epistula




落下するような浮遊感とは裏腹に、急激に浮上した意識と血圧は、寝起きにも関わらずはっきりとした思考をさせてくれた。
花井は数回荒い呼吸を吐くと、大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出しながら腕を目元に運んだ。

酷い夢を見た気がする。いや、見た。
見たのだが、すぐに内容を忘れてしまった為、それがどんな類の悪夢だったのかは分からなかった。
呼吸は落ち着いたものの、一向に静まる気配のない鼓動に怯えながら、もう一度、ゆっくりと深呼吸をすると、傍らの気配が身じろぎした。

悪夢の原因は絶対にこいつの所為だ、と決め付けながら、花井は鳩尾の辺りに伸びてきていた相手の右腕を、目の上から外した腕で、自分の肩の辺りにまで引き上げてやった。
同じベッドで眠る時、「少しでも触っていたい」などとふざけた事を言う同衾相手は、プロの野球選手だ。
出会った頃は、自分よりも頭一つ近く低い身長だったのに、二年程で急成長した彼とは、もう5センチも違わない身長になった。
けれど、プロの第一線で活躍する彼と、地元で教師となった自分とでは鍛え方に大きな違いがあり、体重では負けている。

そんな比重の重い筋肉を纏った腕を、鳩尾になど乗せられていたから変な夢を見たのだと思いながら、体勢を変え、横を向いて傍らの彼と向き合うようにすると、昔に比べると薄くなったそばかすの浮かんだ鼻を抓んでやった。
規則正しい呼吸が乱れ、動物の鳴きまねのような声を上げて口を開けた相手の様子に忍び笑いを漏らすと、花井は変に冴えてしまった目で、じっと相手の顔を見つめた。

プロの野球選手。
そばかすの浮いた鼻。
大きくなった体躯。

出会った頃には考え付く事すらないような関係になり、今、こうして共に安らかな時間を共有する相手は同性の恋人だ。
名前は田島悠一郎。
数時間前、これから一生を共に過ごそうと、同じ屋根の下で暮らそうと決めた相手だ。

シーズンが始まったばかりで忙しいのに、自分の誕生日に合わせて遠征先から帰ってきた田島は、誕生日プレゼントだと言って、いきなり何枚かの新築マンションのパンフレットを持ってきた。
連れてこられたこのホテルのスイートルームで、目を丸くしてそれを見るといつもの笑顔の中に、少し躊躇いを覗かせた田島は頭を掻いた。

不安なのだ、と。

だから、縛る事を許して欲しいと言われた。

直球で言われた言葉に、頭は一発で真っ白になってしまい、田島が色々と足りない言葉を繋いで自分の気持ちを紡ぐのを聞きながら、自分と田島が同じ気持ちだった事に、不覚にも涙が出そうになった。

こちらは何とか地元の私立高校での採用が決まり、職場に馴染むのに苦労していたし、田島は、昨年の成績が思わしくなく、二軍落ちも囁かれたりしていたりして、会う時間は殆どと言って良いほど無かった。
テレビで伝えられる情報や、時々送られてくるメールや電話で短いやり取りをするしか無くて、会いたい気持ちだけが膨れ上がった。
けれど、相手の都合を考えるふりをした臆病風に吹かれたりして、結局今日まで会えずに居た。

しかし、その提案を聞いたショックから立ち直ると、花井は一時間近くじっくり説教をした。
いきなりそんな事を言われてすぐに頷く事などできる筈も無い。
嬉しいし、驚いたし、何より言われた提案をすぐに受け入れたい自分が居た事を、否定するつもりは無かった。けれど、ここですんなり受け入れて良い事ではないことは充分に理解していた。
だから色々と懸案事項を挙げ連ねて、それをクリア出来たら、と言うつもりだったが、田島必殺のおねだりポーズである上目使いで「嬉しく無かった?」と問い掛けられては、正直な答えを言わない訳にはいかなかった。
その効果を充分に分かっていて、その上で使われているとは分かっているのだが、それでもやはりその顔には弱くて、花井が「嬉しい」と呟いた瞬間、田島の腕が花井の体をその虜にしていた。

その後の事を思い出すと同時に体温が一気に上昇し、顔が瞬く間に赤くのぼせるのを自覚して、花井は頭を抱えた。
久し振りに合わせる互いの肌の心地よさに、自分でも驚くほどの乱れぶりを見せてしまい、最後はいつ意識を手放したのかすら記憶に無い。
けれど、素肌をくるんでいる布に不快感はないため、おそらく横で眠ったままの彼が、後始末をしてくれたのだろう。
疲れているだろうに、それでも彼なりに色々としてくれる気持ちが嬉しくて、花井は自分の腕を田島の腰に回し、もっと田島の体温を感じたくて体を摺り寄せた。

彼と同じ道を進む事をやめて、良かったと思う。
大学で野球を続けていた花井の元には、幾つかプロからの誘いも来ていた。けれど、もし田島と同じく、プロの世界で野球を続けていく事を選択すれば、彼と会える時間はもっと少なくなる事を理解していた頭は、それらを全て跳ね除けさせた。
だが、一番堪えたのは田島の「諦めるのか」という言葉だった。

そう取られるだろうな、とは思っていたが、それを口に出して言われると想像以上に胸が痛くて、それまでに色々考えていた理由を言う事が出来なかった。
ただ一言、「一緒に居たい」と言うのが精一杯だった。
その後は、無邪気に野球を二人で楽しめた頃に描いていた将来を望む気持ちや、今、自分が選ぼうとしている未来への不安、そして、重ねてきた沢山の時間で積み上げて来た想いが涙となって溢れそうになって、必死に堪えた為に言葉をまともに紡ぐ事は出来なかった。

本当はどちらを選んでも辛かった。
彼と野球を共にプレイする喜びを得るか、少しでも彼と共に居られる時間を得る事を選ぶか。
どちらも捨てられそうにないと思った。
けれど、彼と一緒ではなくても、野球は続けられるだろうと考えて、教師になる事を選んだ。
そして得られた今日の幸せは、きっと一生忘れられないだろう。



──と、不意にさっき目覚めた時の不安感が襲ってきて、うとうととしかけていた意識が、再びはっきりと覚醒した。

一生……

そう、いつか人は死を迎える。
それまでの間、ずっと一緒に居られるとしても、いつかはお互いを失ってしまう時が来るのだ。

「くっそ……っ」

きっと人生で一番幸せなんだろうこの日に、何故そんな事を考えるのか理解に苦しみ、悪態を吐きながらも、先年他界した祖母の事が頭を掠めた。
ずっと幼い頃から可愛がってくれた人だったのに、倒れたとの連絡を受けてもすぐには駆けつけられなくて、その死に目には会えなかった。
葬儀の間中、ずっと申し訳ない気持ちで一杯だったが、遺品の中に自分宛の手紙を見つけて、涙が零れた。

幼い子供を気遣うような言葉が流麗な文字で綴られたそれは、励ましの言葉で締められていて、色々と落ち込みそうになった時に背中を押してくれた。
そう、田島とどう向き合っていくのかを考えていた時にも、それはとても役に立ってくれて、祖母が亡くなって数年経つ今も、すぐに取り出せる場所に片付けてある。

もし自分が田島を失った時、どうなるのだろう。
祖母の手紙と、彼との思い出で生きて行くのだろうか?
多分そうだろう。
田島を失っても、きっと彼を追ってなど行けない。
自分の家族は田島だけではない。父母も居れば、二人の妹もいる。そして、田島も彼の父母に兄弟、甥や姪もいる。
だけど、と反語が浮かんで、花井は眠る田島の顔を見つめた。

彼は多感だ。
それは昔から変わらない。
様々なことを本能で嗅ぎ取り、決断も早い。
時々、今日のマンションの話のようにすぐには付いていけない事もあるが、決めた事、言った事をやり遂げる実直さは、彼の美点の最たるものだと思う。
だから不安になるのかも知れない。
もし自分の方が先に死んでしまうような事があった場合、ずっと一緒に居る、と決めてくれた彼は、そのとおり実行してしまうかもしれない──例え自らの命を絶つような事になっても、追いかけてきてしまうかもしれない。

そう考えて、花井はぞくりと体を震わせた。
するとそれを感じたらしい田島は、無意識に花井の体を強く抱き寄せた。
さらに密着する事になった田島から、嗅ぎなれた彼の香りが漂ってきて、その心地よさに目を細める。
彼はきっとスターダムをのし上がって行くだろう。自分も、高みで輝く彼のプレーを見たい。そして、そう望むファンも多いはずだ。ならば、いつまでも彼が輝きつづけていられるようにするのが自分の役目だろう。

花井はいとおしい温もりに後ろ髪を引かれながらも、大きなベッドから抜け出すと、田島を起こさないようにベッドルームから抜け出し、素肌にバスローブを纏うと、別の用事で使おうと用意していたレターセットを、スーツケースの中から取り出した。

別室の卓の上に便箋を広げると、一緒に取り出した、父親が就職祝いにくれた万年筆のキャップを回した。
えらく張り込んでくれて、自分の筆使いに合わせたオーダーメイドの品を注文して、プレゼントしてくれたのだが、勿体無いと仕舞い込んでいてかえって怒られた。今では使い心地の良さから手放せなくなっているそれを、縦に区切られた行間に走らせてみる。

しかし、その筆で書き記した自分の字に、少し苦いものを感じた。
周りには良く、綺麗な、丁寧な字だと言ってもらえるが、自分はそれ程字が上手いとは思えず、もっと綺麗にかけないか?と自問する事もしばしばだった。
そして今も、誰よりも、自分自身よりも大切に思えるほどの人の名前を書きながら、もっと品良く書ければ、と眉間に小さなシワを寄せた。

そこだけで書き直しをするのもなぁと思い、そのまま思いつく事を白い行間を埋めるように書き連ねる。
その行為の滑稽さに笑いが込上げそうだったが、最後の方になると、本当に自分の遺書をしたためている気分になって、段々と神妙な気持ちになってきた。
「何やってんだろ、俺」
ポツリと呟いて、紙面最後の一行を書いたところで一度筆を止めた。

こんな物を誰かに見られたら物凄く恥ずかしい。しかし、そんなつもりも予定も何も無いけれど、田島よりも自分が先に死を迎えた時、自分が考え至ってしまった予測の一つに、楔を打ち込んでおきたかった。
愛しい人が輝きつづける事、それが自分の一番の望みだからだろうか。
でも、よくよく考えてみれば、田島が自分の後を追うかも知れないというのは、物凄い自惚れだ。
自分にそれ程の価値を、相手が見出しているかどうかも分からないのに、
よくもまぁこんな事を思いつけるとも思う。
けれど──

田島は単純な性格故か、時折もろい一面も見せる。
実家で飼っていたペットが死んだ時や、家族が亡くなった時、それはもう酷い落ち込みようで、浮上させる為にどれだけ策を労しただろうか。
けれど、そんなこちらの苦労など尻目に、彼は時間さえかければ浮上する。

人間、誰でもそうなのかもしれないが、心の傷に対して、時間はかなり有効なのだ。
そう、強くて脆い彼は、浮上する時間さえ与えてやれば、自分を取り巻く世界に目を向ける事が出来るのだ。
ファンや家族、大好きな野球に友人達、そして、いつか彼の元に現れるだろう、新たな恋人──

その瞬間、心臓に太い針でも刺されたような痛みが走って、花井はバスローブの胸元を掻き寄せた。
急に大きな鼓動を刻み始めた心臓が落ち着きを取り戻すのを待って、花井はゆっくりと息を吐いた。

ありえない訳では無い。
それは充分に分かっているが、それでも、想像しただけで嫉妬の炎が燃える。
今までだって、マスコミがでっち上げた記事で、暗い感情に取り憑かれる事はあった。けれどもし、自分が死んだ後にそれが現実になっても、何ら対抗する手段が無いという事実に胃の底が熱くなった。
そのどうしようもない不快感を押さえ込むと、花井は自分の馬鹿さ加減に唇を歪めた。

狂ってしまった。

田島悠一郎という男に、自分はこれほどまでに狂ってしまったのだ。

ならばこれからの年月、彼の側にいて、同じだけ彼を自分に狂わせてみたい。

そんな不遜な事を考えて、花井は頭を振ってその考えを追いやった。
そうじゃない。そうじゃないんだ。
自分自身に落ち着け、と何度も言い聞かせながら、花井は便箋を捲って、続きを書き進めた。

もしもの時の保険でしかないのだから、変な事は考えない方が良い。
ただ、田島の事だけを想って、彼が満足する結果を得られるまで進む事が出来るようにするのが、田島自身がライバルと認めてくれて、好きになってくれて、共に在る事を望んでもらえた自分の責任なのだ。

自分の今の想いを、できる限り詰め込んだその文面を確認しながら、それをどこに片付けるかと考えて、花井は頭を捻った。
自分の身の回りに置いておきたい所だが、もし田島に見つかってしまえば思い切り恥ずかしいし、これから幸せな時間を築こうという時に何を、と呆れ、怒られてしまうだろう。
となると誰かに預けるのか?と考えて、家族は真っ先に除外した。
けれど、すぐに田島と一緒に住む事を家族に報告しなければならないという事実に、全身の血の気が引いた。

どんな反応をされるのかなど、これっぽっちも想像がつかない。
兎に角、父は物凄い剣幕で怒り出すだろうという事だけは確実だ。
そうなると、田島と共に報告に行く事等もってのほかだ。怪我などさせるわけにはいかない。
手紙を丁寧に折りたたみ、付属していた封筒の中にしまいこみながら、花井は盛大な溜息を吐いた。
その途端、ベッドの方から呻き声が聞こえてきて、花井は慌ててレターセットや封筒を鞄の中に片付けた。

起こしてしまったのか?と気配を殺して覗くと、寝返りを打っただけらしく、ベッドの上で大の字になりながら、何かを探すように、左腕をばたばたと動かしていた。
そして、そこに何も無い事を確認すると、まだ意識は覚醒していないだろうに、眉間に深い皺が刻まれる。
「はないー……どーこー……」

鼻に掛かった声に、花井は小さく噴出した。
田島の左側は、自分の指定位置なのだ。
「俺はここだ、たじ……悠一郎……」
普段は呼ばない田島の名前に、全身が再び熱った気がしたが、その熱に後押しされるように、花井はベッドサイドに腰掛けると、恋人の唇に自分のそれを重ねた。

今は何も考えない。

ただ、この熱に酔いしれて、幸せで安らかな眠りに浸れば良い。
彼と共に新しい道を歩み始めるのは、もっと日が高く上ってからで充分間に合う。
再びベッドの中に、田島の腕の中にもぐりこみながら、花井は目を閉じた。
脳裏に蘇ってくるのは、さっき自分がしたためた手紙を預ける候補の顔と、祖母の手紙の言葉だけだ。

『歩くのを止めなければ、いつでも道は開けてくるからね』

優しい声で、耳元で囁かれたような気分になりながら、花井はすぐに訪れてくれた眠りの中に
埋没した。







やめておけば良かったかもしれない、mementoの手紙を書く花井。
本当は幸せな大人タジハナを!とか思っていたはずなのに……田島の事を見透かしてもいたけれど、独善も持っていて欲しい。
オーダーメイド万年筆は本当にあります。花井が持っているのは桔梗のイメージです。欲しいなぁ!