雪明かり 屋敷の敷地内に建てられた離れの一室、火鉢にかけられた鉄瓶からしゅんしゅんと音を立てて蒸気が上るのを、見るとは無しに見つめながら、花井はほうと息を吐いた。 冬の寒さが宿痾(しゅくあ)に障るからと、家族が部屋を温めてくれているお陰で息は白くならない。 けれど不意に、息が白くなり、耳や頬を切り裂かんばかりの冷たい風が懐かしく思えて眉根を寄せた。 演習の時にはあれほど辛かったというのに、こうして布団の上に縛り付けられている時には懐かしく思い出す。 何と人間は現金なものだと思うが、それもまた人である所以なのだろう。 そして、花井にはもう一つ思い起こすものがあった。 どんな時も自分の側に在った、何よりも大切な存在が、今日もまたこの寒空の下で厳しい訓練を受けていたのだろうと思うと、余計な世話だとわかってはいても心配だった。 ちゃんと身なりは整えているのだろうか、教官からの叱責を受けてはいないだろうかと、心配の種は尽きることが無い。 同じだけの齢を重ね、同じだけの勉学も修めているのだから、きっと杞憂なのだと分かってはいても、大切な人──田島の事が気に掛かった。 花井と田島は、家が隣同士という事もあって、生まれてすぐからの付き合いだ。 もちろん赤ん坊の頃の記憶など無いに等しいが、半年近く自分の方が年長であるためか、昔から世話を焼いていた。 旧家の男子らしからぬ腕白で、近所の子供を引き連れて走り回る田島を追いかけたり、時には互いに派閥を作って対立したりして成長したが、いつの頃からか、互いに申し合わせた訳でもないのに、同じ陸軍に入る事を目的として勉学に励むようになった。 中学の頃から勉学が苦手だと喚いていたのに、田島は実技に関しては飛びぬけた成績を弾き出し、花井はそれが悔しくて自分を鍛えぬいた。 勉学では勝っているのに、このふたまわりも体の小さい幼馴染に負けてなるものかと血気盛んになる自分に、田島もまたライバル心を掻き立てられたのか、必死になって勉学にも精を出すようになった。 そして何とか二人揃って陸軍の幼年学校に入学した頃、青天の霹靂とも言える事件が起こった。 一体いつの間に決められていたのか、入学後初めての休暇で実家に帰った二人を、花井の家で待ち構えていた両親達は、幼年学校の入学祝いだと笑いながら、それぞれに一枚ずつ写真を差し出した。 そこに写っているのは、どこかの育ちの良さそうな、かしこまった表情を浮かべた少女達。 それぞれの許婚だと、つらつらと出自などが言い述べられたようだったが、お互い耳に届いてはいなかった。 なんとか冷静を装ってその場を辞した後、許婚を紹介されたくらいでこれほど動揺している自分に驚いている花井を、田島は遠乗りに誘った。 一も二も無く飛びついたのは、混乱から激しく波打つ鼓動から逃れたかったからだった。 屋敷で飼っている自分と父の馬に飛び掛るようにして跨り、二人でしゃにむに馬を駆けさせた。 なるべく広い道を選んだつもりだったが、道を行き交う人々に何度か叱責を浴びせられながら、知人の所有している遠乗りのための馬場がある草原を目指して駆け続けると、何も言わなくても田島も理解してくれたのか、自分の後を追いかけてきた。 何度か抜きつ抜かれつしながら目的の草原に着いた頃、俄かに崩れ始めた天気に導かれるまま、二人で休息の為に立てられていた東屋に転がり込んだ。 それがいけなかったのだろかと、いまでも時折後悔が頭をもたげる。 次第に強くなる雨脚に気を遣る暇も無く、噛み付くような口付けを先に仕掛けたのはどちらだったのだろうか。 お互い女相手の経験も無いというのに、相手を呑みつくそうとするかのような激しい口付けを交わし、その気持ちを確かめ合ってしまった。 好きだという気持ちを、言葉に乗せてはいない。 けれど、その口付けだけで充分田島が自分の事を愛してくれていること、自分が、田島の事をどんな人間よりも大切に思い、愛しているのかを知った。 口付けだけでは止まらなくなり、昂ぶってしまった分身を慰めあい、初めて感じる快楽に飲み込まれながら、幸せと絶望を噛み締めた。 学校に戻り、日常の生活に戻ると、友人との気の置けない会話や、いつまで経っても慣れない厳しい訓練に明け暮れて、暫くはお互いに触れ合う事は無かった。 しかし冬の休暇で家に戻ったある日、再び田島に誘われて遠乗りに出掛け、花井は田島と溶け合える喜びを知った。 男同士、間違った関係なのだと理解はしていても、体の内側で断末魔の苦痛に身悶える蛇のようにうねる感情は制御できず、誘われるたび、得られる喜悦に身をゆだねてしまった。 そのツケが、今この身を蝕む病だったのかも知れない。 無事に進級した春のある日、花井は血を吐いた。 冬の寒さの残る間から、ずっと止まらなかった咳の為に気管が裂けたのだろうと高をくくり、誰にも何も言わなかった。 しかし、初夏を迎える前に再び酷く咳き込み、運悪く人目のあるところで喀血した。 教官たちに問答無用で担ぎこまれた病院で、長い加療を要する病だと知れた時、花井の頭の中にあったのは田島には知られたくないという望みだけだったのだが、そんな望みが叶う筈も無かった。 その次の日には実家に戻される事となり、この離れでの生活が始まった。 両親や妹達は病を恐れる事無く接してくれていたが、そんな優しい人達に万が一にも移してはなるまいと、花井の方から極力接触を避けた。 そうして三日も過ぎた頃だっただろうか。 突然の訪問者が花井の元を訪れた。 学校に残してきた荷物を届けるという名目で現れた田島は、こちらが必死に制止するのも聞かず、六畳ほどの花井の病室に押し入ってきた。 乱暴な所業に語気を荒げて叱咤する花井を、美しい姿勢で正座した田島はまんじりともせず見つめ、やがてぽつりと囁いた。 小さな呟きとも言える言葉を、しかし花井は運悪く聞き逃した。 何を言ったのかと問いかけようとした途端、田島は持っていた帽子を目深に被って部屋を辞してしまい、以後、田島にその言葉を確認してはいない。 時折その事が無性に気にかかり確かめたいと思う。 しかし、田島が再びこの部屋を訪れないよう家人に頼み、渡り廊下で食い止めてもらっている為、もしかするともう知ることは無いのかもしれない。 花井は死を恐れては居なかった。 自分の中にある大切な気持ちを損なう事無く、大事な田島の名誉にも傷をつける事無く世を去れるのなら、これまで育ててくれた両親への申し訳無さはあるものの、上々だと考えている。 養生を重ね、快癒する事に望みを持っていないわけでは無いが、どちらに転んでも良かった。 花井は布団の中で寝返りを打つと、天井を見上げて再び息を吐いた。 今夜は日暮れ頃から雲行きが怪しくなっているので、もしかしたら雪が降るかもしれないと家人が言い残していった言葉が思い出される。 あの冬の日、田島と直に触れ合った日にも、天は周囲から自分達を囲ってくれるかのように雪を降らせていた。 もう一年近くも前の出来事を瞼の裏に思い描こうと目を閉じた瞬間、こつりと何かが鳴った。 空耳かと疑うほど微かな音は、しかし断続的に繰り返され、さすがに花井も訝しく思って布団の上に身を起こした。 上着を羽織り、音が鳴り続く衝立の向こうを窺うと、閉ざされた障子の向こうに人影があった。 「花井」 静かな、しかし決然とした声は久し振りに耳にするものだったが、誰の声なのか間違える筈はなかった。 驚き慄き、駆け寄ってしまった障子の格子に手を掛けると、花井はそこで己を押し留めた。 薄い紙で仕切られているだけとはいえ、これが最後の砦だ。 「……何しに来た……」 今の自分に出来るだけの意思の力を総動員して固い声を放つ。 本当はすぐにでも障子を開け放ち、温かい室内に相手を──田島を迎え入れたい。 しかし、そんな事をしてしまっては病を移してしまうかもしれないのだ。 花井は拳を握り、突き放すように帰れと呟いた。 でも、そんな虚勢も相手には筒抜けだったのだろう。 障子の向こうで田島が苦笑した息遣いが聞こえた。 「生きて、自分で歩きまわれるくれぇの元気はあるんだな」 「俺がそうすぐにくたばるか馬鹿野郎」 つい挑発に乗せられて言い返すと、田島はまた障子の向こうで小さく笑った。 「外地演習が決まった」 かみ合わない回答に、一瞬目の前が暗くなる。 「そうすぐに行って帰ってこれる訳じゃねぇから、花井の様子を見たかったんだ。これでちょっと安心した」 穏やかな声に、花井は崩れそうな体を何とか持ちこたえさせ、意識して呼吸を繰り返した。 ただの演習なのだから何も問題は無いだろうが、これまでのように頻繁に田島の存在を、この自ら作り上げた檻の中から易々と感じ取る事が出来なくなるのだと思うだけで、目頭が強い熱を帯びる。 「中学で一緒だった阿部覚えてっか?今は一高行ってっけど、あいつの知り合いで外地にツテのある奴がいるらしいから、手紙とかすぐ届けてくれんだって。だから寂しくねぇぞ」 障子の向こう、冷たい廊下に膝をついているらしい田島の影が動き、大きな手が障子に添えられた。 寂しく無いなどとは言えなかった。 自分以上に、田島が不安に怯えているのだと分かる。 花井は障子に添えられた手の影に自分の手を添えた。 「俺を見くびるな田島。絶対ぇこんな病気治してやる」 強く放った言葉が微かに震える。 「俺が死ぬのは、お前の側だ」 決意の言葉と共に、頬を熱い涙が伝った。 薄い紙越しに伝わる熱を直接感じたいという欲求が強まったが、唇を噛み締めてそれを堪える。 田島もまた、自分がそうしているのを感じ取っているのか、障子の向こう側で肩を小刻みに震えさせていた。 「また会おう、田島」 「……また、な。花井……」 搾り出すような決別の言葉と共に影が動き、指先で感じていた熱が消え去った。 猫のようなしなやかさで身を翻した田島は、閉じられていた雨戸をそっと開き、庭先へと消えて行く。 僅かに開いたままだった雨戸の隙間から覗く外の気配は、常のものより明るかった。 雪が積もったのだと知って、花井は障子を開けて外を窺った。 がたがたと風が雨戸を嬲る。 隙間から吹き込んだ雪が廊下を濡らしているが、花井は構わずに雨戸に手を掛けた。 夢でも幻でもなく、田島が今ここにいたのだという証拠でもある足跡が、とめどなく降り続く雪によって消されていく。 女々しいと、自分を詰る声が身の内から沸きあがる。 しかし、花井は田島の足跡が薄くなるまでその場に立ち続けた。 (2010.03.06) 某絵チャで描かれた絵を元に妄想しました(^^) 少々時期はずれではあるのですが、書いていて楽しかったですv軍隊パロらしからぬ軍人モノですみません(平伏) |