je te veux 2




全身が、何かに叩きつけられたような衝撃だった。



冬の日曜日、午後からの練習に一番乗りをしてやろうと家を飛び出し、グラウンドに入ってすぐに見つけた人影に、悔しい思いと嬉しい気持ちが交じり合った複雑な気持ちを抱いた。
先を越された悔しさと、大好きな人物に、最初に出会えた嬉しさ。

大好きな人物、花井梓の姿をグラウンドに見つけて、田島悠一郎は、彼に見つかるまいと思い、隠れてベンチの物陰に向かった。
隠れて側に行き、いつものように驚かせてやろうと思いながら、胸の内では、獣が不満そうに小さく唸った。
自嘲の笑みを浮かべて進みながら、胸に手を当ててそれを宥めてやる。

大好きな人物、花井梓は、田島の恋人だ。

夏の夜、甲子園を目指して突き進んだ道が閉ざされた時、負けた悔しさと、打てなかった、打たせてもらえなかった悔しさで一杯になって、弾けてしまった感情の赴くまま、大好きな彼に、勢いだけで自分の気持ちを告げてしまった事を、翌日には後悔していた。
だが、自分の正直な気持ちを訂正する気にはなれなくて、そのまま返事を待ち続けた。

至極真面目で、頭が固くて、努力家で、面倒見の良い正直者。そんな彼を、物凄く悩ませているのが心苦しくて、指示された以上の練習に打ち込んで、出来るだけ答えの事や、彼の事を考えないようにした。

そうして待ち続けた時間が、どれ程長かったか。

時には余裕ぶって見たりもしたものの、毎日毎日、微妙に避けられている切なさを隠して、前の自分なら、と考え行動する事は辛かった。
だが、二ヶ月程して得られたものは、世界に二つと無い、何物にも換え難い気持ちと、得難い存在だった。
その時の気持ちを思い出すと、今でも胸の内からほんのりと温かいものが湧き上がって、全身を満々と満たす。
世の中、大分フランクになったとはいえ、まだ同性を恋人に持つにはかなりの勇気が要る。
田島自身、その事を悩んだ時期も少しはあったが、花井梓という存在に出会い、惚れ込み、そして花井に向けるものとは違う軸線上で最上位にある野球を、共にプレイする事が出来る喜びを失う以上に恐ろしい事は無かった。


そして秋──

その彼から得られた、最高の言葉。

その時どれ程うれしかったか、多分、花井には分からないだろう。
特別扱いという名の無視をせず、認めて、同じ目線に立ち、そして、自分の事を一所懸命追いかけて来てくれる。自分がここにいるという事を認識させてくれる存在。
家族以外で、そんな大切な存在を持てた事を、田島は初めてカミサマに感謝した。

しかし、付き合うようになってから、田島の胸の内には一匹の獣が住み着くようになった。

それは、花井に会えれば尻尾をぶんぶん振って大喜びするのに、それと同時に花井に飢えている。そう、飢えているのだ。
だから、襲い掛かりそうになるその獣が、大事な恋人に危害を加えないよう、田島は花井に触れながら、獣を押さえつける努力を必要とした。
けれど、最近はその獣の力が強くなって来ている。
そろそろ限界が近いような気がするが、それでも、大事な花井を、獣の歯牙に掛けるわけには行かないので、押さえ込み、宥める。

そんな田島の努力を知ってか知らずか、花井は付き合う以前とあまり変わりない。
ただ、よく笑顔を向けてくれるようになり、優しく接してくれる。
そんな事を考えただけで、胸の内の獣は甘えたように鼻を鳴らし、パタパタと尻尾を振る。
その可愛らしい反応に、自然と困ったような笑みが広がる。
花井と接している時も、このくらい大人しければ、楽なのに。

隠れたベンチの物陰に、一向に花井が現れない事に気付いたのは、誰かの話し声が鼓膜を震わせた時だった。
モモ監、こと百枝の声でも、マネージャーの篠岡の声でもないそれは、少し遠くて、何を話しているのかは分からなかった。ただ、胸の内の獣がびくりと反応するのと時を同じくして、田島の脳裏に何かが閃いた。
自分が来た時、グラウンドの中には花井の姿しかなかった筈だ。
声の主の女が誰であろうと、花井を相手に話しているという奇妙な確信が、田島の足を声のする場所へと向かわせた。

そこはホームベース裏のネットの向こう側で、着込んだジャージの色が、女が上の学年だと知らしめていた。
そして、案の定話し相手は花井。
途端に暴れようとする獣の咆哮に、心臓が鼓動の速度を増す。

花井の顔が強張っているところを見ると、それがただの世間話ではない事がすぐに知れる。
胸の内の獣が暴れだそうとして爪を立て、どんどん溜まっていく傷口から溢れた血が、視界を濁らせ、気分を悪くさせる。
そして、花井が女に向かって手を伸ばしかけた瞬間、女は細くしなやかな体を翻して、田島の大事な、大事な花井に抱きつき、そして──







「田島!?」

花井の声がして我に返ると、女の姿はもう消えていて、今見てしまった事が幻であったかのように感じ、田島は安堵しかけた。
が、花井はその大きな右手で拳を作ると、その甲を口元に運び、拭った。
それは、花井がキスをした後に、多分無意識にだろうがしている癖だ。
自分も、あの女も、花井にとっては変わりないのか?

「どうしたんだ?田島。こんなに早く……」
「何でその場で断らねんだ?」
胸の内にあふれた血を糧に、獣が物凄いスピードで大きくなり、嫉妬の炎を吐き出し、押さえも宥めも出来なくなる。
まして、花井の顔に浮かぶ、本当に微かな愉悦の表情を目にしてしまっては、獣を繋ぎとめるのは、理性という名のか細い糸だけだ。
「何で……って……ただ吃驚して……っつか、俺が口を挟む余裕なんてなかったの、お前も見てたんじゃねぇのか?」

そう言って、視線を逸らした花井に、こちらを向くように怒鳴りつけてやりたくなる。
獣はそうしろと叫ぶ。
けれども、と、理性の糸が震えて、獣を押し止める。

もう一つの大好きな物、野球は、野球を好きで居る事に代償を求めない。
ただ、自分が満足の行くプレイをする為には、練習が必要だよ、と囁きかけるだけだ。
けれど、花井は?
花井は優しい。
面倒見が良くて、世話を焼くのが当たり前のようで、時々頼りなくて、誰にでも優しい。
そう、誰にでも優しい花井は、田島と付き合うという事も、何か勘違いしているのではないのか?



だから、花井を好きでいる事に、血を吐くような感情を代償に求める。



「やっぱさ、花井は女の方が良いんだ。だからさっきもてーこーしなかったんだな」
「はぁっ?」
「だって、花井は男なんだぞ?そんだけの体もあってさ、女一人くらい、嫌だっつって跳ね除けるくらい何でもねぇだろ」

でも、花井はそんな事はしない。
自分の体の大きさを自慢するような男ではないし、その体がもたらす力を、人を傷つける事になど決して向けはしない。それは分かっている。
けれど、自分という恋人がいるにも関わらず、あんな隙を見せるなんていう事を、二度として欲しくなかった。

「あのなぁ、田島。俺も確かに男だ。でもその俺に惚れたのはお前だろ?」
花井の言葉に、体が大きく跳ねた。
そう、自分は花井に惚れている。
では、今の花井は?

花井は普段、どれだけこちらから好きだと口に出してみても、「おう」とか「うん」としか応えないし、触れ合うのもキス止まりだ。
田島自身、男同士での行為に臆する花井の気持ちも分かる為、むやみに突き進まないよう、セーブしている。
理由は簡単だ。花井がとても大事だからだ。

「田島?」

花井の窺うような声が、どこか遠くで響いた。

気持ちが悪い。
頭がぐらぐらして、何も考えたくないのに、花井の事で次々と嫌な考えが浮かんでくる。
獣が最後の理性の糸を引きちぎろうとして暴れまわり、もう胸の中は血を吸い尽くした獣で一杯だ。

けれど、花井に向けるわけにはいかない感情。

田島は細い理性の糸を必死で手繰り寄せ、踵を返すと、グラウンドを出ようとした。
このままここに居たくなかった。
まだ練習時間には少し早いので、外に出て、ロードワークでもすれば、少しは獣を押さえ込めるかと思った矢先、肘を掴んだ何かに、田島は獣の牙であるかのような錯覚を覚え、思わずそれを跳ね除けた。

その勢いで振り向いたとき、目に飛び込んできた花井の驚いた顔──

何かを言いたそうに、小さく口を動かした仕草に、口の中に苦いものが広がっていく。

獣が胸の中で吼えた。

「何だよ花井」



本当に俺の事を好きなら、その口で囁いて欲しい。



けれど、田島の願いは時間によって阻まれた。

練習時間が迫ってきた事によって、チームメイトがちらほらと集まり始めたのを感じながら、田島はそこから動けなかった。

「田島、今はここまでだ。練習すっぞ。今日はグラウンド全面使えんだから、ほら……」

まるで逃げる口実を見つけられた事を喜ぶように聞こえた花井の声に、獣の思考と自分の思考がリンクする。
いつもなら触れてもらいたいと思う花井の手を跳ね除けて、ショックを受けた事を隠そうともしない花井に、飼い犬に手を噛まれたか?と噛み付いてやりたくなる。
けれど、その後に紡がれた呼び掛けに、獣は初めて怯えた。

今自分は何をした?
何をしようとした?

「たじ……」
「やめろよ」

優しく呼びかけられた言葉に、自分が情けなくなって、涙が瞼の裏にじんわりと広がっていく。
それを勘付かれたくなくて、花井が傷付くかも知れないと分かっていたけれど、声に力を込め、花井を見つめた。

言って欲しい。
けれど、自分から「言って」という訳には行かない。
花井は優しいから、頼んでしまえば絶対に言いたくないと思っていても、きっと言ってくれる。
だからこそ、言えない。

「やっぱ駄目だ、俺。……今日は帰る」
「田島!」
「今日の俺は使い物になんねぇよ。練習したって怪我の元だ。こんなのがいたら、他の奴に迷惑だろ」

花井から視線を逸らし、苦いものを何とか飲み込んでそう言うのが限界だった。
そして、花井から溜息が零れた瞬間、その場に居続ける勇気を失って、田島は全力で出口に向かって走り出し、そのままグラウンドを後にした。





グラウンドを飛び出した後、家に帰るつもりも無くて、休みの時にはいつも走っている道を、どこまでも走り続け、河川敷の土手に辿り着き、そこに倒れこむようにして転がった時には、もう日も傾きかけていた。
激しい運動の後のため、内側から飛び出してくるのではないかと思う程の鼓動が、耳の奥で耳障りだった。
けれど、そんな耳障りな音も、胸の内の獣の哀しげな遠吠えを打ち消す事は出来なくて、田島は一筋の涙を零した。

全てが欲しい。
花井梓という存在の、その全てが欲しい。
肉体も、精神も、そして何より、その心が欲しかった。

それを手に入れられたと思ったあの秋の日は、もう遥かに遠いものに感じられる。

「はない……」

獣の咆哮が唱和する。

「……あずさ……」

自分と獣の境界が消え去る。

田島は両腕で目元を隠すと、息を潜めて、溢れて止まらない涙を零し続けた。



どれ程そうしていたのか、短いと思っていた時間は、思いの他長かったのか、ランニングでかいた汗が全身を冷やしている事に気付いて、田島は半身を起こした。
もう土手には誰の姿も無く、日の落ちた周囲の景色は、すっかり夜のものに様変わりしていて、家々には明かりが点っていた。

冬の冷気と、汗の気化で熱を奪われた体がぶるりと震え、田島はぼんやりと自分の白い吐息を見つめた後、鼻を鳴らした。
もう帰らなければならない。
ベンチに置きっぱなしになってしまった荷物も取りに行かないと、明日の練習に参加できないし、空腹を訴える胃が、ぎゅるりと鳴る。
(……明日、練習出れるかな……)
立ち上がり、背後についているであろう草いきれを払うと、田島は小さく深呼吸して歩き出し、少し体が温まり始めたところで、徐々にスピードを上げ、走り出した。

きんと冷えた空気は、走るリズムに合わせて吸い込むと、胸の中で雨となって降り注いだ。

その雨に打たれて、獣は小さくなっていく。

明日、花井に会った時に、何を言うべきなのか分からない。
けれど、謝るつもりなど一つも無かった。



獣を繋ぎとめる理性の糸は、もう途切れる寸前だから。







←BACK   NEXT→



世界の片隅からごめんなさいu
田島様で無い田島様ですが、まだもうちょっと続きます