Pretty Kiss

西浦高校硬式野球部ナインの面々は今、ほとほと困り果てていた。
「でさ、三橋の奴すっげぇ可愛い声で囁くんだぜ?もう堪んねぇっての!」
ベンチに座り、使い込んだ硬球をブラシで磨きながら、栄口はいい加減うんざりだと思いながら、手元の作業に集中する。

バレンタインの日、マネージャーの三橋廉から告白されて付き合うようになったその翌日から、阿部のこの調子はずっと続いていた。
もともとから阿部も、廉に対してかなりの好意を持っていたため、二人は何の問題も無く付き合い始め、そろそろ半月が過ぎようとしているのだが、その間ずっとこんな調子で前日の廉の様子を延々と語られ続け、ナイン全員が阿部とペアを組んでの作業を敬遠するようになっていた。
練習中は廉が見ている為、格好良いところを見せようとでもするのか、張り切って練習に打ち込んでいるのだが、廉が近くに居らず、且つこういった地道な作業の場合どこにも逃げ場は無く、最初に被害にあった水谷の提案で、残りのメンバーでローテーションを組む事になった。

一度勇者田島が、三橋派の者にとってはそういう行動はウザいと言ったらしいのだが、そのときすかさず「そう言った連中を黙らせる事も出来るし、俺の物にできた彼女の自慢もできるからやってるんだ」と返されたというから呆れる。
栄口は、廉が昨日の夜の電話で楽しげに話していた、というただそれだけのことをずっと語りつづけることのできる友人に軽い殺意めいたものを覚えながら、何とか違う話題に持っていきたくて、一生懸命に話の種を考えた。

「ところでさぁ、阿部。三橋へのホワイトデーのお返し、もう決めたの?」
その瞬間、阿部の手が止まった。
何の気無い話題を振ったつもりだったのだが、手と共に口も止めてしまった阿部の様子に、栄口は相手をいぶかった。
「阿部?」
「栄口……」
それまでの様子が嘘のような豹変振りに、栄口は思わず息を呑んだ。
「何?阿部」

何だか聞いてはならないような気もしたが、素直に返事をすろと、阿部が満塁で四番を迎え、フルカウントまでもつれこんだ時のような真剣な顔で振り返った。
「プロポーズはプレゼントに入ると思うか?!」
栄口は心底から阿部と三橋を別れさせるべきだと思いながら、顔には笑顔を張り付かせた。
「寝言は寝てから言え?」
後に続けたかった悪口雑言はとりあえず飲み込んでおいた。





「何か欲しい物、ある?」
三月に入ってすぐ、阿部にそう問い掛けられた廉は、ただでさえ大きな目を更に大きく見開いて、ぱちくりと音がしそうなほどの瞬きをした。
まず、何故そんな事を問われるのか分からなかった。
阿部と付き合い始めて半月、部内で公認の仲であるため、部活が終わった後はいつも二人だけで帰っている。
その帰り道半ばでの言葉に首を傾げると、阿部は首裏をがしがしと掻きながら、廉に向けていた視線を逸らし、あさっての方向を向いた。

「ほら、バレンタインの時、チョコ貰っただろ?そのお返しの事。俺、そういうの良くわかんねぇから、いっそ聞いた方が良いかなってさ……」
まだ寒い時期の所為なのか、それとも違う理由でか、耳を真っ赤にしてあらぬ方向を向きつづけいている阿部を見ていると、廉は嬉しさのあまりその場に座り込んでしまいそうだった。
「三橋?」
座り込みこそしなかったものの、足を止めて立ち尽くしてしまった廉に気付いた阿部が、こちらを振り返ったのを見て涙が出そうになる。

「何だよ、何泣きそうになってんだ!?」
数歩先に行っていた阿部が慌てて立ち戻って来るのを待ち受けながら、廉は溢れそうに涙を手で拭うと、肩に手を置いて顔を覗き込んできた阿部の顔を振り仰いだ。
「カ、カミ……!」
「へ?」
「髪の毛、触って良い?」
「……はぁ?」
勇気を振り絞った言葉にそう返されて、廉は竦んでしまいそうだった。



実はずっと触れてみたかったのだ。
手を繋いだり、キスをする事はあっても、それはもっぱら阿部からのアプローチだった。
派手に告白しあったその日に、何度もキスを交わした所為なのかキスには何の抵抗もない。二人だけの時には名前で呼び合うようにもしている(といっても、お互いに顔を見ながらだと照れてしまう為、携帯で話している時くらいしかできない)し、家へと帰る別れ際には人目が無いのを確認してから抱き寄せられたりする。

そうされる事はもちろん嫌ではない。
それだけ好きでいてくれる証のように思えて、むしろ求めている。
けれど、もしも阿部に自分からのアプローチを嫌がられたらどうしようと思うと、伸ばした手は下ろされ、発しようとした言葉は飲み込まれた。
きっと阿部はそんな事はしない、という確信めいたものもあるのだが、勇気をもてずここまで来た。
だから、阿部からの欲しい物は?という問い掛けに、廉はそれしか答えを見出せなかった。

「……俺の髪の毛、触りてぇの?」
顔を覗き込んできた阿部の、確認するような言葉に、廉は赤面した顔をぶんぶんと上下に振った。
「ああ待て待て、首痛める」
少し呆れたように廉を止めながら、阿部は困惑した表情を浮かべた。
「別に普通だぜ?お前に比べたら硬い位で、何にも変わり無ぇぞ?」
その言葉にこっくり頷いて、廉は少し視線を伏せた。
「阿部君の、髪だから、触りたい、の」

そう言った瞬間、阿部はまるで後頭部から殴られたかのように勢い良く廉の前に頭を垂れた。
「あ、阿部君……?」
「あー…………お好きにどうぞ……」
突然お辞儀をするように頭を下げられて驚きつつも、阿部から許可をもらえた嬉しさに廉は小さく笑い、両手で包み込むようにして阿部の頭に手を添えた。
阿部の言うとおり、廉の髪に比べると硬く、太い感じがする。
猫っ毛で、寝癖の付きやすい自分の髪とは全く違う感触が楽しくて、廉は阿部の頭を撫でるようにして動かし、阿部の毛先が手のひらをくすぐる感触を楽しんだ。

「……三橋……楽しいのか?」
「うん、楽しい、よ?」
あまりに楽しくて、悦に入った声で返事をすると、阿部の体が小さく跳ねた。
「だって私、ずっと、阿部君に、私から触ってみたかった、から……お返し、これで良い」
「却下」
すかさず返された言葉に、廉は思わず阿部の頭から手を離した。
その途端、頭を垂れた時と同じくらいの勢いの良さで顔を上げると、阿部は廉に詰め寄った。
「全然プレゼントになん無ぇ!だってこんなのいつでもやって良い事だし!」
「ふわっ!」

顔を真っ赤にしながら阿部が叫ぶのを聞いて、廉は一瞬怯えたが、その言葉の意味を理解して、阿部と同じように顔を茹で上げた。
「い、いつでも、良い?」
「おう。練習中とかは無理だけどさ、二人で居る時とかはいつでも良いし。だから、こんなのじゃプレゼントになん無ぇよ」
徐々に優しさを増していく言葉に、廉は自然に阿部に顔を寄せ、間近に見える阿部の目を見つめた。
「ホント、に?」
「おう。好きにして良いぜ?」
悪戯を企むような阿部の目に、廉は小さく吹き出した。
「じゃあ、こ、んな、事も?」

阿部の不意を突く為に、精一杯素早く動いた。

阿部の頬に小さな音を立ててキスをすると、廉は自分がしでかした事の恥ずかしさに、全身が熱くなった。
「お、おお、お返、し、ホントにこれで良い、よ!おやすみ、なさい!」
家までもうそれほど遠くない距離だった為、いつもならもう少し先まで一緒に帰るのだが、平気な顔をして一緒にいられる自信が無かった為、その場に阿部一人を取り残して、廉は逃げるようにして走り出した。
その背中を見送る事もせず、阿部はまるで銅像のように立ち尽くしたまま、ぴくりとも動かなかった。





翌日の朝練の前、その日の阿部当番に当たっていた水谷は、朝から目にしてしまった恐ろしい物に、顔色を無くした。
「あ、阿部?何かあった?」
「あ?ンだよ。別に何も無ぇ……」
と言い終わりもしないうちに崩れた阿部の顔に、水谷は小さく悲鳴を上げた。
「はよーっす!水谷おはよ……ってええ?!」
続いてグラウンドに姿を現した栄口は、朝練前のボール磨きをしているメンバーの顔を確認して後退さった。
そこには朝から泣きの入っている水谷と、本人はきっと何か嬉しいことがあったのだろうが、周囲の者にしてみれば気持ちが悪いとしか言いようの無い不気味な笑顔を浮かべた阿部が居た。

「何があったんだ、阿部……」
「はぁ?!朝か揃って何だってんだよ。何も無ぇよ!」
阿部の隣に座っていた水谷が、助けを求めるように栄口に縋り付いたのを見て、苛々と声を上げた時には一瞬普段の顔に戻ったが、再び手元の作業に戻って数瞬、いつもの眉間に皺を寄せた端正な顔から、見るに耐えない物へと表情を一変させた阿部の様子に、栄口と水谷は鋭い悲鳴を上げた。
「さ、栄口……!」
マジ泣きの入ってきた水谷が栄口を頼るように見上げたが、栄口はもう自分にも手に負えないと判断した。
というより関わりたくない気がする。

「ちーっす。よう、どうしたんだよ朝っぱらから」
『い、泉!!』
続いてグラウンドに現れた泉の声に、栄口と水谷は弾かれたように背後の彼を振り返った。
「助けていずみーっ!」
「ゴメン、もう俺も無理」
「はぁ?何のはな……しぃっ?!」
いつもは穏やかな栄口の慌てた様子に、二人の向こうからベンチを覗き込んだ泉もまた、阿部の姿を遠巻きに確認して凍りついた。
「んだぁ?!あの野郎は!」
「多分三橋絡みだよ。でも、もう俺には無理。手に負えない」
「そんな事言われたら、俺なんてもっと無理だよぉっ!」
水谷の悲痛な声が、朝のグラウンドに響き渡った。

結局その日、気を抜くと顔面を崩壊させる阿部にはモモカンから自力金剛輪がお見舞いされた。
けれど、何故かその日を境に阿部による前日の廉についての惚気は語られなくなった。
それまでのしつこさを思うと不気味なその沈黙に、巣山が何かあったのかと尋ねると、阿部は神妙な面持ちで口を開いた。
「勿体無くて、誰にも喋れ無ぇ」

その時、残りのナイン全員が、もっと早くにその結論に辿り着けと!と叫んだとか叫ばなかったとか……



「あれ?廉ちゃんブレス着けてたっけ?」
放課後の練習中、ナインが食べるおにぎりを作る為に米を洗っていた篠岡が、廉の腕に光るものを見つけて掛けた言葉に、廉は肩を小さく跳ね上げた。
「ぅあ、阿部、君が……ホワイトデーのお返しに、って……」
「へー、そっかぁ。へへ、でも私も辰太郎君から貰ったものがあるから、おあいこだねー」
可愛らしく頬を染めて俯く廉に向かって微笑みながら、篠岡は廉が見ていない時の阿部の様子を知っている者の一人として、少々考え込んだ。
廉が着けているのは、最近人気のブランドのオープンハートトップが着いたものだ。
部活が忙しいだろうに、いつの間にこんな物を用意したのか、と考えると、頭が痛くなりそうだった。

「ち、千代ちゃんは、何を貰った、の?」
「へ?私?」
不意に振られた話しに驚いて廉の顔を見ると、興味津々と言った様子でこちらを窺っていた。
「へへ、内緒!廉ちゃんが見つけられたらねー」
「ずる、い!」
正直に答えてやっても良かったが、自分達だけの大事な思い出を話すのは勿体無い気がして、篠岡は笑って誤魔化した。







13871キリリク。ホワイトデーのアベミハ子、甘々バカップル(笑)
髪は感覚器官の一つだと思います!西広先生が千代ちゃんに何を上げたのかは私も知りません(←え?)皆様のご想像にお任せいたしますv