部君は、凄く良い捕手で、何でも出来て、最高の人だから、俺が独り占めしていたりしちゃいけないんだ。だから……

「三橋ぃ……」
少し疲れたような声で、阿部君が呼ぶ声に、質問に一生懸命になっていた俺は我に返った。
次に何を言ったらいいのか分からなくて、口を噤んでしまった俺は、阿部君の顔を見つめたまま、動けなくなった。
尻餅をついていた阿部君は、小さく溜息を吐くと、無傷の左頬を軽く抓った。
「ちょっと落ち着けって。俺が三橋と離れるとか、何で考えた?」
ちょっと咎めるような口調に怯みながら、俺は素直に口を開いた。
「阿部君の部屋、で、会社の、就職案内の、パンフレット見つけて……だから、野球とか辞めるのかな、って……でも、野球辞めるなら、俺、は阿部君に必要じゃ、無いんじゃないか、なって思、って……」

「ああ、アレか。あれはそうじゃなくて、お前が実業団とかも視野に入れてるなら、どこがいいか当たりをつける為に、就職課から持って来た」
軽い阿部君の口調に、俺は「へ?」と声を上げた。
「で、も、俺……」
「プロ志望だろ?分かってんよ。でもこの先何があるか分かんねぇからな。備えておくに越した事は無ぇだろ」

胸の中の不安の塊が、一回り小さくなる。

「だ、だったら、阿部君、野球は……」
「辞めねぇっての。体が続く限りは、お前の球を取り続けるよ。約束しただろが」
ほんのり耳を赤く染めた阿部君が、そう言って、俺の頬を抓っていた手を離した。
「んで?まだあるんだろ?」
なんだか嬉しそうに、阿部君は俺に続けるように促して、俺は必死に言葉を続けた。
「じ、じゃぁ、何で阿部君、バイト増やしたの?俺、阿部君は、俺と一緒に居たく、ないから、バイトしてると……思っ……」
「……アー……ゴメン、三橋。それはちょっと待ってくれ。頼む」
急に言葉を濁して逃げようとした阿部君の胸に縋ると、俺は首を振る代わりに、阿部君の目をじっと見つめた。
初めて会ったあの日に、阿部君が「首振る投手は嫌いなんだ」と言ってから、俺は試合の時以外は、阿部君の前で首は振らない。
振っても良いって、阿部君には言われているけれど、試合の時以外で、俺は阿部君に首を振りたくは無かった。
阿部君の全てを受け入れたいからだ。

その代わり、どうしても嫌だと思ったりした時は、真直ぐ阿部君の目を見て、ちゃんと口に出して頼む。
そうすると、阿部君もちゃんと分かってくれて、何故自分がそうしたいのか理由を言ってくれたり、嫌がった事を止めたりしてくれる。
今回も、阿部君は諦めたように目を閉じると、コートのポケットの中から、青いビロード張りの箱を取り出した。
どこかで見た事があると思って記憶を辿ると、それはお母さんの宝石箱の中で、大切に保管されてた箱と、同じ物だと思い至って、俺は首を傾げた。
これは何だろう?

「本当は、俺の誕生日に渡そうと思ってたんだけどさ、お前の指のサイズ、測り間違えてたみたいなんだよ……ちゃんと、こより結んでやったんだけど……」
阿部君はその箱を両手で包んで、大事そうに持ちながら、顔を真っ赤にしてた。
何が入っているんだろう?

「渡す前にちゃんと確認って思って、お前が寝てる間に嵌めようとしたら嵌んなくて、慌ててサイズ直しに出したら、二週間掛かるとか言われて、おまけに手違いで違う店に行ってたりして、今日やっと手元に帰って来たんだ……」
「何、が……?」
俺が不思議に思った事を素直に聞くと、阿部君は、真っ赤な顔のまま、泳がせていた視線を俺に向けた。
「三橋……ちょっと目、瞑ってろ」

俺の質問に答えて貰えない事に不満も覚えず、阿部君の豹変振りに驚いてた俺は、言われた通り目を閉じた。
すると、パクンと小さな音がして、阿部君が俺の左手を手に取った。
そして──

するすると俺の左の薬指に嵌められたそれに、開けて良いって言われていないのに、俺は大きく目を見開いた。
「こ、……阿部く、……」
指に嵌められた、シンプルな銀色のリングに、視線を落としていた俺は、慌てて阿部君を見上げた。
この指に嵌める指輪の意味は、凄く大事なものだ。
「三橋、俺と結婚してくれないか?」
至極まじめな、でも今まで見た事も無い緊張した面持ちで、阿部君は俺を見つめていた。

「法的にはまだ認められないし、多分、お互いの家族とかも色々反対してくると思う。でも、俺、お前が居ないと駄目なんだ。これから先、今日みたいに何かあった時にも、真っ先に俺に連絡が入るようにしたいし、ずっと、お互い年寄りになっても、俺はお前と一緒に居たい。だから、俺達二人だけの約束だけど、俺と結婚して欲しい」

少し急き込むように喋りながら、必死な様子で言葉を綴る阿部君が、俺の答えを待つ為に沈黙した。

「嘘、じゃ無い、よね?」

「当たり前だろ」

「俺、男だけど?」

「充分知ってる。ってか、俺はお前に惚れてるから、男でも女でも関係無ぇよ」

「子供、とか、生めない、よ?」

「子供?欲しいのか?だったら養子でも貰えば良いんじゃねぇの?あ、でも男同士の両親で養子貰えたかな?」

「俺が、野球できなくなっても、平気?」

「問題無ぇよ。野球が出来ても出来なくても、俺はお前の事好きなんだから」

そう言って、阿部君が笑ってくれた瞬間、俺の中の不安は全部綺麗に消え去って、俺は阿部君に抱きついた。
答えなんてもうとっくに決まってる。

「俺も、阿部君の事、好きだ、よ。ずっと一緒に居よう、ね」

抱き付いた俺を受け止めた阿部君は、俺の答えを聞き届けると、俺の唇にゆっくりとキスをした。

どこか遠くからは、除夜の鐘の音が響いてくる。
来年はもうすぐそこだ。
俺達の新しい生活の始まる、新しい年は、もう目の前だ。
そう思いながら、俺は久し振りに感じる阿部君の体温に酔いしれた。

間に合った!
雪月様リク大学生パロ。年明け二分前UP!
それにしてもすみません。甘いです。三橋君に語らせると甘くなるようです。しかしまさかプロポーズするとは思ってなくて、慌ててタイトル考え直しました。スペルあってたかな……