二人の距離




「おら畠、金出せ」

畠は釣り目のピッチャーの言葉に目を丸くした。














卒業式も先輩達の見送りも終わった夕方、荷物を背負った畠は寮へ戻ろうとした矢先の言葉に、頭上に疑問符を浮かべた。
「なんで……?」
荷物を放り込んでいたロッカーの扉を閉め、自分達以外に数人しか残っていない部室でそうポツリと呟くと、こちらに向かって掌を向けていた叶が、当たり前の事を聞くな、というか、おかしな事を言う奴だ、というような表情を浮かべた。

「お前、カップケーキ食ってただろ」
「カップケーキぃ?」
暫く口にした覚えの無いものを食べただろうと言われて、畠は思い切り声を上げて首を傾げたが、その途端思い出した事に手を打った。
「ああ!バレンタインの!」
「そうだよ。後お前だけなんだから、早く出せ」
総じて猫のような印象、と言われる投手の言葉に、畠はあからさまに嫌な顔を浮かべた。

「何でだよーんなの、叶から一つ渡すだけで良いじゃねぇかよ。付き合ってんだろ〜」
バレンタインの日、草陰に隠れて見ていた抱きつき事件を思い出して畠がそう言うと、叶は猫のように毛を逆立てた。
「付き合ってねぇよっ!」
ついでに普段の様子も思い出した畠は、横で何やら言い訳している投手の言葉を聞き流しながら、自分の割り当て分の金額を財布から取り出した。

「ほい。遅くなって悪かったな。じゃ、三橋に宜しくな〜」
「てめっこら待て畠!」
今度は相方である捕手が、自分の話を聞いていない事に腹を立てた叶が喚きたてるのを放置して、畠はそそくさと部室を後にした。



「くっそー畠の野郎……」
本来なら畠と同じく、寮に帰るべき時間なのだが、外出届を出していた叶は、学校を出て自宅の方へと向かった。

一応徒歩圏内に自宅があるのだが、高校で本格的に野球に集中する為に、他のメンバーと同じく寮に入っている。だから、財布の中身が寂しくなると、時折こうして帰宅しては、中身を補充するのだ。

母親から、僅かに色をつけた小遣いを入手した叶は、鼻歌を歌いながら、その足で部活に使う備品の買出しに行こうと、これもまた徒歩圏内にあるスポーツ用品店に向かう為、家の門を押し開けようとしたとき、近所の家の近くに人影を見つけて、ふと顔を上げた。

「じゃあ行ってきまーす」

明るい声を上げて家人に手を振っているのは、自分の幼馴染の一人で、バレンタインに野球部員全員にはカップケーキ、そして、自分だけに特別なチョコをくれた相手、三橋瑠里だった。
突然の事に、間抜けだと自覚しつつ彼女を見ていると、踵を返し、こちらに向かってきた瑠里もこちらに気がついて、大きな目を更に丸く見開いた。
「何してんの?」

「お前こそ、買出しか何かか?」
瑠璃のとぼけたような声を聞いて少し速度を速めた鼓動が、血液を勢い良く送り出し、幾分体温が上昇した気がしたが、何とか平静を装ってそう言うと、瑠里も少し照れたように笑った。
「うん、お母さんに頼まれて。叶は?部活の買い物か何か?」
「ああ、うん。オイルとアンダーの替え」
普段学校で見かける姿とは違う、ベージュのタートルにロングワンピース、その下は黒のタイツにスニーカー、という出で立ちに少し目のやり場に困りながら答えると、瑠里は嬉しそうに笑った。

「じゃあ途中まで一緒に行く?どうせ同じ方向でしょ?」

瑠里のその一言に、緊張に萎縮していた体は、無自覚の内に喜びに満ち満ちた。



十分も行かない内に着いてしまうスーパーで、母親に頼まれた買い物がある瑠里との道行きはあっと言う間に終わってしまい、叶は何を喋っていたのか思い出す事は出来なかった。
ただ、自分の隣に並んで歩きながら、ころころと表情を変えて話す彼女の顔はよく覚えていた。
「じゃあ、私こっちだから」
そう言って、夕方の買出し客で賑わうスーパーの中に入っていった姿を見送ると、喜びと落胆の入り混じった感情が溜息となった。

自分の買い物の為、少し先のスポーツ用品店に向かう足取りは、はっきりと重たくなった。
心の現金な反応に、叶は小さく鼻で笑う。
もう一年近く前にもなってしまうが、叶はある人の事を想っていた。

けれど、相手はここで野球をする事を選んだ自分を置いて、他県の高校へ行ってしまった。
再会した時には、自分には与えられなかった物を得て幸せそうだったが、二度と手に届かない場所に行かれた気がして、密やかな想いは芽吹く事無く枯れた。
その時の胸の痛みを抱えたまま高校一年の夏が終り、次の年に向けての準備に入った冬の終り、ふわりと舞い降りた感情に、胸の痛みは薄らいだ。

自分でも少し驚いた。

昔からの幼馴染だし、ずっと顔を突き合わせていた相手なのに、今年のバレンタインに、自分でも気付かなかったような不調を見抜かれるほど、見てくれていたのだと言う事を知った途端、彼女──瑠里の事が特別な意味で気になる存在になってしまった。
それ以来、学校の中で見かけると、自然と目が追いかけていく。
畠にはそれに気付かれてしまい、時々今日のようにからかわれてしまうのが少し腹立たしい。

店に入り、欲しい物を選びながら我知らず溜息を吐く。
そう、畠に言われるまでも無く、自分が瑠里に恋愛感情を抱いているのは確かなのだ。それならやはり、ホワイトデーに何かお返しをするべきだろうか。
迷惑がられるかも知れないが、バレンタインに一人別のチョコをもらえるくらいなのだから、瑠里にしても何かしらの感情を持ってくれているのだろう。
それは幼馴染に対する物かもしれないが、それを乗り越えるほどの親愛を持っている自分の気持ちを分かって貰っても、ばちは当るまい。
「よしっ」

様々なメーカーのオイルが並んだ陳列棚の前で小さくガッツポーズをすると、近くを通りかかった他の客に変な顔をされて、叶は慌てて欲しかった商品を手にその場を去った。



欲しかった商品以外に、少し余計なものも買った叶は、既に日が傾き、暗くなり始めた道を、家の方へと向かって戻った。
行きと同じ道を辿るため、瑠里が入って行ったスーパーの前を通る事になるのだが、ふと店の出入り口近くに目を向けた時、思い掛けないものが見えて、叶は店の少し手前で立ち止まった。

相手も遠目ながらこちらに気付いたのだろう、小さな買い物袋を手にしたその肩がびくりと震えて、ぎこちない動きでそこから立ち去ろうと踵を返した。
「おい、待てよ!逃げんな!」
「か、帰るだけよ!」
夕飯時近くになり、人影が少なくなった往来とはいえ、大きな声を張り上げてしまったために、すれ違う人々に変な顔で振り返られたが、そんな事は気にならなかった。

「なぁ、ほんと待てよ瑠里!」
学校では決して呼べない、けれど、昔はずっとそう呼んでいた名前で呼びかけると、再び彼女の細い肩が震えて、忙しなく動いていた足がぴたりと止まった。
「な、何よ……」
身長差から来るコンパスの差と、瑠里を追いかける為に半ば走っていた努力のお陰ですぐに追いつくと、叶はこちらを肩越しに振り返った彼女の顔を見つめた。

春先の夕暮れ時、東の方の空が薄く青味を増し始めた世界の中でも、彼女の耳が赤くなっているのが見て取れて、叶は小さく吹き出した。
「何よ!人の顔見て笑う事無いでしょ!」
「だってお前、可愛いんだもん」
ポロリと零れた素直な感想に、瑠里は顔まで赤くして言葉に詰まったようだった。
けれど、言葉に詰まったのは叶も同じで、思わず自分の口の滑りやすさに口元を押さえた。

スーパーの出入り口近くで、人待ち顔で佇む瑠里を見たとき、直感で自分を待っているのだと思った。
そしてそれは当ったのだろう。自分の顔を見てすぐに逃げるように立ち去った瑠里を見たら、もう追いかけずには居られなかった。
「待っててくれてたんだな」
「違うわよ!」
少し怒気を孕んだ声音だったが、そんな反応でも何だか嬉しくなった。
「じゃあ勝手にそう思っとく」

いつもなら「嘘を言うな」という所なのだが、かなり気分の良かった叶は、そう言って瑠里が手にしていた買い物の荷物を貰い受けた。
「ちょっと、叶!」
「別にシュウでも良いだろー?誰も居ないんだし」
いつの間にか見下ろすようになった瑠里の顔を見ながら言うと、瑠里は小さく唸った。
本当に小さい頃はお互い名前で呼び合っていたのだが、小学校に入った頃からその反応の面白さに瑠璃にちょっかいをかけ、迷惑がられるようになり、お互いの成長も手伝ってだんだんと距離を取るようになった。

その距離を少し縮めようという自分からの気持ちを込めて、叶は瑠璃に向けて、空けた左手を差し向けた。

「……何、か……シュウ?」
戸惑った表情を浮かべながら、瑠璃は叶の顔を見上げた。
「手、出せよ」
静かにそう言うと、戸惑いながら手を差し出そうとした瑠璃の手を、掴み取るように握った。
「ちょっ!何なの?」
寒さの為にか、冷たい指先をした細い指に熱が戻るようにじっと握りこむと、抵抗しようとしていた瑠里は口をつぐんだ。

自分とは違う柔らかい感触の手に、心臓がうるさいほどに打ち付けるのを不思議と不快に思わずに、叶はその手を引っ張りながら歩き始めた。
「何なのよシュウ!」
「あのさぁ」
瑠璃の顔を見ながらは言えそうも無かった。
だから、彼女を引っ張るように歩きつつ、叶は耳や顔が熱くなるのを誤魔化そうと声を張り上げた。

「ホワイトデーのお返し渡したら、お前の事、彼女だって部の連中に宣言しても良いか」

言い終えた瞬間、引っ張っていた相手が動かなくなって、叶は後ろ向きに倒れそうになった。
慌てて振り返ると、瑠璃はおもむろに自分の頬に指を当て、自身のそれを思い切り抓った。
「いたー!」
「……何してんだよ、お前……」
彼女の奇行に眉根を寄せると、赤く染めた頬に何故か涙を伝わせた瑠璃が、頬を抓っていた左手で涙を拭いながら笑った。

「夢じゃないか、確認してたの……ホワイトデーのお返し、その言葉だけで良いよ」
泣き笑いながら、瑠璃は叶との距離を縮めた。

「私もシュウの事、彼氏だって皆に言っても良い?」

二人の間に隔たっていた距離は、いまやもう30センチ程だろうか。
叶は荷物を持った方の腕をゆっくりと瑠璃の背中に回すと、小さな彼女の体を抱きしめた。








「おい、畠。金」
「はぁ?」
昼過ぎに徴収されたものを、夜になってそのまま返されたのを見て、畠は釣り目投手の顔をまじまじと見つめた。

「叶、お前これ、三橋へのお返し買うために皆から徴収してたんだろ?」
「ああそうだよ。でもいらねってさ」
「へ?」
心底嬉しそうな叶の様子に、畠は変に裏返った声を上げた。
ルームメイトがこちらを窺っているのを背中で感じながら、畠は理由が全く分からず、いつもとは違う満面の笑みの叶に首をかしげて見せた。
「何でだ?」

この僅か20秒後に後悔する事が分かっていたら、と、畠はその夜一人でぶつぶつと呟き続けた。






恥ずかしいくらいのショジョマンガテキスト。
織田君が出せなかったのが少し心残りです。でも関西弁の変換大変だしなぁ……(^^)一週間遅れましたが、カノルリWDでしたv