mellow sweet

とある休日の夜、三橋は自分の部屋に居ながら居たたまれない気持ちでラグの上に正座していた。
下げていた視線をついと上げると、阿部がベッドに右肘をかけ、手を頬の辺りに添えてこちらに背中を向けている。
「ぅあ、ああ、あ、あ、べ、くん?」
いつもなら「ん」とか「あ?」と帰ってくる言葉は無く、沈黙する背中はピクリとも動かない。
けれど寝ているわけではない事は分かっている。
三橋は泣きそうになりながら、阿部を怒らせてしまったのは何だったのか、必死になって考えた。



二年に進級して初めてのゴールデンウィーク合宿が終わった日の夜、阿部が三橋の家に泊まりに来る事は、新学期が始まってすぐに決めていた。
去年の雪辱を晴らすべく、今年はさらに気合の入った練習予定が組まれている為、モモ監のバイトの都合で練習が休みになるという希望は抱けなかった。
けれど、その代わりに綿密に計画された練習予定が組まれ、休みの予定も事前にはっきりと分かるようになり、合宿明けの明日も、午後からの練習だという事は分かっていた。
となれば、事これに至れば二人共暗黙の了解の域に達した相互理解のもと、三橋の家に泊りがけで遊びに行くことは決定していた。

ゴールデンウィーク前の休日は、阿部の都合が悪く、一度延期になっていた為、二人共その日を心待ちにしつつ、厳しい合宿の練習を乗り越え、やっとこの日を迎えたのだが、寝る以外の用事を全て済ませて部屋に入って約二十分ほどした頃、阿部の機嫌が悪くなった。
そう、確かゴールデンウィーク前の休みの日のことを話していた。

その日、親戚の家の法事の手伝いに、練習が休みである事を家族に知られてしまっていた阿部は、半ば強制連行で連れて行かれる事になっていた。
三橋もまた、前々から三星学園にいる友人で幼馴染の一人、叶修吾が遊びに来たいと打診してきていた為、その日ならばと約束を取り付けた。
前の日から泊りがけで遊びに来てくれた叶と共に、キャッチボールをしたりしたが、軽いものだったし、そんなに沢山の回数を投げたりはしなかったので、叶が遊びに来る事も含めて、休み前、特には阿部にも話さなかった。

そして、合宿の間は練習や試合の事で頭がいっぱいだったし、新しく出来た後輩達を含めて、沢山他のメンバーとも喋っていて、叶と遊んだ事すら片隅に追いやられていた。

辛くとも楽しかった合宿が終り、一度家に戻った阿部が三橋の家に来た後、阿部が泊まりに来る事にも慣れている親は早々に寝入り、二人で三橋の部屋に入って色々な事を話し始めた矢先、阿部の表情が固くなり、眉間に皺が寄った。
けれど、話すことが楽しかった自分はそれに暫く気付かず、叶が泊まりに来た事、二人でキャッチボールをしたことなどを話したような気がする。
それならば……

「あ、ぅあ、あああ、阿部君、ご、めん、なさい……」
「何が?」
必死の勇気を振り絞って謝ると、阿部は振り返ろうともせず、低い声でそう返してきた。
これは相当怒っていると判断して良いだろう。
三橋は自分の目に涙が満ちてくるのを、どうしても我慢できなかった。
「ひっ、ぅ、キャ、キャッチ、ャッチ、ボール、し、して……ご、ごめん、なさ……」
「……じゃねーよ」
しゃくりあげながら思い至った理由について謝ると、阿部はまだ振り返らずに、小さく言い放った。
「あの日は多分、昼から自分で投げるつもりだろうと思ってたから、午前中の球数セーブしてたし、キャッチボールくらい何ともねぇよ」

そう続けられた言葉に、三橋は頭の回線がパニックを起こした。
阿部に怒られる理由など、他に何も思いつかない。
お菓子もあまり食べなかったし、食事もよく噛んで食べるようにした。合宿の準備にも時間が掛かったので、自主練もあまりできなかった。
もしやその自主練が出来なかった事か?と問い掛けると、すかさず「違う」と返されて、三橋にはもう何故阿部の機嫌を損ねてしまったのか、その理由を見つけることは出来なかった。
下を向いて、ぼたぼたと涙を流していると、阿部が僅かに動いた気配がして、三橋はゆっくりと顔を上げた。
するとこちらを肩越しに振り返り、しょうがないな、といった顔で小さく溜息を吐いた阿部が、くるりと体を捻ってこちらを向き、開き立てた足の間に三橋をはさみ込むようにして座ると、三橋の両手と自分の両手を一組づつ繋いだ。

「なぁ、三橋。俺ってお前の何?捕手?友達?」
いたって真剣な顔で問い掛けられて、三橋は止まらなかった涙がぴたりと止まるのを感じた。
こくりと頷きかけて、はた、と思う。
これを口にするのにはかなりの勇気がいる。けれど、自分はそう思っているのだが、改めて阿部に向かって言って良い事なのかどうか考えて、口からは単語にすらならないひらがながぽつりぽつりと零れる。
「ほら、ぜってぇ怒んねぇから、言ってみろ」
まずは普通に促される。

なるべくここで答えなければならない。でないと……
「言えっつってんだろ」
声がワントーン低くなる。
それでもためらっていると……
「怒んねぇから言っ……」
「こ!」
ぶちんと何かが切れる音がしたように思った瞬間、阿部が大きな声を張り上げかけ、その先手を打とうと何とか勇気を振り絞ってひらがなを一つ叫んだ。

「ぃび…………と…………」
三橋が続く言葉を切れ切れに言い終えると、阿部は強く握り込んでいた手を少し緩め、僅かに目を瞠った。
が、すぐに不服そうに目を細めて、言い終えた達成感にはふと息を吐いた三橋をじっと見つめた。
三橋はその目を見つめ返し、阿部が次に放つ言葉を待った。
阿部自身何かを言いたいらしいのだが、言いかけてはやめ、口を開こうとしてやめ、としている内に、がっくりと頭を垂れてしまった。
「阿部君?」
「あー……ちょっと待て……」
訳が分からず声を掛けると、阿部は低く唸った。

その様を見て、三橋は何となく分かった気がした。
重ねた手から彼が狼狽しているのを感じ取りながら、自分の緊張も知られているかもしれないと思いつつ意を決すると、阿部の顔を覗き込もうと首を傾げた。
「阿部君?」
「……ンだよ……」
顔をふせたまま応えた阿部に一瞬怯みながら、三橋は生唾を飲み下した。
「照れ、た?」



「も……勘弁してくれ……」
「うへっ?!」



哀願するような阿部の言葉に奇声を上げると、阿部の顔が勢い良く振り上げられた。
「あーそうだよ、今の言葉には照れたよ!くそっ、てめぇは俺が来るなり叶の話を楽しそうにしやがって!俺が今日をどんだけ楽しみにしてたと……」
言いながら、阿部の顔は徐々に赤味を増し始め、握った手には汗が浮かんでいるのに冷たい。
鈍い事を自覚している自分でも、さっきの阿部の不機嫌の原因がやっと分かって、三橋は思わず噴き出した。
「阿部君、に、拗ねられた」
「!……っ!」
それ以上笑えば、きっと決定的に阿部の機嫌を損ねてしまうと思い、肩を震わせて笑いを堪える三橋に、あまりの恥ずかしさに阿部は更に顔を赤くした。

「もういい!寝るぞ!明日も練習あんだしな!」
「うん、一緒に、寝よ!」
嬉しそうに顔を輝かせた三橋の言葉に、阿部は柔軟でもするかのようにがくんと頭を下げ、三橋の太ももの上に頭を乗せた。



「阿部君」
電気を消し、三橋と共にベッドに潜りこみかけた阿部は、眠気の為か、うっとりとした声で呼びかけられた声に動きを止めた。
「なんだよ三橋」
自分のすぐ側、少し上気した頬が可愛らしい恋人は横たわったまま、薄く開けた目で阿部を見上げてくる。
頭の中で「明日は練習」と何度も繰り返しながら、阿部は三橋の髪にそっと触れた。
柔らかな感触のそれに触れられるのは、こうして二人だけの時間を過ごせる時だけだ。
その特典にあやかりながら、阿部は三橋の言葉を待った。
あのね、と、うとうととし始めたのか、少し舌足らずな言葉が鼓膜を震わせた。

「俺、一緒のベッドで寝るの、阿部君だけだ、よ」


いつもお世話になっている雪月優瑛さんへの捧げ物。目指したのは甘える阿部。
でも結局は阿部の理性の限界を試している気が(笑)