翠萌ゆ





 桜が美しく咲き誇った春も終り、日増しに勢いを増してくる太陽の光に目を細めながら庭先に出ていた花井は、不意に呼びかけられて背後を振り返った。

「梓、外に出ていて大丈夫なの?まだ治った訳では無いのだから大人しくしてなきゃ」
 すっかり心配性になってしまった母親が、母屋の庭先から離れへの境に設えられたくぐり戸を閉じながら、急くように歩み寄ってきた。
 そんな母親に苦笑を向けながらも、花井は小さく頷いた。

「今日は良い天気だから、外の空気が吸いたくてさ……もう戻るよ」
 自分の体を蝕む宿痾が発覚して以来、ずっと心配を掛け通しだった母親を安心させるためにと、まだそれほど遠出できるだけの体力が回復していない事を自覚している花井は、素直に離れの靴脱ぎ石に足を掛けた。
 陸軍の幼年学校に通っていた頃に発覚した病は、花井から男子として果たさねばならない責務を奪った。
 これから一生を掛けて付き合っていかねばならない病を得た事よりも、戦場で立派な働きをする事が叶わないと知った苦しみの方が辛かったが、いつか必ず治してみせるという気概を得て、今は養生を重ねている。
 その甲斐あってか、近頃は体力も回復し始め、出歩く事も出来るようになっており、時折こうして散策を楽しんでいる。

「ま、あまり用心ばかりしていても気が滅入るだけ……ってそうそう、大事な用事を忘れるところだったわ」
 母親の言葉に再び振り返ると、何やら嬉しそうに笑った母親から一枚の葉書を手渡された。
 癖のある字で大きく宛名を記したそれは、二人共一目で誰からの便りなのかが知れる。
「悠君は相変らず筆マメねぇ」
「字が下手なのもな」

 間髪いれずに返した言葉に母親はクスクスと笑いながら、これから出かけるのでと言い置いてその場を去って行った。
 母親の気配が去り、辺りに誰も居ない事をきょろきょろと確認した後、大きく深呼吸をしてから花井はようやく手元の葉書に視線を落とした。

 『拝啓、花井梓殿。貴下、益々ノ回復ヲ窺ヒ安堵致シテ居リマス。コチラハ皆日々ノ訓練ニ明ケ暮レテ居リマスガ、意気軒昂ニテ心配ハ要リマセン。帰国セシムル際ハ必ズオ伺イシマスノデ、ソレマデ御自愛下サイ。田島悠一郎』

 葉書一杯に書き連ねられた文字を追うごとに、記憶の中にある田島の顔がどんどん鮮明に蘇ってくるのを自覚して、花井は苦笑を洩らした。
 田島とは昨年の夏からずっと顔を合わせていない。
 陸軍幼年学校に入学した翌年の初夏、花井は血を吐いた。
 胃を痛めたのだと何とか言い繕おうとしたのだが、教官達に担ぎこまれた病院で長い加療を要する病と知れてしまい、そのまま退学になってしまったため、共に学んでいた田島とはその日以来顔を合わせる事は無くなった。
 家が隣同士であり、お互い生まれてすぐからの付き合いであるため、傍に田島が居ないという違和感はずっと付きまとっている。

 しかし、花井が田島を思うのはそれだけが理由ではなかった。
 花井にとって、田島は誰よりも大切な、愛おしい存在だった。
 それが他人から見れば忌避される感情である事は理解している。
 だが、それでも尚求めずにはいられなかった存在に手を伸ばし、その手を取ってもらえた喜びが、今の花井を支えていた。

 そう、田島もまた花井の事を想い、求めてくれていた。

 想いを確かめ合い、互いが唯一無二の存在同士なのだと確信を得ているからこそ、今花井は療養に努める事が出来ていた。
 そうでなければ、今も外地で訓練を重ねているであろう彼を無理矢理にでも追っていたかもしれない。
 そう考えて、花井はふと苦笑を洩らした。

 無理矢理にではなく、花井は田島を追いかけようと思っていた。
 体に回復の兆しが見えるや否や、花井は勉学に勤しみ、新しく描いた夢を掴むために邁進していた。
 それはまだ家人にも伝えていない事だが、田島にだけは早く伝えてやろうと思い立ち、部屋に上がると葉書を一枚取り出した。

 文机に置いた白い紙面を見ていると、次々と田島を心配する言葉が頭に浮かぶ。
 けれどそれを全て書き切るには紙面が足りないしと思案して、結局人目に触れる事を考慮し、当たり障りの無い挨拶と、届いたばかりの手紙への礼を書き述べると筆が止まってしまった。
 もっともっと、田島に向けた言葉を綴りたいと思うのに、どれだけ言葉を連ねても自分の気持ちを表しきれないように感じて、花井は万年筆を文机に転がした。

 いつもは封じ込めている思いを象るように文章を書いた所為か、無性に田島に会いたくて仕方が無かった。
 物理的距離を考えると無理以外何物でもない。
 それでも、瞼の裏でなら会えるかも知れないと考えて目を閉じてみると、庭から漂う濃い緑の香りが鼻腔をくすぐる。
 その香りをもう一度深く味わおうと深呼吸すると、風に乗って懐かしい匂いがした気がして、花井は目を開いた。

 そして、庭先に信じられない物を見つけた。

「よっ!ただいま」
 幼年学校の制服をまとい、日に焼けた顔にいたずら小僧の笑みを浮かべながら片手を上げた田島が、こちらを見つめていた。

「大分元気になったんだな。中々くれない手紙じゃ大丈夫って書いてあったけど、向こうじゃずっと心配してたんだぞ?」
 花井はつれないよなぁと文句を垂れながら、断りもなしに離れに上がりこんできた田島は、花井の前に座るとごつごつとした手を伸ばして花井の頬に触れた。

「会いたかった」
 言いながら、伸ばした親指で花井の目元を擦った田島の顔が、滲み始めた涙で歪んで見えた。
 頭は未だ信じられない気持ちで一杯だが、心は田島の存在をしっかりと感じ取って、鼓動を早め始める。
 そしてその鼓動に押上げられるようにして、素直な想いが声となって空気を震わせた。
「俺も、お前に会い……」
 閉じた瞼が溢れさせた涙が零れ落ちるより早く、田島の唇が花井の言葉を吸い取った。




(2012.5.31)
雪明かりで別れさせたままだったのがずっと気になっていたので再会させましたv
おそらく、この直後の田島は花井に「俺に近付くな!」とがっつり怒られるでしょう。しかしそんなのはものともせずいちゃいちゃしそう(笑)