パシエンシア! -1-


台所──そこは戦場だった。

「ほら廉!火を弱めて!」
「うわわ」
「あららぁ分離しちゃった……」
女三人寄ればかしましいというが、2月の休日となると、女が寄ればチョコレートと言う方が良いかも知れない。

共に野球部のマネージャーをしている篠岡と、群馬からわざわざ来たいとこの瑠里と共に台所に立ってた廉は、湯せんしていたボールの中で見事に分離したチョコレートを見て、眉を下げた。
「ご、めん……」
「まぁ、仕方ないよ。やっぱり初心者の私達には難しいんだね」
「千代ちゃん、そんな事言ってたら、これからずっとできないじゃない!ほら廉、予備のチョコ用意するよ!」
「う、うん!」

台所のテーブルの上に、所狭しと並べられた製菓道具と材料の袋の中を漁り始めた二人を見て、篠岡はなんだか男兄弟みたいだな、と、ぼんやり考えながら、瑠里が作ろうとしたフォンダンショコラより、もっと簡単そうな物はないかと、廉の母親から借りたお菓子作りの本のページをめくった。



事の起こりは、篠岡と三橋廉の二人がマネージャーを勤める西浦高校硬式野球部で、ナインの一人が言い出した事だった。

「チョコケーキ食いたい!」

西浦の頼れる四番である田島の突然の発言に、練習後のナインだけでなく、後片付けをしていたマネージャー二人も思わず彼の姿を振り返った。
「何だよ田島……んなもん買って来いよ」
泉の呆れたような声に、とうの田島は鋭い視線を向けた。
「だってよぉ、もうすぐバレンタインだぞ?練習の時のおやつに食いたいんだもん!」

その言葉に、ナインの顔色が僅かに変わる。
何しろ全員、練習の忙しさに彼女など作っている暇も無ければ、不純異性交遊で甲子園挑戦の権利を失うくらいなら、我慢を選ぶほどに野球に入れ込んでいる為、もう暫くすると訪れるバレンタインにチョコレートを手に入れようと思った場合、あるかないか分からない誰かからのチョコを期待するか、家族に無言の期待を寄せるしかない。
しかし……

汗と泥にまみれたナイン全員の視線が集まった事に、篠岡と廉は肩を竦めた。

「……買ってきたので良い?」

篠岡の言葉に、男達は無言のまま拒否を宣言する。

誰だって、いつかは誰かの手作りチョコを食べてみたい。
男達の背後にそんな言葉が見えた気がして、篠岡と廉は二人で顔を見合わせ、大きな溜息を吐いた。

「分かったよ……でも、期待しないでよ?どんな物が出来ても、絶対食べてよ?」
『作ってくれんの?!』

無言の圧力を掛けてきておきながら何を、と思いつつ、二人は早速部費から落とすか、各人から後で費用を徴収するか相談を始めた。

それが一月の末の話で、その後、廉がたまたま電話を掛けて来た瑠里にその話をしたらしい。すると、群馬の三星学園で、野球部のメンバーと懇意にしている彼女も、バレンタインチョコ製作に加わると言い出し、今こうして悪戦苦闘している訳なのだった。

「ねぇ、やっぱりさ、瑠里ちゃんは数が要るんだし、普通に型に流して飾りを付けるだけでも良いんじゃない?」
「え?!」
篠岡の提案に、瑠里はなにやら痛い所を突かれたような声を上げて、篠岡の顔を振り返った。
その様子に、篠岡の第六感が閃く。
「ね、レンちゃん。私と瑠里ちゃんで買出し行ってくる。やっぱりウチは普通にココアスポンジ作って、チョココーティングにしようよ。でないと皆に不公平とか言われそうだし。んで、その後、瑠里ちゃんの分のチョコ作りを手伝うの。そのためのチョコはやっぱり足りないと思うし、二人で行って来るよ。その間に、ここの片付けとか、頼んでも良いかな」
「う、ん。いいよぉ」
素直に頷いた廉の様子に、瑠里はばつの悪そうな顔をしたが、篠岡の提案に大人しく従った。



「んで?本当の所は何なの?」
三橋の家から近いコンビニに向かう道すがら、篠岡は言いたく無さそうな瑠里の様子など無視して、彼女の顔を覗き込んだ。
「〜〜ウチの叶に上げようと思ったのよ……廉の作ったチョコ」
観念した瑠里は、小さな溜息を一つ吐くと、そう言って事情を話し始めた。

中学時代、親元を離れて群馬の三星学園に通っていた廉は、男子に混じって野球部に投手として所属し、プレイしていた。
男子の中に混じってのプレイは人目を引き、また、理事長の孫でもあった三橋がエースになった事によって、部内には険悪な雰囲気があったのだという。
その時、幼馴染の一人として廉をかばっていたのが件の叶であった。

おどおどとした性格や、あまり実力の伴っていないエースと思われていたが為に、男子からだけでなく、女子からもあまり良く思われていなかった三橋にとって、瑠里と叶だけが心を許せる友人だったのだという。
叶は、廉と同じく野球部に所属するもう一人のエースでもあった為、特に仲が良かったらしいのだが、その彼の調子がこのところ悪いらしい。

「廉に好きな人が出来たらしいって事を、つい言っちゃったんだよね〜」

深々と、溜息と共に呟かれた言葉に、篠岡ははあと同意した。
つまり、叶は廉の事を恋愛感情を持って見ていたのに、当の廉には気付かれる事も、告げる事も出来なかったけれど、気が気では無いという事なのだろう。
「そっちも色々大変だねぇ」

苦笑交じりにそう言うと、瑠里は小さく頷いた。
「でさ、二人が作るのはチョコケーキだって言うし、大きいホールを一つ丸々、って言うわけには行かないから、小さな奴で持ち運びしやすそうな物、と思ったのと、自分が食べたかったからフォンダンショコラ選んだんだけど、失敗だったかぁ」
がっくりと肩を落とした瑠里を励ましながら、コンビニのドアを潜った二人は、真直ぐにお菓子のコーナーに向かい、大きな板チョコを幾つ買い込むか頭を寄せ合った。と、不意に手元に影が落ちて、篠岡は顔を上げた。

「やっぱし!しのーか。何してんの?」
「田島君こそ。びっくりしちゃった。何してんの?こんなとこで」
「俺は友達んとこ行って来た帰り。飲み物でも買おうかと思ってちょっと寄った」
そういって、いつものにかっと笑いを浮かべた田島は、頭の後ろで手を組んだ。
「で?しのーかは?そっちの人は……どっかで会ったっけ?」
瑠里に視線を向けた田島は、何かが引っかかるのか、僅かに首を傾げ、眉間に皺を寄せた。
「こ、こんにちは。廉の従姉の瑠里です」
「いとこ!三橋に似てんのはだからかぁ!」
田島の豪快な雰囲気にやや飲まれがちだった瑠里は、自己紹介すると落ち着きを取り戻したのか、三橋とよく似た笑顔を浮かべて、田島と何やら話しこみ始めた。

廉を一人で残して来てしまっている事が気になっていた篠岡は、板チョコを無造作に手に取ると、それ以外に要りそうなホイップクリームや、無塩バターを手に取り、レジを済ませた。
「瑠里ちゃん、そろそろ行くよ?廉ちゃん一人だし。じゃあね田島君」
「あ、そうだった!じゃあね、田島君」
「おお。しのーか、ケーキ期待してんぞ」

田島のお気楽そうな声に見送られて、二人が廉の家に戻ると、片付けを終えた廉が出迎えに出てくれて、三人は再びバレンタインスウィーツの本とにらめっこをしつつ、瑠里が三星に持って帰るお菓子を決め、早速作り始めた。
結局ココアカップケーキに落ち着いた三星への土産を作っている最中、篠岡は今日の為の買出しの荷物の中で見た覚えの無い、ビターチョコとデコペンを見つけて首を捻った。
「ビターチョコって買って来てたっけ?」
「あ!」
瑠里が電動ミキサーでメレンゲを作っているボールを支えていた廉が、いつも何かドジをしでかした時に上げる声を上げて、篠岡の方を振り返った。

その反応に篠岡だけでなく、瑠里も、一瞬呆けた後、企むような笑みを浮かべた。
「ふーん、廉の好きな人って、ちょっと大人な感じなんだ。おじさん、ビターチョコ苦手だもんね?」
ミキサーを止めた瑠里の流し目に、廉は顔を青くしてあたふたとし始める。
「へー、そうなんだぁ。じゃあ、もしかして野球部のメンバー?」
篠岡の言葉にぴたりと動きを止め、廉は徐々に詰め寄ってきた二人に、交互に視線を向ける。その行動に、三橋がチョコをあげようとしている相手がメンバーである事を確信した二人は、知りたいという欲求に逆らわず、三橋に詰め寄った。

「ほらほら、言いなさいよ〜。言うだけならタダなんだから」
「そうそう。言ってくれたら、私も協力できるかもよ?」
「う、あの……」
にじり寄る二人に、胸の前で祈るように手を組み合わせた廉は、青かった顔を真っ赤にして俯くと、「あ……」と消え入るような声で囁いた。

『あ?』

篠岡と瑠里が声を揃えて復唱した途端、真っ赤になっていた顔を更に上気させた廉は、それ以上声を出す事が出来なくなったようだった。
「もう!もっとちゃんと言いなさいよ!」
瑠里がそう声を張り上げても、廉はふるふると首を振って、体を縮こまらせるばかりだ。
篠岡も一瞬、三橋翻訳機との異名を取る田島がここに居れば、と思ったが、次の瞬間、田島と同じ野球部のメンバーである一人の男の名前が浮かんで、思わず掌を打ち合わせた。
「阿部君?」
「ひゃわ!」
変な声を出して、俯かせていた顔を振り上げた廉は、涙目になりながら篠岡の顔を見た。

「当りなんだ!?阿部って、西浦のキャッチャーの人でしょ?」
「うん、そう。そうかぁ、廉ちゃん阿部君が本命チョコの相手なんだ……」
篠岡の傍らに並び立ちながら瑠里が確認すると、篠岡は頷き返してから廉を見た。
確かに、阿部相手ならビターチョコの方が良さそうだ。
他の部員には悪魔だの大魔王だの呼ばれているが、何気に自分達マネジに気を使ってくれているし、何より時々廉に対して熱い視線を送っている事を知っている篠岡は、この不器用な友人と部活仲間の恋を応援してやろうと決めた。

「廉ちゃん」
「ふぁ、はい!」
「二人で作戦を練るよ」
「ふへ?」
涙目で体を強張らせた廉は、いっそ哀れなくらい震えていたが、篠岡の言葉に小首を傾げた。
「何の、作戦?」
小動物を思い起こさせる廉の仕草に、篠岡は笑顔で応えた。



「廉ちゃん告白大作戦だよ!」



嬉しそうにそう言った篠岡に、「ちょっと古い感じ」というツッコミを入れたくなった瑠里だったが、それはどうにか飲み込んだ。
そして、今日は群馬の三星学園、野球部専用グラウンドで練習をしている筈のもう一人の幼馴染の顔を思い浮かべて、小さく謝った。
篠岡の提案に、今まで泣いていたのが嘘のように顔を輝かせた廉を見てしまっては、告白の邪魔をするような真似は、瑠里には出来なかった。

それに──

最近ちょっと昔と感じが変わってきた叶に、ほんのりと、淡い思いを抱いている自分としては、廉がこっちで彼氏を作ってくれた方が良いという、後ろめたい打算が、いまは頭の中で走り回っていたから……
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