君想い





高校生というカテゴリーでくくられる時間のリミットが、もうすぐそこに迫っていた。
もう一週間もすれば盛大な式で送り出され、大学生というカテゴリーに含まれる。
どうあがいても止まりはしない時間の流れに歯を食いしばりながら、田島は傍らで眠る恋人の額に手を伸ばした。
部活を引退してから伸ばし始めた恋人──花井の髪は、自分の髪と比べるととても細くて柔らかい。
それをコンプレックスに思っているらしいが、田島にとっては愛しい人の、愛しくてならない物の一つだった。

自分が無理を強いた為、汗が浮いている額に張り付いたそれをそっと押しやりながら、じっと寝顔を見つめ続ける。
三年間、何度もぶつかったり傷つけあったりしながら、お互いの事を少しづつ理解してきたと自負する事が出来るこの自信が、ひどく恨めしく思えた。

お互い、大学に進学する事は随分前から分かっていたし、勉強したい事の違いから、学校が分かれる事も、互いが無事に合格している事も理解している。
自分は昔からの目標であった神宮優勝を目指し、その後も、運良く進むことが出来ればプロに入れる可能性は高い。
花井は、元から得意だった英語の勉強をもっと頑張りたいと外語大に入り、将来はそれを生かした仕事に就きたいと考えている。
では、自分がメジャーに進出する時の専属通訳か、代理人になってくれと冗談半分に頼むと、彼は笑って額を小突いてきた。

彼自身が素晴らしい選手なのだから、きっと自分が海外進出をするつもりなのだと今では思っているが、一抹の寂しさをずっと抱え込んでいる。
別れは目の前に迫っている。
物理的な距離の別れでは無く、こんなにも側にあると信じている心が離れるその時が。



三年前、もっと子供だった自分が強引に彼を口説き落とし、彼自身はきっと望んでいなかったであろう恋人というポジションに立たせてから、物理的な別れはこのいびつな関係の終焉だと思っていた。
ただ欲しくて、狂おしい程に欲しくて、彼の優しさに付けこんで手に入れた。
自分の中の荒れ狂うほどの思いをただぶつけるだけで、きっと無意識に彼を傷つけてしまった事もあるのに、彼はただ笑って受け止め、時には叱り付けてくれた。

付き合い始めた頃には17センチもあった身長差は、今ではほんの数センチにまで縮まり、お互い肉付きの薄かった体は、随分と厚みを増している。
田島はそんな男を二人乗せている、安ホテルのベッドが上げる悲鳴を無視して、花井が目を覚まさないようにだけ気を使って、彼の体に腕を回した。

きっと、花井は卒業式のその日に別れを告げて来る。
それを押して、彼との関係を続ける事は出来る。
けれど、今までだって無理を強いてきている。
優しい花井は、自分が悪者になってくれようとするに違いない。
自身を悪者にして、プロを見据えている自分が何の憂いも無く野球をプレイする事を望んでくれている。
別れてしまったら、多分二度とこの関係の事を口にしないだろう。
そうして自分の事を守ってくれる。

その優しさを受け入れて、むしろ自分から花井を解放してやるべきなのだと分かっている。
分かってはいるけれど、本能はそれを全力で拒否する。

花井が居たから、この三年間を過ごす事が出来た。
彼と出会うまで、自分に全力でぶつかって来てくれる好敵手は居なかった。
ボーイズでプレイしている時も、それ以前も、まずは体の小ささで嘲られ、野球をプレイしてみれば「田島は別格」という線引きをされた。
その悔しさを、言葉に表現する事は出来なかったし、話せる相手もいなかった。

いくらやれば出来ると言ってみても、それは田島だからだと返され、最初から諦められていた。
自分がどれ程練習を重ねているかという事を見せると、余計についていけないと言われた。
そんな物足りなさとやるせなさを抱えて入った高校の野球部。
創部一年目だというそこで出会った花井は、自分自身の事を信じていた。

練習や試合を重ねる度に、明らかになるポテンシャルの差に落ち込んでいるようだったが、それでも諦めることなく、自分の背中に向けて、痛いほどの視線を向けてくれていた。
良く、他のメンバーに田島は目が怖いと言われたが、花井の視線の方が痛くて綺麗で、あの鋭い視線を向けられるのが自分だけだという優越感は、自分をかなり得意にさせた。

大きな体、伸びやかな手足、素晴らしい打撃センス。
その時の自分が望んでも得られていなかったものを持っていた花井が、心の底から羨ましくて嫌いで、どうしても欲しかった。
自分自身を信じ、もっと努力を重ねれば、絶対に追いつけると信じているあの目が、どうしても欲しかった。

そうして手に入れた、否、手にする事を許してもらえた大事な大事な花井──

田島は胸の内に渦巻く恐怖を忘れようときつく目を閉じると、抱きしめた花井の体にぴったりと自分の体を添わせた。
二人を隔てる肌ですら、恨めしく思いながら──





「ちょっと良いか?」
卒業式のその日、結局その日まで花井と二人だけで顔を合わせる事を避け続けた田島だったが、とうとう追い詰められた。
いつに無く厳しい目を向けてくる花井に、断ることは出来なかった。

落ち着いて話せるところへと花井に誘われて、今日は出入りを禁じられている部室棟へと向った。
「ったく、散々逃げ回りやがって。卒業式にまでなっちまったじゃねぇか」
そう文句を言いながら、いつの間に借り出していたのか、部室の鍵を鍵穴に差込み、花井はそそくさと中に入り込み、田島が入るのを待った。
間抜けなほどに竦む体を何とか動かして入ると、扉に手を掛けたまま待っていた花井が、音を立てて扉を閉め鍵を掛けるとそのまま扉の前に立ちはだかった。

とうとう逃げ場を奪われたと思って、向かい合って立ちながら顔を強張らせていると、花井驚いたように目を瞠った後、困ったように笑った。
「そんなに身構えんなよ……」
「花井……」
名前を呼ぶのが精一杯で言葉に詰まっていると、花井の顔からスッと表情が消えた。
ついに来た。

「田島、俺……」
口火を切った花井の声に、足が震え始めた。
「その……お前と会えない……」
決定的なその一言に、目の前が真っ暗になった。
貧血を起こしたのだと理解するより早く、力の抜けた足は体を支えていられなくなって、倒れそうになった体を、咄嗟に側にあったロッカーに手を突いて支えると、酷く大きな音が響いて、目の前の花井の気配がたじろぎながらも心配そうに呼びかけてきた。

「田島……?」
「悪かったな……」
自分のものとは思え無い低い声が出たことが、自分の中で必死に引き留めていた波を黒々と渦巻かせた。
「悪かったな、花井。三年も、俺みたいな変態に付き合わせて」
「は?何言ってんだ?」
搾り出すように言葉を紡ぐたびに、全身を切り刻まれるようだった。

「そうだよな。痛い思いや辛い思いも沢山させちまったもんな。今日が良い機会だ……もう別れようか」
花井から言われることに耐えられないと思い、自分の口からその一言を放つと、体から全ての熱が失われた。
「俺が、花井に好かれて……大事に思われてるなんて勘違い、いつまでもしてる訳にはいか無ぇよな」

思っても居ない事を口にするのが辛かった。
花井が自分のことを大事に思っていてくれるのは、この三年の付き合いで身に滲みている。
勘違いでも何でも無く、花井は自分の、田島悠一郎の恋人なのだ。
だからこそきっと自分を悪者に仕立てることをいとわない。
花井が自身を傷つけるくらいなら、こうして自分で傷付く方がましだった。
立っていられなくなりそうな足を何とか支えながら、溢れそうになる涙を見咎められまいと顔を伏せると、もう一度、自分自身を傷つける言葉を紡いだ。
「別れよう、花井」

まだ賑わっている筈の校舎付近の喧騒など、全く届かない静謐に満ちた空間に、その言葉は酷く重たく響いた。
花井の顔を見られないまま、ずっと彼の反応を待ち続けた。
時計を見ていたらきっと数秒。
けれどとても長く感じる時間、花井がとうとう動く気配がした瞬間、田島はびくりと体を震わせた。

そのまま踵を返して、背にした扉の鍵を開けて出て行くのだろう。
そう思った瞬間、頭頂部に重たい痛みが走って、田島は思わず声を上げて両手で頭を押さえた。
「ってぇ……っ!」
顔を上げて、まだもう少しだけ高い位置にある顔を睨みつけると、拳骨を繰り出したらしい右手を振っていた花井が、眉間に深い皺を刻んだ。

「人の話は最後まで聞けよ」
「んだよ。学校離れて、住むところも変わって、良い機会だから全部忘れてやり直したいんだろ?男と付き合ってたなんてこと、全部わす、れ……」
続けようと思った言葉は、不意に悲しげに顔をゆがめた花井の様子に消えた。
「……お前は、そうしたいのかよ……」
僅かに震えた声に、田島は息を呑んだ。

今、首を横に振って、自分の気持ちに正直になりたかった。
けれど、花井の事を考えればそれはしてはいけないことのように思える。
だが、本当にそれは花井の為なのだろうか?今、目の前で泣き出しそうになっている彼に、涙を流させるのが正しい選択なのだろうか?
自分の中で葛藤を続けていた為、イエスともノーとも言えずに黙りこくっていると、花井の頭が揺れた。
それが揺れたのではなく、傾けられたのだと分かった瞬間、引き結んでいた自分の唇に、花井の薄いそれが重ねられた。

記憶にある限り、初めて花井からキスをされた。
突然の事に呆然とし、緊張の為にかさついた唇に触れた柔らかな感触に我に返った途端、花井の唇が離れた。
「会えない間にお前のことを忘れないように、何か覚えになるようなものが欲しかったんだよ。俺は」
恨めしげな視線を向けられ、まだ言葉を放てずに居ると、花井は浮かんだ涙で潤んだ瞳を細めた。
「俺のことを、お前のことを好きな俺を、許してくれ……お前を、ずっと応援し続ける事は許してくれよ……お前が忘れたいなら……それで構わねぇから……」

言いながら、垂らしていた手を強く握って拳を作り、悔しげに呟く彼の様子に、田島は鼻の奥がつんと痛んだ。
「はない……ごめん。ごめんな……?」
彼が、これ程までに自分を想ってくれていると分からなかった自分に腹が立った。
花井が握りこんだ拳に自分の手を重ねると、涙をこぼす事を必死に堪える彼の体が震えていることに気付いて、心の底から申し訳なくなった。

別れるべきだと、自分よりも常識のある彼も考えた筈なのだ。
そう考えても、それでも自分を求めてくれた。
諦めなかった。
その思いが嬉しくて、田島は涙を一筋こぼした。
それを目にした花井も、涙を湛えた瞼をしばたかせ、それによって溢れた涙が頬を伝った。
「俺、花井のこと放したく無ぇよ。どんなに離れたとこに行っても、絶対追いかける」
「俺も……お前の事をもう手放せ無ぇ。四年経ったら、お前の所に行っても良いか?」
懇願するような言葉に、田島は花井の頬に左手を添え、右手は花井の左手を包むように重ねた。

「俺が迎えに行く。ゲンミツにそれまでにも会いに行くけど、四年経ったら、俺が花井を迎えに行く」
そう言って唇を重ねると、面食らいながらも花井はそれに応えた。
貪るように激しく、けれど丁寧に舌を絡ませ、歯列をなぞると、お互いの吐息に熱が篭り始めた。
一瞬唇を放し、視線だけで意志を確認しあう。
そこに受諾を見つけて、田島は抱き寄せた花井の体ごとくるりと態勢を入れ替え、自分が扉を背に立つと、再び深く唇を重ねた。
そして、花井の体を部屋の中へと押しやりながら、もどかしげに足を動かして靴を脱いだ。
部室の床の上、なにか下に敷けるものは無いかと視線を走らせるが、適当なものが見つからず、唇を放して舌打ちすると、花井の手がそれを止めるように首に回された。

「いいから……」
呼吸を乱し、頬に朱を刷いた花井の一言に、田島は理性と手を切った。

理性も常識も必要だ。
けれど、今はそんなものは邪魔でしかない。
与えて与えられて、自我を灼く衝動の源になる欲に身を任せて、大事な思い出の詰まった場所で新たな思い出を作る為に、二人は溶け合った。







(2008.8.15)
書き尽くされた卒業式ネタですみません(平伏)
書きたかったのは諦めようとする田島と諦めない花井。
田島も花井のことは必死になって考えているのではないかな、と妄想しました。