je te veux 3




一人取り残されたベンチで、のろのろと着替えを済ませた花井は、汗が引いてすっかり冷えてしまった体を震わせた。
今日は一人、早くから練習を始めていたり、先輩からの告白や田島とのいさかいと、立て続けにショックを受ける事が続いて、疲労感が強かった。
けれど、このままここに居続ける訳にも行かず、満月の月明かりを頼りに自分の荷物を片付け、グラウンドを後にしようとしたその時、ベンチの隅に追いやるようにして置かれたその荷物に気付いてしまった。

見覚えのあるバッグ。

一瞬、見なかった振りをしようかとも考えた。が、自分の律儀な性格がそれを拒否し、ただ届けるだけなら、家人に事伝てれば良いのだし、と、自分自身を説得して、花井は荷物の持ち主、田島の家に向かう事にした。
しかし、自転車で1分というその場所に向かうのに、花井は自分の自転車を押して歩いた。
頭の中では、今日の田島の様子と、事の顛末を話した阿部に言われた「自惚れるな」という声がいつまでもリフレインしていて、混乱した思考が、足の運びを遅くしている。

自惚れ……
人から告白された事に対することか?と考えて、違和感を覚える。
阿部が問題にしているのは、多分もっと違う事だ。
自分と田島が、男同士でありながら、いわゆる恋人同士という関係にある事を知っている阿部は、時々相談に乗ってくれるのはいいが、言葉が足りない気がする。
良くそれで阿部の恋人であり、チームのエースである三橋とコミュニケーションが取れるものだと思う。

三橋は人付き合いが苦手だ。
初めて顔を合わせた時も、見ていて苛々する程びくびくおどおどしていて、声を張り上げた事を思い出す。
(田島と足して割れば、良い感じになるんじゃねぇのかな)
いつも何の臆面も無く「好きだ」と繰り返す恋人の事を思い出して、浮かびかけた笑いが消えた。

それはもう、多分田島じゃない。
そして、多分田島はもう俺に……

仮定であるのに、まるで決定事項のような事柄が幾つも浮かんで、花井は目眩がしそうだった。

いつの間に、田島に好かれているという事が、自分という人間をこれ程までに成すようになったのだろう。
名門シニアの四番で、中学で四番を張っていた自分の鼻を、ぽきりと折った相手。
でも、目に見える程の実力の差を見せ付けていながら、嫌味な所は一つも無く、太陽のように明るく、遥かな高みで輝く。
けれど、そこで輝く為に、田島が何も努力をしていないのかといえばそうではない事を、花井は良く知っていた。

持って生まれた素質を磨き、野球という競技に特化したのは田島の努力の賜物だ。
そして、花井をライバルと認め、追いつかれない為に努力しているのだと言ってくれた言葉は、耳の奥、脳幹に刻みつけられている。

花井は、知らず噛み締めていた奥歯がぎしりと鳴った事に気付いて、我に返った。
共に野球という競技を愛し、プレイする者として、田島は憧れを抱くに値するプレーヤーだと、掛け値無しにそう思う反面、そんなプレーヤーを間近で見て、ライバルと認められているという事実が、焦燥、怒り、妬みがない交ぜになった、どうしようもないジレンマを生み出し、胸の内を駆け巡る。そして、

そして──







その全てを上回る程の、激しい劣情。







そんな物を抱く自分が情けなくて恥ずかしくて、花井は最近、田島が発する言葉にまともに答える事が難しかった。
野球をしている姿が好きだと言ってくれた田島に、愛想を尽かされるんじゃないかと、呆れる程臆病な自分に反吐が出そうになるのに、そんな自分を知って貰いたかったり、同じだけ求めて欲しかったり、もう花井の思考は田島を中心に回っている。

けれど、それではいけない、溺れてはいけないと静止する声も同時に存在していて、終りの無いメビウスの輪のように、何度も同じ思考を巡ってしまい、昼間田島を挑発した時のように、調子に乗ってしまった後は、必ずこうして沈み込んでいく。

いつの間にか止まってしまっていた足を、大きな溜息を合図に再びぎこちなく動かし始めると、目指す場所へゆっくりと向かった。



住宅街にぽっかりと口を開けたような大きな畑を迂回して、そのすぐ近くにそびえる土塀に囲まれた大きな屋敷が田島の家だ。
このご時世に広い畑をやっていられるのだから、おそらくかなりの土地を持っているんだろうな、などとぼんやり考えながら、何の抵抗も無く、敷地内に足を踏み入れる。

時々、三橋の家が使えない時に全員でテスト勉強をする為、お邪魔させて貰ったりしているので、玄関先までは何の抵抗も無い。
が、その玄関までがかなりある。
家の三方を囲っている土塀は、道路に面した正面には無く、生垣に姿を変える。そしてその切れ目に石柱だけが立っていて、そこが出入り口だと示しているが、庭先の納屋(というか、すでにちょっとした一戸建て位ある建物)に収納されている、耕運機や軽トラが楽に出入りできるよう、巾は大きく開けられていて、田島の親か、兄の物なのか、納屋の出入り口を塞ぐように、普通車と軽が合せて3台も停め置かれている。

三橋の家の大きさにも驚いたが、大家族田島の家にも、花井は大いに驚いた。
それをあっけらかんと田島に突っ込まれ、照れ隠しに家には来るなと悪態を付いた事が思い出されて、苦笑が漏れる。

花井は柱の影に自転車を停めると、自分の荷物と田島のバッグを手に、小さく挨拶をしながら石柱の間を通り抜けた。
知り合いの家とはいえ、何も言わずに敷地の中に踏み入る事に抵抗を覚えている為、ここに来る度に柱の所で小さく一度、玄関で大きく再度挨拶をする。
その度に田島は笑うが、まるで親戚のように出迎えてくれる田島の家族とは、もうすっかり顔なじみでもある。
花井は入り口から玄関まで続いている石畳を辿り、インターフォンを押そうとした時、背後で砂が鳴る音がしたのを聞き咎めて振り返った。

「はない」

どこかたどたどしく紡がれた言葉に、胸が熱くなる。
顔を合わせたくなかった筈なのに、その顔を見てしまった途端、顔が情けなく歪むのを自覚して、眉間に皺を寄せる。

二人の間に奇妙な沈黙が流れた。



冬の夜の凛とした静けさの中、どこか遠くで原付バイクが走り去る音がするが、二人の耳には届かなかった。
ただ、自分の目の前に立っている相手を見つめ、互いの次の行動、次の言葉を待ち構える為に集中している。

身じろぎ一つせず、放射冷却現象で冷え込んだ気温の為に、一呼吸ごとに口元から零れる白い息と瞬きだけが、二人が彫像ではない事を知らしめる。

「たじま……」

無意識に零れた言葉に、花井は慌てた。
ただ名前を呼んだだけだというのに、喜びと怒り、憧憬と嫉妬、懇願と拒否、様々な相反する感情が入り混じった声は、自分でも情けなくなる程揺れた。
次に掛けるべき言葉も見つけられず、お互いまんじりともせずに見詰め合っていた沈黙を破ったのは、細格子に硝子の嵌められた玄関の引き戸の開く音だった。
「あら、花井君?」

顔を覗かせたのは、田島の義姉だった。
「人影が写ってたから誰かと思ったら……悠君もお帰りなさい。二人とも体冷えるわよ?早く入りなさい」
いつもと変わらぬ笑顔で促されたが、それを固辞しようとした花井は、自分の手に握られていた田島のバッグの事を思い出し、田島に向かってそれを突き出そうと向き直った時、異変に気付いた。

「田島?」
問い掛けの声に、返事は無かった。
田島は花井が義姉に視線を向けていた僅かな間に、左手は自分の体を抱くように回し、右手で口元を覆って僅かに視線を落としていた。
不審に思って近付いてみると、その体が小刻みに震えている事が分かって、花井は慌てて田島に駆け寄り、彼の肩に手を伸ばした。が、身を捩ってそれを跳ね除けられる。

一瞬、昼間の残像が脳裏に蘇ったが、そんな事に構っていられず、花井は強引にその肩を掴むと、顔をこちらに向かせた。
「田島」
叱りつけるような声音で呼ぶと、田島は肩を大きく跳ねさせ、こちらを見上げた。
いつもは楽しげに、きらきらと輝いているその目に、翳めるように違う色が浮かび、花井は小さな驚きを覚えた。
今、田島の目に浮かんだものは、勘違いでなければ──

ああ、そうかと、花井はやっと得心がいった。
阿部が言った自惚れとは、この事か。

「何だよ花井」
血の気が引いた唇で弱々しく呟かれた声に、花井は胸が締め付けられるような思いだった。
田島をここまで憔悴させたのは自分なのだ。
ならば、彼を立直らせる責任がある。

「ちょっと話がある。すいません、お邪魔します」
前半を田島に向けて小さく、後半は少し声を張って田島の義姉に伝えると、花井は田島の肩を掴んだ手に力を込め、そのまま玄関に向かった。
「何だよ花井!」
「そんなに構えんな、大した事じゃ無ぇよ」
訝しげな義姉に迎えられ、玄関を潜って上がり込みながら、抵抗する田島を彼の部屋へと連行する。

「花井君?」
「あ、お構いなく。ホント、大した話じゃないんで、すぐに帰りますから」
これから自分がしようとしている事への覚悟を固めるのに忙しくて、ぎこちない笑みを浮かべた花井は、そのまま慣れた足取りで、二階にある田島の部屋へと向かう為、階段を上った。
背中に義姉からの物問いた気な視線を痛い程受けながら、花井は何故か大人しくされるがままの田島と共に、彼の部屋へと入り、後ろ手に扉を閉めた。

さあ覚悟を決めよう。

もし、田島に飽きられてしまっているのなら、早くに彼の元を離れられるよう、きちんとけじめをつけなければならない。そして、散々泣いて喚いて落ち込んだ後、彼に迷惑や心配を掛けないで済むよう、笑顔でいなければならない。
考えただけで胃の底が捩れそうになるが、やり遂げられるだろう。
でも、もしも、ほんの僅かな希望が残されているなら──

彼の為に、今後の全てを捧げよう。







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あ、あれ?思ったより長いぞ?
すみません、また少し続きます。5位まで行きそうです。