fall in




屋内練習場内のブルペンで投球練習を続けながら、叶は自分の不調、というか投球の違和感に苛々と歯軋りした。
「叶、そこまでにしとけ」
「……はい……」
自分の練習を見てくれていたコーチの言葉にすら、まだ投げられるのに、と腹を立てながらも、次のピッチャーと練習を交代する。

部活の中でも、野球に一番力を入れている三星は、小さいながらも屋内練習場を設置していて、中学と共用している。その為、今日のように天気が悪いと、全員が寄ってくるのだが、そのひといきれで室内温度は暖房無しでも結構高い。
叶は壁際に置かれているベンチに座り込むと、アンダーと練習着の間に空気を送り込むために、ばたばたと胸元をはためかせた。
「疲れたのか、叶」

呼び掛けられて振り返ると、防具を身につけた畠が立っていた。
だが、なんだかいつもと様子が違い、その顔は何だか嬉しそうだ。
「何だよ畠。俺が疲れてたらそんなに嬉しいのかよ」
「そんなに絡むなよ。いいものやっから」
少し困った様子ながら、それでも嬉しそうな畠が差し出してきたのは、透明な袋に入れられ、可愛くラッピングされたココアカップケーキだった。
「はぁ?何これ」

差し出された物に対して、思い切り顔をしかめた叶は、はっとして相棒の顔を見上げた。
「まさかこれ、お前が……?」
「んな訳あっか!女子部の三橋が、バレンタインだからって野球部の連中に配ってんだよ!」
「瑠……三橋が?」
なにやらぶつぶつと文句を言いながら、畠が押し付けてきたそれを受け取ると、叶はまじまじとそれを見つめた。

「ちゃんと食えんのか?これ」
「さっき、織田が速攻で食ってたけど、旨いってさ」
畠が言いながら叶の隣に腰掛けようとしゃがむと、その背後から小柄で細身の人影が現れ、腰に手を当てて叶の事を睨みつけた。
「食べられる物しか使ってないから食べられるわよ、失礼ね!折角埼玉まで行って作ってきたんだから、叶は特にありがたがって食べなさいよね!」
「うおっ三橋!何入って来てんだよ」
「埼玉?廉のトコ行ったのか?」

驚いた畠を放置して叶が瑠里に問い掛けると、瑠里はいとことよく似た大きな目を面白そうに細めた。
「廉と、廉の友達の千代ちゃんって子に手伝ってもらって、皆の分作ったんだ。ほら」
そう言って瑠里は手に持っていた大きな紙袋を示して見せた。中にはまだ沢山のラッピング済みカップケーキが入っている。

廉とは瑠里のいとこで、叶とも幼馴染みだ。瑠里はそれほどでもなかったが、廉は女ながらに叶と同じく野球が好きで、中等部に居る時には叶とポジション争いをするほどの実力を持った選手でもあった。
だが、理事長が瑠里と廉の祖父であったため、実力を見てもらったうえでの決定だった廉のエース就任に、その頃一緒にプレイしていた部活仲間の大半は反対し、その事に傷ついた廉は、高校進学時に両親の居る埼玉の高校を受験し、自分達の元を離れていった。

淡い思いを抱いていた相手を、最後まで守ってやる事が出来なかった事や、その廉が入学した西浦高校との練習試合の時に、自分に向けて挑戦的な視線を向けてきた捕手の垂れ目を思い出し、腹の底が熱くなってくる。
ただでさえ調子が悪くて苛々しているところに、そんな古傷を抉られるような瑠里の言葉に、叶の中の堪忍袋の緒がじりじりと細くなっていった。
「何だよお前、こっちに友達居ねぇのか?わざわざ埼玉まで行くなんて」
思いついた事をそのまま、あざけるように言うと、紙袋を持った瑠里の気配が瞬く間に怒りのそれに変わった。
「何よそれ!失礼極まりないじゃない!」
「叶……お前……」
怒鳴られ呆れられ、叶の方の苛々がもう我慢の限界に達した。

「うっせえな。恩着せがましい事してんじゃねぇよ。畠、行くぞ」
低く言い放つと、叶はベンチから腰を上げた。
いつもの事だ。
いつも、こうしてお互いに苛々をぶつけて言い合いをする。そして、相手にぶつける事で多少なりともすっきりとする。
そんな普段どおりの展開だろうと踏んでいた叶は、自分の声音の低さに、そこに含まれた刺の鋭さに気付かなかった。
「おい、叶」
「何だよ、はた……」
畠が呆然といった態で呼びかけてきた声に振り返った叶は、呼んだ本人より、その声が指し示していたもう一人の様子に息を呑んだ。
「三橋……」

そんなに傷つくとは思わなかったんだ。
あれくらい、いつもの事じゃねぇか。
頼むよ、俺、今は自分の事で手一杯なんだ。
ってか、何で──

「泣くなよ……」
「泣いてないわよ!」
苛々と混乱が漸く導き出した言葉に、瑠里は目に溢れんばかりに涙を溜めながら叫んだ。
「何よ、最近調子悪そうだったから、ちょっとでも元気になればと思って、わ、わざわざ、廉に……っ」
「え?調子悪……?えぇ?」
不思議そうに声を上げる畠になど、叶の意識は全く向かなかった。
肩を震わせながら、しゃくりあげるように話す瑠里から目が離せなかった。

とうとう堪えきれなくなって、零れ始めた涙を手の甲で乱暴に拭うと、瑠里は畠に紙袋を押し付けて、室内練習場の出入り口に向かって、突進するような勢いで歩き始めた。
止める間も無く、その背中を見送った叶に、室内練習場にいた全員の視線が集中する。
「叶……」
畠の呼びかけに被さるようにして、扉の開閉の音が響き渡り、叶は思わず握った拳に力を込めた。

「ちーす」
そんな沈黙を破るように、暫くして練習場に少しイントネーションの違う声が響き、長身の人影が入れ違いに現れた。
叶達一年の中で一番の長身を誇る織田である事は一目でわかるが、彼の纏う雰囲気もまた普段ののんびりした物と違い、大股で叶の前に近付く彼に、コーチ陣ですら息を呑んだ。

「……んじゃあ俺、これ配ってくるわ」
チームメイトのただならぬ雰囲気に畠も恐れをなし、瑠里に託された紙袋を抱えてその場から逃げるように立ち去った。
そんな畠に目もくれず、織田は叶の目の前に仁王立ちになると、目深に被っていた帽子に手を伸ばし、つばを持って振り上げるや、結構な勢いのまま叶の頭目掛けて振り下ろした。
「何しとんのや叶。女泣かすなや」

頭は痛くなかったが、心臓の辺りがツキリと痛んだ。
「何で俺が泣かせた犯人だって分かんだよ……」
顔を伏せたまま、痛みを誤魔化すように呟くと、頭上から大きな溜息が降ってきた。
「三橋から聞いたんちゃうんか?お前の為に作って来たんや、言うて」
帽子を被り直した織田は、叶からの返事を待つように、そこで言葉を切った。
だが、返事がなかなか返ってこないとみると、首裏を掻きながら視線をあさっての方向に向けた。
「あんなぁ、叶。わざわざ埼玉まで行って作った理由ら、分かりきっとるやろが。お前の好きな奴が作ったもんならお前も喜ぶやろ思たから、休み潰して作りに行ったんやろが。……それから成長痛、ちゃんと他のモンに言うとかんかい」
「なっ!」

織田から放たれた二つの事柄に、叶は弾かれたように顔を跳ね上げた。
「何でお前そんな事知ってんだよ!」
慌てふためく叶を見て、織田は人の悪い笑みを浮かべると、立てた右親指を背後に向けた。
「全部三橋情報に決まっとるやろ」
当たり前のように言われて、叶は恥ずかしさのあまり火が出るかと思うほど熱くなるのを感じて、無意識に拳で口元を隠した。

確かに足の成長痛があって、踏ん張りが利かなかった時期もあったが、今はもう痛みも無く、投球に影響は無い。けれど、もしかしたら、その時期に変に足を庇った所為で、フォームがどこか崩れてしまい、それが今の違和感に繋がっているのかもしれない。
そんな、自分でも気付かなかったような事に三橋が気付いていたという驚きと、それ程心配をかけていたのだという呵責の念が急に頭をもたげ始め、居ても立っても居られなくなった。

叶は織田の長身をかわして扉に向かって走り出した。
「周り良う見ぃや、叶」
走り出した背中に投げかけられた織田の言葉に引っ掛かりを覚える間も無く、外に出るや否や辺りをきょろきょろと見回した。
近くに居る気配はないが、そう遠くへ行ってはいないという事は分かっていた。
「あれ?叶、どうしたんだ?」
「何でもねぇ!休憩だ!」
屋内練習場に向って来ていたチームメイトに叫び返しながら、当たりをつけた場所に向かって、叶は走り出した。

降ったり止んだりを繰り返す冬の小雨の中、上着を着ていないことに気付いたが、どうでも良いと思えるほど焦っている自分に驚いた。
投手失格だと思いながらも、幼馴染をもう一人失うよりは良いと思えた。
埼玉に行った廉も大事だが、瑠里も同じく大事な幼馴染なのだ。

校舎へと向かう道すがら、肩を落として歩く小柄な人影を見つけて、叶は足を速めた。
練習用とはいえスパイクだった為、かちゃかちゃと足音がうるさかったが、瑠里は気付いていないのか、顔を伏せたまま歩き続けていた。
その背中に迫れば迫るほど、鼓動の音が耳について煩かった。
「瑠里!」
漸く細い肩が手の届くところに来て、叶は掴んで振り向かせようと手を伸ばした。
が、声を掛けられた事で瑠里は足を止め、背後を振り返ってしまったために、伸ばした手は空を掻き、叶はバランスを崩して壁に激突しそうになった。
壁と叶の間に入る形になった瑠里が、咄嗟に叶を抱き抱えるように手を伸ばした為に、最悪の事態は避けられたものの、別の意味で最悪だと思える状況に、二人揃って固まってしまった。

酷く耳障りな筈の鼓動と、触れ合った場所の暖かさが心地よく感じられて、無意識に互いの背中に回していた手に力がこもった。
「か、……シュウ?」
おずおずと、懐かしい呼び方をする声に、叶は目を細めた。
「酷い事言ってごめん。八つ当たりして、格好悪ぃな」
熱に浮かされたように、謝罪の言葉がするりと零れた。

「う、ううん!私も、確かに恩着せがましかった、よね」
叶の腕の中で、瑠里は小刻みに首を横に振った。
「あの、ね?廉も、シュウに元気出してって伝えてって……それから、またこっちに
も遊びに来るからって」
「そっか……あの垂れ目の捕手の彼氏と一緒にか?」
もっと自分で傷つくかと思った言葉が、何の抵抗も無く言えて、叶は小さく笑った。
「だったら、俺とそいつで一回キャッチボールでもやろうかな」
「シュウ、廉がキャッチャーの人の事好きなの、知ってたの?」
腕の中から、瑠里が驚きに目を瞠りながら僅かに顎を上げて叶の顔を見上げた。
好きだった人に良く似た顔をした、好きな人。

「ばればれ。分かんねぇ方がおかしい位だったぜ?」
廉が所属する野球部が、合宿の仕上げに申し込んできた練習試合で、廉がピッチャーを務めていた時の事を思い出して、叶は瑠里の背中にまわしていた手の力を少し弱めた。
「そうだったんだ……」
練習試合の事も終わってから知らされていた瑠里は、言いながら不満そうに頬を膨らませんた。
「おら、変な顔してんなよ」
膨らませた頬を両手で潰すようにして優しく挟んでやると、驚いた瑠里は目を閉じた。

まるでキスを待ち受けているかのような瑠里の表情に、今まで冷静だった理性が吹き飛びかけて、叶は慌てて目を逸らした。
「じゃあ俺、練習戻るわ。ケーキ、ありがとな」
「待って、シュ……」
高潮していた顔から一気に血の気が引いた瑠里の様子に、慌てて彼女の視線の先である背後を振り返ると、建物や植え込みの影から顔を覗かせる野球部のメンバーの顔が幾つか見つかって、叶は頭を抱えた。

「やべ!見つかった!」
一番近くの茂みに隠れていた畠の声に、わらわらとかなりの人数が逃げ始め、叶は怒る気力すら奪われた。
「あいつら……」
「シュウ」
今まで聞いた事の無い優しい呼びかけに振り返ってみると、瑠里が小さな箱を持って、こちらに差し出していた。
「これ、シュウだけに特別」
はにかむように笑った瑠里は、可愛らしいピンクの包装紙に包まれた箱を押し付けるようにして叶に渡すと、踵を返してその場を後にした。

一人ぽつんと取り残された叶は、その意味を測りあぐねて、真っ赤にゆであがった顔で瑠里の後ろ姿を見送った。
「えーのー青春真只中」
「織田?!」
不意を突かれた心底羨ましそうな頭上の声に振り返ると、織田がこちらを見下ろしながらにやりと笑った。
「せやから周りに気ぃつけや言うたに」
堂々とデバガメしていたことを明かした織田は、手にしていたウインドブレーカーを叶に向けて差し出した。
「三橋からの特別チョコに関する口止め料は、お前の分のケーキでどないや?」

「バーカ、誰がやるかよ。言いたきゃ言えば良いよ」
「おおっ?男前やのー叶」
一瞬言葉に詰まった叶だったが、ウインドブレーカーを受け取って着込みながらそう笑うと、織田は関心したように茶化した。
気温は低いままだが、雲の薄くなった空には透けるようなオレンジ色の光が広がり始めていて、叶は目を細めた。

「廉に礼のメール入れとこ」
「は?埼玉の奴にか?何でや」
不思議そうな声に、叶は不敵に笑った。
「このチョコもらえたのは、廉のお陰だからな。そのお礼」
「何や、失恋吹っ切れたんか?」
「瑠里から特効薬もらったからな」
叶の言葉に、織田は思い切り眉を歪めた。
「特効薬?」
チョコか?と不思議そうに呟いた織田に、叶は意味深な笑みを向けるだけで、答えを口にする事はしなかった。

「ほら、練習戻るぞ」
答えを聞きたそうな織田を放り置いて、叶は練習場へと向かいながら、危うく口にしそうになった言葉を飲み込んだ。






雪月さんへの捧げ物。我ながら書いていて恥ずかしいくらいの少女マンガテキスト。
でも叶君は男前の王子だと思うので、自分的には満足(笑)しかし、三星学園の内情はどうなんでしょうね。中学は男子部、女子部分かれてましたが、高校でも分かれているのかな?しかし、それでは余計に色んなフラストレーションが溜まって、生徒は大変じゃね?
特効薬=新しい恋(恥ずっ!///)