キヌギヌノフミ




深い眠りから、ゆっくりと意識が浮上し始めてすぐに感じたのは、幾つかの違和感だった。
深呼吸するように、大きく吸い込んだ空気が鼻腔をくすぐる匂い。
肌に触れる布の感触。
横向きに寝ている自分の背中や、腰の辺りに触れる何か。

弟と一緒に寝た時に感じる物に似ているが、弟なら向かい合うようにして眠る為、それらを感じるなら正面からの筈だし、何より大きさが違う、と考え至った瞬間、一気に血圧が上昇して意識がクリアになった。
そして次の瞬間には、全身が懐炉にでもなったかのように発熱して、栄口は思わず両手で顔を隠した。

振り向けない。
振り向いてしまえば、そこに彼の姿を認めてしまう筈だ。
その時にどんな反応をしていい?何と言ったら良い?
そう思った瞬間、首裏をくすぐるように背後の人物の頭が動いて、栄口は体を強張らせた。
肌に触れる髪の感触は柔らかく、小さく唸るような声と共に零れた息が肩口の肌を撫でると、そこを起点に背中を伝った微弱な電流は、尾骨の辺りで帯電する。

夕べの事を思い出してしまい、照れと羞恥と混乱で顔を真っ赤にしながらも、隣で気持ち良さそうに眠る彼を起こさないようにそっと体を起こすと、冬の朝の冷気が剥き出しの肌に心地よく感じられて、少しばかり落ち着きを取り戻す事が出来た。
そうしてやっと、一つの布団で一緒に眠っていた相手の寝顔を見て、栄口は心臓がその鼓動を早めた事に、我が事ながら大いに照れた。

同じように剥き出しになった肌。
夏はお互いくっきりと色分けされたツートンになっていたのに、もうその跡は薄く窺う事が出来る程だ。
それから顔つきも、普段に比べると目を閉じてじっとしている所為か、凄く大人びて見え……る眉が不意に寄せられ、寒そうに体を縮こまらせるのを見て、栄口は慌てて掛け布団を戻してやった。
まだ寒そうだったが、暫くすると眉間のしわが消えて、その口元がだらしなく緩んだ。
「さかえぐちぃ……」

夢でも見ているのか、幸せそうな寝顔で囁かれた自分の名前に、胸の奥にほんのりと暖かな熱が生まれる。
それと共に自分の気分もほぐれたのか、口の端が自然と緩み、くすくすと笑いが零れた。
いつまで見ていても飽きてこない。
普段の様子や、今の様子。それから──切なげなあの時の様子。
その全てを知っているのは自分だけなのだという優越感に似た感情に、栄口は目を細めた。

彼は、どれだけの物を与えてくれたのか自覚しているのだろうか。
酷い仕打ちをして、喪失感と痛みに苦しむ感情を容赦なくぶつけて、深く深く傷つけた筈なのに、それでも求める事をせず、失う怖さから逃げ出していた自分の背後で、手を差し伸べて与え続けてくれた。
長い間与えつづけられたそれは、いつの間にか自分の周囲を満たし、気が付けば溺れるほどに溢れている。

温かかった体がいつしか冷え切っている事に気付いて、栄口は自分の体を抱きしめた。
もう一度布団の中に戻って、暖かな布団と彼の腕に潜り込みたくなる衝動に駆られたが、壁に掛けられた時計は既に七時近くを指している。
夕べの内に降り積もった雪の所為で、今日の練習は無しという連絡が回って来ていたし、明日も、モモ監の都合が悪く、休息日という事で練習は無い。
けれど、贅沢を言ってここに留まりつづける訳にはいかない。

栄口はまだ眠っている彼を起こさないように着替えを済ませると、暫く躊躇った後、しゃがみこんで彼の髪にそっと指を絡めた。
「俺が出て来るんだったら、良い夢見なよ?」
まだ幸せそうな笑顔を浮かべている様子を見ると、余計な心配かとも思ったが、ちょっと言って置きたくて、そんな事を考えた自分に笑った。

彼の部屋を出てリビングに向かうと、彼の母親がこちらに向けて明るい笑顔を向けてくれた。
「おはよう栄口君。早いのねぇ」
「おはようございます。あの、家も心配なんで、もう帰ります。夕べはありがとうございました」
「ええ?今朝ご飯できるし、食べてって?ね?車で送るし」
彼とよく似た仕草の母親の様子に、自然と顔が綻ぶのを堪えながら、栄口は何とか引き止め工作と、彼を起こそうとする母親を阻止する事に成功し、自転車と共に門の外に出ると、積もった雪が微妙に踏み固められた道を、慎重に歩き出した。

自転車で走れない程の積もり方ではなかったけれど、余り慣れていないし、ゆっくりと歩きたい気分だったので、そのまま歩き続けた。
車の轍の後を辿りながら歩いていても、ジーンズの裾には雪がまとわりつき、時々スニーカーの中に侵入して来る。そして靴底越しに伝わってくる冷気が、つま先の温度をどんどんと奪っていって、痺れに似た感覚を引き起こす。
ふと空を見上げると、今日は天気が良くなるのだろう、珍しく雲も無く、青い空が広がっている。

まだ早い時間だからか、住宅街の中はとても静かで、横手で押している自転車のタイヤが雪を掻き分ける音が鼓膜を震わせるほどで、夕べからの様々なことを思い出して顔を上気させている栄口を見咎めるものは誰も居ない。
どっぷりと思索の海に沈んでいた栄口を突然現実に引き戻したのは、静かな風景に酷く不似合いな電子音だった。

余りに周囲に響き渡るように思えて、鞄の中にしまい込んでいたそれを慌てて引っ張り出すと、手袋を外すやいなや、相手を確認する事もせずに通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『栄口!?』
悲鳴のような声が頭を貫いて、栄口は反射的に耳元から携帯を遠ざけた。
「声大きいよ。ちょっと落ち着きなって」
後ろめたい事をしているわけでもないのに声を潜めながら言うと、受話器の向こう側の彼は、息を詰まらせるように口を噤んだ。
それを確認すると、栄口は漸く口を開き、溜息と共に言葉を紡いだ。
「おはよう、水谷」
彼の名前を放った瞬間、栄口は鼓動が跳ねるのを感じて足を止めた。

『お、オハヨウゴザイマス……』
電話の向こう側の水谷も、多分顔を赤くしているのだろう。段々と声が消え入りそうなほど小さくなった。
「何?どうかした?」
何気ない風を装いながら、自分の現金さに少し呆れる。
失恋を今でもまだ少し引きずっているのに、一ヶ月も経っていない今、笑顔を浮かべる事が出来る、そんな幸せな自己嫌悪を与えてくれた相手は、何かを言いかけては止めたり、何をしているのかどたばたと忙しない。
「水谷?」
『ちょっ待っ……うわぁ!ゴメン姉ちゃん!えと、ゴメンね栄口、あの……イテェ!』
BGMに家族の声や、何かを落としたりしたような音をさせていた向こう側が、不意に静かになり、荒い息遣いのようなものだけが暫く流れてきて、栄口は訝った。
「水谷?」
『ちょっと、待って……』
西浦のエースのようにつっかえた言葉にまさか、と思って、栄口は来た道を振り返った。
かなり歩いたつもりだが、雪の所為でどれ程の物か判断がつかない。けれど、雪を踏みしめるような足音が近付いてくるのが聞こえて、ついさっき曲がった角を見つめる。

「『栄口?』」

ステレオで届いた声と、生垣の陰から飛び出してきた人影に、栄口は携帯を耳元から離し、呆然と相手を見つめた。
水谷は余程急いだのか、いつもならきちんと整えられている髪は寝癖が酷く、トレーナーの裾からは、下に着込んでいるのであろうシャツの端がだらしなく覗いていた。
驚きの余り声も無く水谷の姿を見ていると、こちらの顔を確認した後、両膝に手をついて息を整えていた水谷が、伏せていた顔を上げた。
「良かった、居た……」

この寒い中コートも羽織らずに飛び出してきた水谷は、鼻、頬、耳を赤くして笑い、手と膝で挟んで潰しそうになっていた携帯を閉じた。
それを見て栄口も自分が携帯を持っていた事を思い出し、それを鞄の中に仕舞い込むと、自転車を立たせ、水谷に歩み寄った。
「何かあった?」
「おおありだよ!」
急に笑顔を泣きそうに歪めた水谷に怯むと、水谷は周囲を見渡し、人が居ないのを確認するや、腕を大きく広げて栄口の体を力いっぱい抱きしめた。

「なっ!」
道の真中での突然の抱擁に驚き、戸惑って声を上げると、水谷は更に腕に力を込めた。
「痛いって!」
水谷、と続けそうになった抗議の言葉を慌てて飲み込む。
彼がどれだけ急いで走って来たかはわからないが、そんなに家から離れていない筈だから、名前を呼んではいけない気がして口を噤むと、水谷は栄口の肩に埋めた額を、栄口の首筋に擦り付けた。

「好き。すっごい好き。ホントに好き。大好き」

水谷の声が肌を直接震わせて、栄口は総毛立った。
「水谷?」
顔を上げない彼にだけ届くように声を掛けても、水谷は顔を上げず、栄口は襟首から覗いた水谷の首筋が真っ赤になっているのを見て、つられるように顔が熱を帯びるのを感じた。
「ゴメン。迷惑なのは分かってるけど、どうしても言っときたかったんだ……俺、栄口の事好きだ」
徐々に鼻声になりながら、そう呟くと、水谷は勢い良く体を離し、栄口を開放した。
「朝一番にこれだけは言いたかったんだ。聞いてくれてありがと。忘れてくれて良いよ、っていうか忘れて?オネガイ」
涙目でそう言って、水谷は笑った。

驚きの余り目を瞠って水谷を見つめた栄口の中に、段々と訳の分からない怒りが湧き上がってきた。
好き?忘れて良いって何?


夕べの覚悟を、そんなに簡単に片付けてくれるわけ?


向かい合ったまま、どれだけの沈黙が流れたのか、長いようで、多分かなり短い時間の間に、栄口は怒りで沸騰しそうになった。
「分かった」
低く、重く、そう言い放つと、栄口は踵を返してその場を離れようとした。

が、コートの裾を引っ張られて、歩を進める事が出来ない。

恨みがましく背後を振り返ると、そこには案の定、自分の行動に困惑している水谷が、これでもかというほど眉尻を下げて立ち尽くしている。
「なに?」
「やっぱり忘れないで。ゴメン。もう大混乱で俺、変だ」
可愛らしいと思うほど頬を赤くし、俯いて躊躇っている様子に、だんだんと毒気を抜かれていって、栄口はもう一度水谷と向かい合うように立つと、首に巻いていたマフラーを外し、彼の首に巻いてやった。

「なぁ、水谷……」
「な゜に゜、栄口……」
溢れんばかりに涙を湛えた目で、水谷は呼びかけてきた栄口を見つめて、洟を啜り上げた。
夕べのように、なされるがままの様子の水谷に少し呆れながら、栄口は大きな溜息を吐いた。
この優秀なセラピードッグは、自分の事をとても好きでいてくれるらしいが、どうにも不安らしい。
それを取り除いてやれるのは自分だけなのだという自負が、栄口の中で徐々に育ちつつあった。

「帰ってちゃんとして来いよ。寝癖ひどいよ?」
マフラーが落ちないように結んでやりながら、栄口は口元を緩め、目を細めた。
「ちゃんと用意出来たら、それからウチに来いよ。沢山、話をしよう。色んな話を」

そう、彼ともっと話をしよう。
きっと、話せば話すほど、彼の事が知りたくなるはずだから。

水谷の顔に、驚きと歓喜が広がっていくのを見遣りながら、栄口はそう考えて笑顔を浮かべた。






kaori様2000リク。一緒に夜を過ごした後のミズサカ。
な、何がしたかったんだろう、自分……タイトルが先に決まっていました。すみません、視線を書き進めないと、理解していただけなかったやも知れません。ぐわぁっ!力不足を痛感です(泣)kaori様のみDLFです。