je te veux 4




情けない悲鳴を上げ続ける胃袋を好き勝手に鳴らしながら、田島は学校のグラウンドに向かった。
万が一誰かが残っていて、顔を合わせる事が無いようにと、あちらへこちらへといつものランニングコースを蛇行していた為、グラウンドに辿り着く頃にはふらふらになっていた。だが、荷物を探しにベンチに入ると、置いていたはずの場所にバッグは無かった。

何故、と考えかけて、気の良いチームメイト達の事が思い浮かぶ。
気が付いた誰かが、家まで持って行ってくれたのかもしれないと考え至って、一番最初に浮かんだ顔を、頭を振って掻き消した。
今日、あんな事をしてしまった自分の為に、彼が動いてくれるとは思えなかった。

自分の大切な、大事な人。

出来るなら、閉じ込めてしまって、自分一人だけの物にして、愛でていたい人。
けれど、そんな事をすれば、きっと彼に愛想を尽かされ、振り向いてもらえなくなる。そして、風切り羽を失った鳥のように、野性を失った猫のように、本来の美しさを損なわせてしまうだろう。

それは我慢できない。

彼は、ありのままである事が良い。
ありのまま笑い、はにかみ、ぎらぎらとした嫉妬の目を向け、自分を追いかけて、そして、自分も共に愛する野球をプレイする、そのままの彼が良いのだ。

田島は大きく息を吐くと、そろそろ限界の近い胃袋を黙らせる為に、家へと帰る道を辿った。



もしも荷物を届けてくれた誰かと顔を合わせては、と、家に帰る道すら大きく迂回して帰った田島は、視線を足元に落としたまま、家の門を潜った。
今日のところは、誰にも会いたくは無かった。
門から玄関までの間に敷かれた石畳の上を歩くと、スニーカーのゴム底の下で、砂が嫌な音を立てた。
と、その時、人の気配を感じて田島は顔を上げた。

「はない」

空腹と疲労と混乱で、言葉が上手く出なかった。
けれど、相手には聞こえたのだろう、相手──花井は、顔を歪め、眉間に力を込めた。
「たじま……」

向こうも、まさか顔を合わせるとは思っていなかったのだろう、声が震えて、色々な感情が混ざり合い、その心情を読み取らせない。
いつもなら、彼の呼びかけ一つで、自分にどんな感情が向けられているのか等、すぐに分かる。
怒っている時の声、呆れている時の声、共に喜んでいる時の声、そして、自分にだけ向けられる愛情のこもった声……

その声一つで、花井を目にした事で勢いを増してきた獣など、喉を鳴らして腹を見せる。
それなのに、最近の花井はまともに顔を見てくれる事も少なくなったような気がする。
瞼の裏に蘇った昼間の光景が、その理由のように思えて、田島の全身を悪寒が走った。

何か喋ろうとすると、きっと大事な花井を傷つけてしまう事しか言えないと思った。
けれど、この気まずい沈黙を打ち破る当たり障りの無い会話をするような余裕も知恵も無くて、田島は黙りこくるしか出来なかった。
誰か助けてくれ、と半ば必死に祈りながら、田島は足元から立ち上ってくる冷気と悪寒に、体が震え始めたのを感じた。

と、その時、家の中の明かりの漏れる玄関扉に、誰かが近付いてくるのが見えて、田島は凝視した。
「あら、花井君?」
引き戸を開けて顔を覗かせたのは、義姉だった。
「人影が写ってたから誰かと思ったら……悠君もお帰りなさい。二人とも体冷えるわよ?早く入りなさい」
いつもと変わらぬ優しい笑顔だったが、自分達の只ならぬ雰囲気を感じたのだろう、表情が僅かに曇った。

心臓が大きく跳ねたのはその時だった。

自分の視界の中に、花井が女と一緒に収まっている。

相手は義姉だという事は、重々分かっているのだが、ただ目の前にあるその事実だけが田島を焼く。
昼間の光景。
そして、花井がもしも自分と別れる事を選べば、すぐにでもありえる光景。
それはそのまま、何年かしたらこんな風に田島を出迎えるかも知れない。

そう思った時がリミッターの限界だった。
すぐにでも花井に走り寄り、彼をどこかに引きずり込んで滅茶苦茶にしたかった。



「田島?」
問い掛けの声に、返事を返す事など出来なかった。
花井が近付いてくる気配を感じたが、冬の冷気に足が凍りついたかのように動かず、肩に触れられた手を、身を捩って跳ね除けるしか出来ない。

一瞬、昼間同じように花井の手を跳ね除けた時とぶれて、目眩がした。
だめだ、こんな事をしては、花井が勘違いする。
そう思いながらも、あまりにおかしくて笑ってしまいそうな程、体は言う事を聞かない。
田島のその混乱を知ってか知らずか、今度は強引に肩を掴まれ、彼の顔を仰ぎ見るように振り向かされた。

(もうだめだ。何か、俺が俺じゃ無ぇみたいだ……!)
混乱と不安が入り混じった目で見上げる。
何故か驚いたように、僅かに目を瞠った花井は、何かを納得したような顔でこちらを見ていて、田島は胸の内の獣共々慄いた。
「何だよ花井」
緊張している所為か、乾いていた唇が僅かに裂けた。

自分はいつからこれ程までに臆病になったのだろう。
花井が大切過ぎて、彼に近付く者全てが敵に見える。
こんな独占欲はおかしいと分かっている。けれど、胸の内の獣の息の根を止める事が出来ないのと同じように、この想いを押さえる事が出来ない。

「ちょっと話がある。すいません、お邪魔します」
何かを理解したらしい花井が、自分と義姉に向かってそう言った時、自分の浅はかな嫉妬、独占欲、希求心全て見透かされたと思い、背筋が凍った。
「何だよ花井!」
「そんなに構えんな、大した事じゃ無ぇよ」
体格差の所為だろうか、花井の手を振り解けず、玄関に引きずられるようにして連れて行かれ、そのまま自分の部屋のある二階へと続く階段に運ばれる。

「花井君?」
「あ、お構いなく。ホント、大した話じゃないんで、すぐに帰りますから」
義姉の声も視線も、義弟とその友人である筈の人物の、普段とは全く違う様子に、訝しげなものになっているのは分かった。けれど、花井と同じように、周囲に気を配る余裕など欠片も無くて、田島はされるがまま、自分の部屋へと連行された。



花井が後ろ手に扉を閉めるより早く、田島は自分のテリトリーである筈なのに、花井によって張られた罠に連れ込まれた気がして、半ば必死になって部屋の中を片付けてみたり、空腹を多少でも満たそうと、取り置いていたチップスを開けて貪ってみたりして、何とかこの沈黙をやり過ごそうとした。けれど、こちらを射抜くような花井の視線に、口一杯に頬張っていた物を飲み込むと、花井から視線は逸らしたまま向き合った。

「一体、何なんだよ、話って……」
驚く程低い声で呟くと、花井の肩が震えた。
「あ、の……その……さ、俺達の事、なんだけど……」
顔からは血の気が引いているのに、最近良く被っているニット帽からはみ出した耳は、寒さに当てられたように真っ赤になっている。
視線を忙しく移動させ、チームメイトのエースのように、訥々と話す花井に、田島は苛々と舌打ちした。

「俺、腹減ってんだけど。早くしてくんないか」
空腹よりも寒さよりも、本当は花井と二人でここにいる事の方が辛いとは、口が裂けても言えない。
花井が自分以外の誰かを選ぼうとしているのかどうか、本当の所は聞きたくても聞けない。もし、それを肯定されてしまったら、この場で花井の腕でも足でも折って、動けなくしてしまって、ぐちゃぐちゃにしてしまうまで、獣の暴走を止められないだろう。

「……分かった……あの、さぁ……田島は俺の事……」
花井が持ったままだった田島のバッグの持ち手を掴む手に、傍目にも判る程力を込めたその時、部屋の扉がぎこちなくノックされて、二人は同時に振り返った。
「ごめんねぇ、ちょっと開けてくれる?」
少しくぐもった扉越しの声は、義姉ではなく、田島のすぐ上の姉のものだった。

花井が慌ててドアノブに手を掛けて開けると、そこにはおにぎりが3つづつ乗った皿が二つと、温かそうな湯気を上げる湯呑が二つ乗った大きな盆と、片手に急須を持った姉が、田島と良く似た笑顔で立っていた。
「悠、あんたお腹空いてンでしょ?今、お母さん達みんな風邪で寝込んじゃって、義姉さん大変だから、これで暫く我慢しなさいよ。花井君も、練習の後なんでしょ?ゆっくり食べてってね」
「ごましおじゃん!サンキュって言っといて」
「あんた、人の分まで手を出さないようにしなさいよ?」

呆れたように呟いた姉が、田島の用意した折りたたみ机の上に持ってきた荷物を置き、部屋から出た瞬間、姉に向かってはいつもの明るい様子で振舞っていた田島は、すぐに表情を固くし、花井を振り返ろうとはしなかった。

「お前、実は演技派だな……」
扉脇で固まったまま花井が呟くと、田島は一瞬彼に視線をくれたが、すぐに逸らし、ゴマがまぶされたおにぎりに手を伸ばし、それを口一杯に頬張った。

「田島……」
「……だから何だよ、花井」
頬張った物を飲み込み、苛々と言いながら花井を睨みつけると、花井の顔に怯えの色が浮かぶ。
きっと彼の本能が警戒させているんだ。
そう思いながらも、田島は刺激された嗜虐心と、胃の不快感とを無理やり押さえ込むのに集中した。
そうしないと、きっと彼に嫌われる、決定的な事をしでかしてしまう。
そんな田島の葛藤を知ってか知らずか、花井は喉を鳴らして唾液を嚥下し、力強い目でこちらを見据え、口を開いた。



その瞬間、体が反乱を起こした。



花井から決定的な何かを言われると思った瞬間、胃がひっくり返り、それ程急いで詰め込んだわけでは無い食べ物を逆流させた。
慌てて口元を両手で押さえてその場に跪くと、脂汗の浮かび始めた体が急激に冷える感覚にくらくらした。
「田島!どうした!」
何が起こったのか理解できていなかった花井は、一瞬固まってしまった後、田島の様子のおかしさに慌てて駆け寄り、傍らに同じように膝をつくと、その大きな背中を丸めて田島の顔を覗き込んだ。

少し顔を寄せれば触れられそうな程近くに寄って来た花井の顔に、ひどく安心と喜びを感じながらも、口元にまで逆流してきたそれを押さえきれなくて、田島は体をびくびくと震わせ、覆うように当てた両手の指の間から零れ始めた物を、涙目になりながら花井には見せまいと体を捩った。
「た……!我慢すんな!」
花井はそう叫ぶと、田島の正面に回りこみ、着込んだままだったダウンベストを脱ぎ捨てると、トレーナーの裾を目一杯に両手で広げた。
「ここに出せ!部屋汚さねぇように!」
花井の大声に、首を振ろうとした。
けれど、もう限界だった。

眼前に広げられた灰色のそこに、田島は胃の中の物全てを吐き出した。







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ご、ごめんなさい。相変わらず田島様が田島様でない……
2で予告してたのは最後の田島様です……