je te veux 6 「悠君?!」 「入るぞ!」 義姉と兄の声がして、田島は治まらない吐き気と戦いながら、涙の浮かんだ目を上げて、扉を見遣った。 扉の向こう側で聞き耳を立てていたのであろう様子に腹が立ったが、それとは別のむかつきと向き合う事に忙しくて、声を出す事もままならなかった。 「すいません、俺……」 頭上から降ってきた、花井の申し訳無さそうな声に、体がかっと熱くなった。 「花井君、ここは良いから着替えてきなよ。悠なら大丈夫。な!」 言葉と共に容赦なく背中を叩かれ、再び込上げてきた物を、慌てて口内に止めながら、田島は兄を横目で睨みつけた。 「おーこわ。ほらな?」 自分と良く似た顔で笑った兄の様子に、花井の気配が僅かに緩んだのを感じて、苦いものを感じる。 まずい。 男相手でも嫉妬する。 田島は眉間に深く皺を刻みながら、先に部屋を出て洗面所へと向かった。 兄に付き添われたまま、洗面所で手や顔を洗い、口内に残っていたもの全てを洗い流して顔を上げると、背後に立っていた兄のにやにや笑いと鏡越しに目が合って、田島は顔をしかめた。 「何だよ」 「いや?お前もバカな子供じゃなかったんだな、と思って」 そう言ってまだニヤニヤと笑い続ける兄に向かって、濡れたところを拭いた、水気を含んだタオルを投げつけると、田島は荒々しい足音を立てながら部屋に立ち戻った。 本当に風邪を引きかけているのだろう、先程まで感じていた体の冷たさは消えて、今は体全体がほんのりと熱い。 おととい辺りから、年配の家族が次々倒れている為、感染源はすぐわかるが、今日の不調は絶対にそれが原因では無い、と思いながら、朝から着たままだったジャージを脱ぎ、部屋着のスウェットに着替えると、ベッドにあお向けに倒れ込んだ。 まだ胃の奥底でくすぶり続けている不快感を吐き出すように、大きく息を吐くと、それに合わせて瞼を下ろした。 そして、そのまま眠りに入ろうとしたが、義姉が部屋に来て、散らかした洗濯物をきちんと出せだの、解熱シートを貼れ、ストーブを置いて行くから気を付けろだのと色々言われているうちに、微かにあった眠気も吹き飛んでしまい、田島は寝返りを打ってうつ伏せになると、顔を横に向けた。 整理しているつもりでも、どこか雑然とした印象の部屋の中に、見慣れない、けれど見覚えのある物がある事に気付いて、またもや体がびくりと反応する。 花井のエナメルバッグと、先程脱いでいたダウンベスト。 それから、少し離れた場所に落ちているのは花井のニット帽だ。 ベストを脱いだ時にでも飛ばされたのかと思いながら、少しづつ先延ばしになっている花井の話が気になって、自然と体に力が入った。 荷物がここにある以上、もう一度彼がここに来るのは分かっている。 そして、彼がここに来る以上、きっと話の続きをされる。 どんな事を告げられるにしても、きっと花井を傷つけてしまう。そんな確信めいた気持ちが、獲物を狙うために身を潜めている獣に更に力を与える。 と、その時、階段を昇って来る足音が聞こえて、田島は力が入った体を強張らせた。 家族の物ではない、どこか遠慮した足音は…… 田島は力いっぱい目を閉じると、狸寝入りをする為に体を横に向け、子供のように縮こまった。 花井を見なければ、きっと何もしなくて済む。 そんな浅はかな判断だったが、花井に飢えている事を自覚している体は、この場から逃げ出す事を拒否してしまっていた。 扉が静かに開けられ、優しく閉められる音がして、暫しの沈黙が降りる。 「田島」 大好きな声の呼びかけに、応えたくなってしまうが、目頭に力を込めて堪える。 頼むから何も言ってくれるな。 そう思ってしまう自分の小ささや卑屈さに腹が立ってくるが、それと同時に、花井に対しても、鈍感、意気地なしと罵倒したくなる気持ちも溢れて、混乱が田島の動きを封じた。 その間にも、花井はこちらを監視するように動かなかった後、部屋の中をどこかに移動し始め、田島はそのまま帰ってくれるように祈っていた。 一晩空ければ、少しはこの気持ちも落ち着くかも知れないからと思った瞬間、花井の気配が間近に迫り、視界の明度が下がる。 枕元のすぐ側で花井が立ち尽くしている事を感じながらも、まだ目を開ける事が出来ずに、早鐘を打つ心臓だけが、煩く耳を打った。 花井がその場で動くような気配を感じ、何かをされるのかと僅かに身構えた時、花井の吐息が頬をくすぐった。 一体何をするつもりなのかと思うより早く、緊張と発熱のために乾いていた唇に、久しぶりに感じる柔らかな感触のものが触れた。 それは、一、二度こちらの反応を窺うように触れた後、濡れた感触の舌が唇を這うように舐め上げ、あまりの驚きに、田島は目を閉じてはいられなかった。 柔らかなそれを追って、もっと堪能したかったが、熱い感触が離れた途端に目を開けた花井と真正面から見詰め合う形になり、その時頭に浮かんだただ一つの疑問が口を突いた。 「な、何見てんだよ!」 「今の、何?」 唯ひたすら花井の顔を見つめてそう尋ねると、花井はキスの後のいつもの癖である口元隠しをして、顔を真っ赤にした。 「キ、……キス……以外に、今のに、どんな名前があるんだよ……」 妙な抑揚をつけて話す花井に向かって、田島は跳ね起きると、勢い込んで口を開いた。 「じゃあ、何で俺にそんな事すんの?」 そう、何故今、自分にこんな事をするのだろう。 もしも、抱えていた不安を払拭してくれるような理由だったなら、これほど嬉しい事は無い。否、きっとそうだ。今のキスに乗せられていた感情は、そういうものだと獣は吼え、理性も同意する。 「何でそんな事聞くんだよ」 照れている花井は、困ったように眉間に皺を寄せているが、容赦するつもりは無い。 「何ででも。俺はいつも、花井の事が好きだからするけど、花井は?あの先輩とだってしてたし」 「あれは!」 昼間の事を思い出したのか、花井は隠す為にかざしていた拳で口元を拭った。 「あの時は、不意を突かれたから逃げられなかっただけで……先輩には悪いけど、気持ち悪かった」 本当に? そう尋ねたい気持ちもあったが、それよりも何よりも、今はもう嬉しさで一杯だった。 花井は俺の事が嫌いになったわけでは無い、という事が分かっただけで、もう、胸の内の獣は喜び騒いで、忙しなく尻尾を振る。 どこまでも現金な自分に笑いが漏れそうになる。 けれど、花井がこちらをじっと、静かに見つめてくる視線の美しさに、細大漏らさずに記憶しようとして、田島は沈黙を守った。 「俺は、お前が好きだ」 聞きたかった言葉を耳にしたけれど、あまりに素っ気無い呟きに、危うく幻聴だったのではと思う所だった。 けれど、何の飾り気も無い花井の表情が、その思いの強さを語ってくれているようで、胸の内に巣食っていた苦い不安が、ほんの少しだけ薄まって行く。 かざした手を下ろし、居住まいを正した花井が、じっとこちらを見つめてくるのがくすぐったくて、田島は風邪の為の発熱では無い熱が沸き起こるのを感じた。 「田島は、俺の事好きなのか?」 「だから言ってんじゃん!好きだからキスするって!」 好きで好きで、もうどうしようもないくらい、花井が大事で、大切で、手に入れたい。 その想いを乗せた言葉に、何故か花井は目に涙を浮かべ、安心したように眉を困らせた。 「よかった。俺、今日お前に飽きられたのか、とか、嫌われたのかとか、いろいろ考えちまった」 ぎこちなく花井が笑った途端、綺麗な目に溜まった涙が一粒、朝露の雫のように零れた。 勿体無い。 そう思って、身を乗り出そうとした瞬間、視線を伏せた花井の声が、それを押し留めた。 「俺が、お前の事を好きだっていう気持ちを、疑わないでくれ」 殴られた。 そんな事ありえない!と、飽きるとか嫌われるという言葉を否定して、まだ零れそうになっている涙を唇で受け止めようとした田島は、続けられた言葉に、本当にそう思った。 自分が花井に飽きる事などありえる筈が無いのだ。 これ程に美しい人を、見た事など無い。 諦めず、捻くれず、どこまでも真直ぐに突き進んで追いかけて来てくれて、自分と同じ目線に立つ事を切望してくれている。そんな理想の人を、どうして嫌えようか。 けれど、続けられた切望の言葉に、田島は自分の行動で花井が迷い、揺れていた事を知らされて、打ちのめされた。 同じ男同士だとかどうとか言う事を飛び越えて、どうしても手に入れたいと思い、無理やりにでも手にいれたくて仕方が無かった相手を手に入れて、どこか傲慢になっていたのだろう。 その傲慢のツケが、回りまわって自分を追い詰め、結果花井を泣かせてしまったのだ。 花井が言葉を返してくれないという事など、気にしなくても良かったのだ。 彼がどれだけ真面目な人間か知っている筈なのに、悩みに悩んで告白の答えをくれた事を知っていた筈なのに…… そう気が付いた瞬間、田島は何かがどすんと音を立てて腹に座ったのを感じた。 そのものの正体はすぐに分かった。 今、自分の腹に座ったもの。 それは覚悟だ。 もう、どんな事があっても、花井の事を疑ったりはしない。 彼がどれ程の言葉を紡いで、自分を傷つけて遠ざけようとしても、それは全て自分に向けられる愛情故だと信じて疑わない。 そう、それが一番重要な事だ。 後は、それだけの感情を向けられる自分を、花井からの好意にふさわしい人間になるように鍛え上げるだけだ。 そう考えているうちに、花井の顔が自分に迫ってきている事に驚いて、田島は無意識に口を開いた。 「はない……」 「目ぇ閉じろよ」 ぶっきらぼうな言葉に、再び理性の糸に絡まれていた獣が猛る。 獣と同じく、期待に胸を膨らませた田島は、少し目元の腫れた花井の顔を見つめた。 「オレさっき吐いちゃったのに」 「……うがいしただろ。気にすんな。俺は気にし無ぇ」 彼らしからぬ言葉と、首筋から登った赤味に、田島は本気で驚いた。 「花井、男前だな!」 いつもの笑顔を浮かべてそう言うと、暫く振りに堪能する事を許された唇に、自分から唇を寄せ、食らいついた。 あまりに勢いが付き過ぎて、お互いの歯がかちりと鳴った。 けれど、そんな事は半瞬後には全て消えた。 ただ、そこにある花井の全てを堪能したくて、いつもより多少手荒い手技で花井の口腔を蹂躙し、むしゃぶりついた。 互いに息が上がり、合間を縫うように鋭い呼吸を繰り返しながら、田島はどこかでこつんと音がしたのを聞き咎めた。 この部屋の物音では無い。 キスに意識を向けながらも、まだどこか冷静な頭か、折角の集中を乱された獣の嗅覚か、田島の神経はその音が隣の部屋で鳴った事を確信していた。 薄い壁を隔てた向こうは、すぐ上の兄の部屋だが、今日、兄は友人の家に泊まりこんで来ると聞いていた。 だからそこにいるとすれば、今家にいるはずの出歯亀姉貴達だ、と思い至って、田島はかなり名残惜しかったが、花井の唇を解放した。 「たじ、ま?」 物欲しそうな潤んだ瞳で見上げられて、田島の中心が次第に反応し始める。 けれど、すぐに自分でもそんな声で人の名を呼んだことに恥じ入ったように、花井が顔を赤くして伏せたのを見て、沸々と沸きあがる喜びに、自然と顔が緩んだ。 「花井」 呼びかけながら、まだ髭なんてものの無いつるつるとした感触の頬に手を添えて上向かせると、その唇に音を立てて吸い付いた。 なんという幸せなのだろう。 自分の事を一番に考えてくれる相手を手に入れられた喜びは、きっとホームランを打つよりも刺激的で、甘美な物だ。 それを与えてくれた花井には、これからもっともっと高みを見せてやろう。 自分の背中を追って来ている彼には、一番の贈り物になる筈だ。 ずっと味わっていたい唇を離すと、熱を帯びた花井の視線とかち合った。 「凄っげぇ名残おしーけど、花井に風邪移しちゃ駄目だかんな、ここまでにしとく」 強がりを言ってみるが、花井には勘付かれ無かったようだった。 「……もう手遅れなんじゃねぇの?」 赤く染まった頬に、なんとも言えない色気を感じながら、もう一度キスしたい衝動を、何とか堪えた。 「お前の風邪、俺が引き受けて治してやろうか?」 天然なのか魔性なのか、真剣な顔でそんな甘い言葉を囁かれて、田島は熱い風呂にでも放り込まれたように全身がかっとなった。 性質の悪い男なのだ。花井という男は。 「煽んなよ!俺、花井に飢えてたんだぞ?そんな事言われたら食いたくなっちまう!」 「俺は食い物じゃねぇ!」 食い物より、常習性の強い薬のようだ、という言葉は飲み込んだ。 そうしないと、絶対に口喧嘩に発展する。けれど、幸せと共に湧き上がってきた笑いは止めようも無く、田島は花井と二人、声を上げて笑った。 そして、笑いの衝動がどうにか治まった頃、静かに呼びかけながら肩に腕を回してきた花井の腕の温かさに酔うより先に、再び顔を寄せてきた花井が仕掛けて来たキスに、頭が真っ白になった。 「今日はもう帰る。だから無理だけど……」 言いながら、自分でも照れているのだろう花井は、僅かに伏せた瞼の下、逸らしていた視線を真直ぐにこちらの目に向けて、再び口を開いた。 「いつか、俺を食ってくれよ?」 最後に叩きつけられた言葉の衝撃に、田島はこの後暫くの間の記憶が無い。 花井が慌てて荷物を引っ掴み、転げるようにして部屋を後にするのを、スクリーン越しにでも見ている感覚だった事だけが、微かに記憶に残っている。 その後、玄関が開閉される音がするや否や、部屋に飛び込んできた三人の姉達に「花井君と何があったの!?」「あんたまさか見境無く……!?」「飢えてるって何なの?!」と口々に質問攻めにされたらしいが、あまりの騒がしさに兄が部屋に怒鳴り込んで来るまで、田島の脳内には蝶々と花が飛び交い、獣がそれを追い掛け回していた。 「おい、悠」 姉達が隣の部屋で聞き耳を立てていた事の報告を受けた兄が、何やら重々しい雰囲気で呼び掛けてきて、やっと我に返った田島は、上気した頬と、きらきらとした目で兄を振り返った。 「何、兄ちゃん」 「……犯罪だけは、犯してくれるなよ?」 兄が何を言いたいのかは分からなかったが、田島はししおどしのように頭を大きく振ると、兄に向かって全開の笑顔を向けた。 「当たり前だっての!俺は花井とずっと一緒に居たいんだからな!」 田島の言葉を聞くなり、兄はがっくりと肩を落とし、姉達三人はきゃーきゃー言いながら狭い部屋の中で飛び回り始め、熱が高くてふらふらしながら二階に上がってきた母親に、全員がまとめて怒られた。 ←BACK 今回の話はここまで! 次の話の予定は全然未定です! 何を決意しても、人間悩むものだと思います。決意というのは問題を乗り越える為の指標に過ぎないと思うので。 だから、絶対この後も花井は悩む。で、田島様は全力で「je te veux」と言い続けると思います!(笑) |