いつまでも、どこまでも




事前に連絡を貰っていた店に入って名前を告げると、心得ていたウェイターが、すぐに店の奥まった一角に案内してくれた。
プロ野球選手として過ごすようになって数年、この頃ようやくこういった高級感のある店に入ることにも慣れたが、それでもやはりどこか息苦しい気がして、田島は無意識にシャツの襟元を緩めた。

「こちらのお部屋でございます」
細いフレームのめがねと制服が似合う青年は、店の最奥に設えられていた個室に田島を案内し終えると、手にしていたメニューをテーブルの上に広げ、お決まりの科白を残して立ち去ったが、田島は人目がなくなるなり携帯を取り出して弄ってみたり、店の内装に視線を向けてみたりと、らしくない緊張を解そうと必死になっていた。

今日、この店で一緒に食事をするのは数年前から一緒に住んでいる相手だ。
自分の誕生日だからとわがままを言い、押している仕事があって忙しいと知っているのに外食に誘った。
店は相手に選んでもらったが、今夜は一つの決心を伝えなければならず、その緊張からどうしても落ち着くことが出来なかった。

そわそわと子供のような自分に呆れ、深々と溜息をこぼしながら顔を伏せた瞬間、個室の壁の向こうに人の気配を感じ、田島は弾かれたように顔を上げた。
「悪ぃ、遅くなったな」
「んにゃ、こっちこそ忙しいのにゴメン、花井」
遅れて現れた待ち人は、田島を案内したウェイターとは別のウェイターを退け、4人掛けのテーブルの向かい側に座ると、田島が広げていたメニューに視線を落とした。

「もう何か頼んだか?」
「んーんまだ。俺も今来たばっかみてぇーなもんだから」
知り合って十数年、毎日のように顔を合わせている相手であり、今ではそれこそ頭の天辺からつま先まで知らぬところが無いと自負している相手は、口元を柔らかくたわめて笑った。
「そっか。じゃあここでは本格的に飲み食いするなよ?」
同じ部活に所属したのが縁で、今もこうして側にいてくれる愛しい相手は、少し充血気味の目をしていて、田島は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

緩く波を描く髪が嫌だったのと、小さな頃からそれがあたりまえだったから、と大学に入るまではずっと坊主頭を通した花井は、今日は少し伸ばした髪を後ろに撫で付けるようにして整えていて、普段家で見るものとは違う姿に新鮮な心地になる。
その髪型を崩してやりたい衝動も一緒にやってきてやっかいだったが、何とかそれをやり込めると、田島は花井と共にメニューに見入り、軽めのメニューを注文した。

「んじゃ、誕生日おめでとう田島」
「ん!あんがと!」
届いたばかりのワインのグラスを軽く打ち合わせて鳴らし、深い色合いの赤ワインをかるくあおると、空腹の胃が焼けるようだったが、かえって食欲がそそられる。

「結構うめぇな、これ。ボトル貰って帰ろっかな」
「花井、結構ワイン好きだよなー。いいんじゃね?今日の記念に」
幸せな気持ちに頬を緩めながら頷くと、一瞬押し黙って考え込んだようだったが、すぐに小さく頷いた。
「そうだな、お前の誕生日と、俺の転職記念に」

花井から放たれた言葉を一瞬理解できず、目を大きく見開いて向かい側に座る花井の顔を凝視すると、花井はしてやったりという意地悪い笑みを浮かべて、もう一口ワインをあおった。
「今居る会社より好条件のところを見つけてさ、相談しなくて悪かったけど、会社を移る事を決めてきた」

つらつらと語り続ける花井を信じられない気持ちで見つめていると、まだ笑みを消さない花井は手櫛で折角整えていた髪を崩した。
それは髪を伸ばし始めてから現れた、緊張を解すための仕草だと田島は分かっていたが、花井は未だ知らない。その仕草の色気に一瞬意識を奪われた田島だったが、花井は全くそれに気付かずに一つ息を吐くと、上目遣いに田島を見遣って突然にんまりと笑った。
「だから、お前は安心してアメリカ行きを決めて来い」
「は?!」

あっけらかんと放たれた言葉に、田島は思わず声を上げてしまった。
たまたま個室横の通路を通りかかったウェイターが、突然の驚声に壁をくり貫かれた入り口の向こうからこちらを向いたが、すぐにまた無関心を装って立ち去って行った。
だが、田島はそんな事にすら気付く余裕も無く、花井の顔を見つめながら声にならない声を絞り出した。

今日、花井に伝えたかった決心というのはまさにそれだった。
プロの野球選手になる前から、いつか、叶うならばアメリカでプレイしたいと願い続けていた。
まだもうしばらくは日本でプレイしなければならないが、数年後、メジャーの舞台に立つ事を考えるならば色々と準備しなければならない事もある。
その最たるものが花井だった。

高校で出会い、始めは友人の一人であったのに、いつの間にか気になる存在になり、愛しさが積み重なった頃にはかけがえの無い存在になった。
祝福の声が掛けられる事の少ない関係に引きずり込んだというのに、ずっと田島の事を想い続けてくれている人と離れる事が想像できず、どうしても一緒にアメリカに行きたかった。
しかし、花井は会社勤めをしている為、一緒に行くとなれば苦労して就職した会社を辞めてもらわなければならなくなる。

運がよければ、アメリカ支社での勤務もありえたかも知れないが、田島が花井の会社の支社のある州のチームに所属できる保障も無い。
東海岸と西海岸に別れて住む事になったりでもすれば、もう違う国に住んでいるのと同じだろう。
そんな生活に耐えられる自信が無くて、わがままを承知で今日田島は花井にその決意を伝えるつもりだったというのに、それを見越していたのか、花井は丁度運ばれてきたシーザーサラダを小皿に取り分けながら口を開いた。

「その会社で働くのは短期間のつもりだ。お前がメジャー行きを決めてこれたら、いつでも辞める」
「はぁ?!そんなのオッケーする会社なんかあんの?ってか、花井あんなに苦労して入った会社辞めたって、何で……」
驚きのあまり、自分の希望が叶いそうだというのに、田島は怒りに似た感情の嵐に任せて叫んでいた。
そんな田島の反応に驚く様子も見せず、花井は静かな瞳で田島を見つめた。
「じゃあ聞くけど、お前は俺を置いてアメリカに行くつもりだったのか?」

瞳と同じく、凪いだ水面みたいに穏やかな言葉に、田島は慌てて頭を横に振った。
すると、花井は安心したように眉を歪めて苦笑した。
「なら、俺からの誕生日プレゼントを受け取ってくれよ田島。そのために色々頑張ったんだから」
良く見ると、薄く隈の浮いている目を細めた花井を、田島はすぐさま抱きしめてしまいたくて仕方が無かった。

「……もし、メジャー行けなかったら?」
「その時はその時。そのまま勤められるように頼み込んでも良いし、別の仕事を探しても良い。ってか、お前なら行けるって信じてるからな」
沸きあがる衝動を堪えきれなくなって、小さく声を上げて笑う花井の顔を掴むようにして引き寄せると、田島はテーブル越しに身を乗り出し、花井の唇に口付けた。

少し荒っぽい口付けを短くかわすと、顔を離した途端に左耳を思い切り引っ張られて叱られたが、田島はそんな痛みが気にならないほどの喜びに破顔しながら目尻に喜びの涙を浮かべた。
「花井って俺の事なんでもお見通しなんだな!あんまり甘やかされっと、俺溶けちまいそう」
「おう、覚悟しとけ。お前が溶けるまで甘やかしてやっから」
突然のキスへの羞恥に顔を赤らめながらも、周囲に他の目の無かった事を確認した花井は、口元に不敵な笑みを浮かべた。

「だから、お前には俺が必要だって、ずっと思わせてくれよな」
「うん、分かった。約束する」
絶対に甘やかすだけでは無いとわかっていたからこそ、田島は素直に頷いた。
それから、頭の片隅でもしこの世に神様が居るとすれば、田島は神様にこそ甘やかされているのかもしれないと思った。
愛して止まない野球を与えてくれた事。
そして、何にも代えがたい存在──花井に出会わせてくれた事。

この世に生まれてきた事に心から感謝しながら、田島はもう一度花井の唇に口付けた。



(2010.10.31)
田誕参加作品。今年のテーマが田島を甘やかすだったので、思い切り甘やかしたつもりでした(^^)
田島、誕生日おめでとうでした!