夏の夜

- Side-H -

終わってしまった一年の夏。
俺は田島のあんな姿を見る事になるとは思わなかった。



最後の試合、長い予選を潜り抜けてきた俺達は、全員がそれまでのテンションどおり、試合に臨んだ。
だが、俺たち西浦の急激な台頭に、相手チームも入念な下調べをしてから試合に臨むようになり、かなりの苦戦を強いられた。

三橋の球も、阿部の読みもいつもどおりの切れを見せ、田島や俺も、他のみんなも、夫々が、夫々に精一杯のプレイをしたけれど、得点を入れる事が、相手チーム共々出来なかった。なのに──

相手チームの四番が打った、決勝サヨナラソロホームラン。

走って球を追い続けた俺が、落下地点に辿り着く前に、バックスクリーンの壁が立ちはだかり、飛び上がって捕ろうとした俺をあざ笑うように、白球は壁の向こう側に消えた。
勝利に沸く相手チームの応援団の歓声も、その場に這いつくばった俺の耳には届かず、寄ってきた泉に肩を叩かれ、最後の挨拶の為にホームベースに向かった後の事は、今では何も覚えていない。

球場の外で、改めて援団や、父兄、応援に来てくれていた人を相手に、俺は涙も見せずに礼を言ったらしいが、何を話していたのか、どうやって学校まで帰ってきたのか、何一つ記憶に無い。

夜の学校に戻り、部室に荷物を片付けた後、監督やシガポから労いの言葉を貰い、解散となった時、不意に田島の横顔が目に入った。
泣きじゃくる三橋や、それを慰める栄口と水谷、少し離れたところで目を赤くしている阿部や、援団の浜田に慰められて突っぱねている泉、肩を寄せ合っている沖、巣山、西広、その誰からも離れたところで、あの大きな目を見開いたまま、どこか遠くを見ているような田島の顔が、どうしようもなく気になった。

「田島……」

何を話そうかと考えるより早く、田島に呼びかけていた俺は、何と声を掛けるべきなのか分からず、言葉に詰まった。
「何だ、花井」
いつもの明るい、ねじの緩んだ調子ではなく、固く強張った声に、俺はたじろいだ。

「いや、その……今日の最後の球……捕れなくて、すまなかった」
頭の中では、どうあがいても無理だったことは分かっているのに、悔しくて悔しくて、どうにもならなかった思いが、勝手に口から飛び出した。

「何で?花井はすっげぇ頑張ってたじゃね?サードから見てたけど、あんなの、身長2メートルあっても捕れねぇよ。相手の四番の……実力だ」
「いやっ、でも……!」
俺があそこで捕っていれば、スリーアウトになり、次の回、トップに控えていた田島が、塁に出られたかも知れない。そう言おうとして、俺ははっとした。

田島の顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいた。

「たじ……」
「俺もお前も、皆も頑張った。でも負けた。それだけだ……違うかよ!」
言葉の文節ごとに、しゃくりあげるように息を呑んで、田島は言葉を続けた。
「今日の試合でも、俺にお前みたいなガタイがあったら、あれくらいの球、バックスクリーンどころか、場外まで飛ばしてた!」

今まで聞いたことの無かった田島の怒声に、その場にいた全員が、こちらに視線を向けているのだろうと背中で感じながら、俺は、田島の肩に手を伸ばした。
だけど、その手を弾いて顔を伏せた田島は、腕で乱暴に目元を拭うと、大きく息を吸い込み、のけぞるように背筋を伸ばすと、これでもかというほどの勢いで、深々と頭を下げた。
「あっしたっ!」

そう叫ぶやいなや、くるりと踵を返し、脱兎の如くという言葉はこいつの為の言葉ではないだろうかという速さで、自転車置き場の方に向けて走り出していた。
「おい、待てよ田島っ!」
「花井君!」
田島を追って駆け出そうとした俺を、モモ監が引き止めた。

「何ですか、監督!」
すぐにも追って行きたいのに、日頃の習慣でつい監督を振り返り、問い掛けると、モモ監はいつもの不敵な笑みを浮かべて、口を開いた。

「明日は10時から練習開始っての忘れないでね。今日で今年の夏の試合は終わったけど、秋季大会もあるし、甲子園は来年もあるんだよ?うちの大事な四番、必ず引っ張ってきてよ!」
モモ監の言葉に、他のメンバーの顔が変わった気がした。
そして、多分俺も顔色を変えたんだろう。モモ監の顔に、満足そうな笑顔が浮かんだ。
「深呼吸してから行きなさい」
「……あっしたっ!!」
俺はさっきの田島と同様、深々と頭を下げると、田島が走っていった方に向かって、全速力で走った。



自転車置き場に着くと、まだ田島の自転車があり、俺は周りを見回した。
夜だというのに、気温が高い所為か、蝉が鳴き続けている声に混じって、微かな風に揺れる葉づれの音はするが、人の気配は無く、田島が行きそうな場所に見当を付けて更に進んでいくと、自転車置き場から少し離れた、背の低い植え込みの影に何かが居た。

ゴールデンウィークの合宿以来鍛えていた周辺視野の所為か、一瞬気付かずに通り過ぎかけたが、目端に捕らえたその影に俺は足を止めた。
「田島!」
そう大きな声を出した訳でもないのに、僅かな芝生のスペースに腰を下ろし、三角座りをした膝の上に項垂れ、腕で頭を囲うようにしていた田島は、びくりと肩を震わせた。

頭の片隅で、どこかで見たような姿だと思い、記憶を辿って行くと、最初の練習試合、三星戦の時の三橋だと思い至って、俺は小さく吹き出した。

「田島……三橋みたいだぞ?」
俺の呼びかけに、田島は身じろぎ一つせず、項垂れたままだった。
木の多い自転車置き場近くから離れた所為か、蝉の声も小さくなり、俺は沈黙に耐えかねて頭を掻くと、意を決して田島の側に向かって歩いていった。そして、田島の右隣に立つと、その場に腰を下ろした。

「あのさぁ、田島……さっきは悪かった」
モモ監の言う通り深呼吸をすると、何だか頭の芯に冷静さが戻ったような気がした。
今度は気合を入れるために、小さく息を吸うと、俺は口を開いた。

「俺の中のごちゃごちゃしたもんが、勝手に出てきちまった感じだったんだ。何にも考えず、お前の顔を見たら、その……考えるより先に、喋ってた」
言おうとすることを、どう言えば上手く伝えられるか考えながら、少し離れている田島との距離を越えて伝わってくる体温に気付き、なぜか俺は顔が火照ってくるのを感じた。
「……負けた悔しさとか、弱音を……吐いちまったんだ」

格好悪い。
主将をやってるのに、いや、だからこそ、そんな事はチームメイトには言うべきでは無かったのに、有言実行の頼れる四番──田島に、俺は縋ってしまった。

「お前だって負けた悔しさを、我慢してたのに……俺って情けねぇな」
乾いた笑いを漏らして、鼻の頭を掻くと、傍らの田島が少し頭を上げ、横目でこっちを見ていた。
その目元は、かなり赤かった。

「花井……俺こそ、ゴメンな」
か細い涙声に、俺の心臓は小さく跳ねた。
「な、何が?」
不意を突かれた事に驚いたように装ってみたが、首筋から頭の先まで、ぞわぞわとした感覚が這い上がってきて、耳が赤くなっているのが、自分でも手に取るように分かる。
そんな俺の様子に気付かなかったのか、田島は頼りなげな笑みを浮かべた。

「何か、お前が悪い事でも言ったみたいに逃げ出して来た」
鼻をすすり上げ、再び腕で目元を拭った田島は、空を見上げて深呼吸すると、大きく息を吐いた。
「俺って格好悪ぃな」
そう言って、田島は俺に向かっていつもの笑顔を浮かべた。

「そんなこと……言うなよ……」
気を使っているんだろう田島の言葉に、俺は何だか気分が悪くなった。
「田島は格好良いよ……!俺は、お前と同じチームで野球が出来る事が楽しい。一緒にプレイして、一緒に飯食ったりしてるのに、俺の打てない球をどんどん打っちまう……そんなお前を見て、俺ももっと頑張んなきゃって思うし、気持ちよく打ってるお前を見るのが、凄い好きだ。それに、キャッチャーやってくれてるときも、阿部のキャッチよりやりやすい。ほんと、何でもやれるお前が、羨ましくて、俺……」
喋りながら、だんだん自分で何を言おうとしていたのか分からなくなってきて、俺は話すのをやめて頭を抱えた。その途端、俺の腕に田島がしがみついた。

「田島……?」
顔を上げると、大きな目をこぼれそうなほど見開いた田島が、じっと俺の目を見ながら、おもむろに口を開いた。

「今言った事、もう一回言ってくれ」
「い、今?もう一回?」
突然詰め寄られて、俺は喋っていた事など綺麗さっぱり忘れてしまったが、田島の真剣な様子に、なぜか益々顔が熱くなった。

「俺の事好きってホントか?」
田島の口から出た言葉に、俺は言葉を失った。

確かに、俺は田島が好きだ。だが、それは友人としてだと思うし、野球をしている時のこいつは、誰の目にもヒーローのように見えるだろう。
「俺も、花井の事好きだ」

口篭もる俺に、田島は何のためらいも無く、ついさっきまで泣いていた事など頭のどこにも留め置かれていない様子でにじり寄って来た。

「ちょっ、田島、近い!」
心臓はバクバクと早い鼓動を刻んでいるが、冷静な頭からはだんだん血の気が引いてきた。
やばい。何かがやばい。
今この勢いに負けてしまうと、この先何一つ、こいつに勝てない気がしてきた。

「花井」
田島から視線を逸らし、とりあえず落ち着かせようと口を開こうとした瞬間、田島の両手が俺の顔を挟むように伸ばされ、ちゃんと目が合うように向き直された。
「返事が聞きたいんだけど」
「返事って?!」
「今の。あいのこくはくの」
ひとつひとつの文字を強調するようなその言葉を聞いた途端、俺の頭はオーバーヒートを起こした。

「花井?」
少し不安気に眉根を寄せた田島の顔は、初めて会った四ヶ月程前よりも、少し大人びたようだった。
俺の好きな野球をしている最中の真剣な顔、打ったときの最上の笑顔。
そのどれでもない、今、俺にしか見せていない顔を見て、クールダウンできた頭は一つの答えを導き出し、消化するのに時間がかかりそうなそれに、俺はがっくりと頭を垂れた。

「……俺も……多分、お前が……」
ああ、女を相手に言うと思っていた言葉なのに……

頭の中で、いつの間にか描かれていた何かが、音を立てて崩れていく気がしたが、崩れたそれより、もっと良い物のように思える何かが、新しく築かれて行く。
そして、俺は覚悟を決めて、田島が求めているだろう言葉を紡ぐ事にした。
「好「あ、いたいたぁ」

能天気な声がして、俺は半分涙目で、田島も何事かと声のしたほうを振り返ると、さっき俺が田島を見つけたのと同じ所から、水谷が手を振りながらやって来た。
「皆で探したんだぜぇ?二人とも自転車置いてあるのに、その辺に居ないみたいだったから、心配して……って、どうかした?」

あまりの脱力に、その場に手を付いて項垂れた俺の様子に、水谷の言葉の語尾が、問いかけに変わる。
「どうもしねぇよ。な、花井」
田島も田島で、かくれんぼでもしていて見つかったようなテンションで、さっさと立ち上がった。

「後で他の奴等にも礼を言っとかなきゃな。ほら、花井も立てよ」
そう言って、さっきまで俺の頬に触れていた手を差し出され、俺は立ち上がろうと、その手につかまりかけた瞬間。田島の背中の向こうにある植え込みの、更に向こう側、一段低くなっている場所に、黒い頭が二つと、栗色の短髪、茶色いタンポポ頭が並んでいる事に気付き、突き上げられるように立つと声を張り上げた。
「あ、阿部、泉、栄口に三橋ィっ?!」
「ちっ、後少し……」
「全く、空気読めよなぁ」
「……」
「う、あ……ご、ごめ……」
全く悪びれる様子も無くごちる阿部と泉に対し、栄口と三橋は、沈黙と謝罪で答えた。

「お、お前等……、い、いつ、いつから……」
「こんなとこに居たのかよ。お前等皆こっちに来たはずなのに居ねぇなと思ったら……」
泡を食っている俺をよそに、水谷が置いてけぼりを食らったことを拗ねたが、三人は聞く耳を持たず、三橋は一人慌てたように何かを口走っていた。

「んな事よりさぁ、腹減らね?コンビニ行こうぜ、コンビニ!」
いつもの調子の田島に応じて、三橋が「行く」と叫び、栄口も「他の三人も呼ばなきゃ」と携帯を取り出し、素知らぬ振りで掛け始める。阿部と泉は二人で何かを話し合っているが、俺は恐ろしくて聞く気にはなれなかった。

「ほら、はーなーい!」
もう、何が何やら分からなくなり、完全停止した俺を田島が呼び起こすと、強引に腕を引っ張った。
その勢いに負け、前につんのめりそうになった俺の耳元に、田島が顔を寄せ、小さく囁いた。
「返事、今度聞かせろよ」
全員に担がれたのではないかと疑っていた俺は、そう言っていつもの笑顔を浮かべた田島の顔を見て、なんだか安心した反面、大事な事を言いそびれてしまった事に、だんだん腹が立ってきた。

「水谷、お前アイスおごれ!」
「えーっ!何で!」
「お、いいね。俺スイカの奴な」
「じゃあ俺はダッツのクリスピーサンド。三橋は何が良い?」
照れ隠しと八つ当たりに水谷に向かって叫ぶと、泉と阿部が尻馬に乗ってきた。
半泣きになって抗議する水谷に、冗談だといって安心させてやりながら、俺は田島が掴んだ手首の熱さに、軽いめまいを覚えた。

タコの出来た、見た目より厚い印象の手だ。
「なぁ、行こうぜー花井ー」
今日の試合の結果や、ついさっきまでの悔しい思い等全てが吹き飛んだ様子の田島の様子に、俺も自然と笑顔が浮かんだ。

「わぁったよ」
俺は田島が引くに任せて従った。
今はまだ、背中しか見れないが、いつか横に並んで立つと、固く心に誓いながら……






一番最初に書いた、おお振りSS。アベミハ好きなのに、書き始めたらタジハナで驚いた。水谷君が良く働いてくれました(笑)花井君は田島様に翻弄されると良い。そして虜になっている自分に自己嫌悪になったり、浮かんでみたりすると良い!