ペルセウス



本当は家で見るつもりだった試合に足を運んだのは、先日届いた一枚の封書の所為だった。

昔から少しも変わらない崩れた文字で、それでも精一杯丁寧に書かれた自分の名前を見つめた後、花井は封筒を裏返した。
裏書に住所は書かれず、ただ彼の名前を書き表す文字が五つ並んでいる。
田島悠一郎。
つい数年前まで一緒にプレイしていた相手は今、野球をする者なら誰もが一度は夢見る場所に立つことを許された。

プロの一軍。
そのナインに選ばれる為に、ピラミッドの底辺からどれだけの人間が這い上がろうともがくのか、見当も付かない。
そんな場所に、自分が最も憧れ、嫉妬し、愛した人物が居る事が、我が事のように胸を躍らせる。

チケットに記された座席に着き、グラウンドを見下ろすと、何故か少し緊張した。
ライトスタンドの中段よりやや下に位置するこの席は、かつての自分の守備位置に目線が似ている。
一息ついて、封筒の中に一枚だけ入れられていた手紙を取り出し、開くと、ラインを無視し、大きく書き付けられたHAPPY BARTHDAYの文字と、来て、とだけ書かれた内容が目に入り、花井は笑おうか困ろうか迷い、微妙な表情を浮かべた。
(何で I が A になるんだ……)
高校時代、散々テストの際に英語を教え込んだ者として、未だにこんなミスを犯す田島に対して溜息を吐きたい気分になりながらも、卒業して三年にもなるのに、未だに自分の誕生日を覚えていてくれた事が嬉しくて堪らなかった。

学生時代、とても人には言えない感情を抱いていた事を、ずっと黙り通して過ごしたことへのご褒美か?と考えて、花井は小さく笑った。
去年とおととしは、高校時代のメンバーが律儀にも祝ってくれたが、一軍と二軍を行ったり来たりしていた田島は、お祝いのメールと電話だけだった。
それだけでも充分嬉しかったが、今年は試合にご招待だ。普通にしているつもりでも、ここ数日顔の筋肉は緩みっぱなしだったらしく、妹達にすら気持ち悪いといわれる始末だった。

最初はとにかくむかついた。
初めて顔を合わせたのは高校のクラブ見学の時に出向いた、小さなグラウンドでだった。
甲子園に行ける、と宣言した嫌味な垂れ目捕手の言葉に、異を唱えた気弱な投手の言葉に田島が食いついた時に、相手を認識した気がする。
それまでは、他にも数人いた見学者の内の一人で、三打席勝負の時に守備を買って出た小せぇ奴、という程度だったが、後になって強豪ボーイズの四番打者と知って驚いた。
中学時代、この長身とそこそこの打率で四番を張っていたのに、垂れ目捕手──阿部が、気弱な投手──三橋に自信を付けさせる為、絶対に勝たなければならなかった勝負の相手に選ばれる程度のレベルだと思われたと知った時、浮上するのに半月は掛かった。

そして、初めての練習試合の時の一言でやられた。

どんな球でも打つ、と言い切った彼の言葉を格好良いと思った。
それと同時に、そう言い放てる彼の自信に、どうしようもないほどの憧憬を覚え、自分の打てなかった球を軽々と打ち放した彼に、嫉妬の炎を燃やした。
それからはもう、勉強以外で彼に勝てるとは思わなかった。
元々の素質の違い、と自分を慰めた事もあったが、彼がその才能の上に胡座をかいているような男ではない事は、一緒に練習していて良く分かっていた。
誰よりも野球が好きで、自分の思うとおりのプレイをする為に、そのポテンシャルに磨きをかける様は、周囲を大いに発奮させた。

スポーツなら何をさせても抜きん出て、明るくてあけすけ……過ぎる所もあったが、その全てが好ましく思えて、追いつきたくて、追いつけなくて。事あるごとに差を見せられてへこんで……
そうこうしているうちに、女子から告白されても心が動かない自分に気付いた。

自分の中にある、感情と呼称される全てを向けた相手に、恋情が一番多く向いている事に気付いた時、それは封印してしかるべきものだと思った。
けれど、彼に対して歓声を上げ、群がる女の集団を目にしてしまえば、暗い感情を向けずには居られなくて、引き剥がすように連れ出したこともあった。
あまり思い出したくない思い出を、頭を勢い良く振って追い出すと、花井はグラウンドの上に集中した。

田島が所属するチームは、ペナントレース序盤の今は二位につけている。
今日の試合に勝てば、一位である今日の試合相手チームを引き摺り下ろせるのだが、相手ピッチャー陣は先発、中継ぎ、抑え夫々が好調で、昨日は完封勝利を上げたりもしている。
球場内にスターティングメンバーを読み上げる声が煩い程に響く中、自分の近くの席の誰かが持ち込んだらしいラジオからは、今日も相手チームの調子が良いという情報が、とアナウンサーが解説者に話し掛け、適当にあしらわれていた。

田島の打順は四。
大抜擢の四番起用ですが、と同じアナウンサーがもう一人別の解説者に話を振ると、田島のチームのOBである有名解説者は相槌を打ちつつ、田島の最近の好成績や、キャンプでの努力を見た結果でしょう、と擁護した。
『そういえば田島は今日、何があるのかは分かりませんが、祝砲をあげるんだと息巻いてましたねぇ。そういう事を言う時の田島は、本当に打ちますからね、怖い男ですよ』
そう言って笑った解説者の言葉に、花井は思わず身を縮込ませ、顔を赤くした。

勝手な思い込みなのかもしれない、いや、きっとそうなのだが、それでも、わざわざチケットを送ってくれた試合で、そんな事を言われてしまっては、まるで自分の為に打つと言ってもらえたようで、目元に熱が篭った。
周囲に変な目で見られるとは分かっていたが、頭を深く下げて落ち着きを取り戻すと、漸く始球式の終わった試合に意識を向けた。

先攻の田島のチームは初回、三人でチェンジになり、田島は二回表のトップバッターだった。
黒いバッターグローブを着けて打席に立った田島は、いつもどおり何の気負いも見せずにボックスの中に入り、そして──真直ぐにバットをライトスタンドに向け、ピタリと止めた。
『何でしょうか田島。予告でしょうか?』
いつもはしないジェスチャーを見たラジオのアナウンサーの言葉に、花井は血の気が引いた。
相手の先発は初回の調子を見る限り絶好調だ。それなのにそんな大それた事をして、もしも打てなかった場合を考えると、明日の朝刊でどれだけ叩かれるか分かったものではない。

けれど、奇妙な確信も胸の中で沸き起こる。

田島ならきっと打つ。
そして、そばかすの浮いた顔に眩しいほどの笑顔を輝かせて塁上に立つのだ。
田島がこちらに振り向けていたバットを引き寄せ、左のバッターボックスから自然な構えでピッチャーを促す。
そして、一度首を振った投手がモーションに入り、白球が空を切り裂いてホームベースに向かう。
先発投手の全力のスライダーだ。
放たれた瞬間、これはストライクに入るだろうが、田島は見送ると思った。
なのに田島は腕を引き、右足を僅かに持ち上げるとバットを振った。

木製バットの乾いたミート音がして、初球は弾かれてバックネットに当たる。
続いて二球目はコントロールミスなのかボール。
三球目、カーブが際どいラインに入り込んだ瞬間、再び田島のバットが動き、真芯を捉えた音がして、打球はライトの頭を超えてツーベースヒットになった。

スタンドが歓声で沸く中、二塁から少し離れた場所に進んだ田島は、腰を落としてベースに視線を向けた。
その背中が不満を語っているのを感じて、花井は首を傾げた。
見ているこちらがひやひやするようなパフォーマンスをして、何とか宣言通りに打てたと言うのに何が不満なのだろう。
自分としては、誕生日に試合に呼んで貰って、おまけにヒットまで飛ばしてくれて満足なのだが……

「まさか……」

小さく呟いて、花井は口元を手で覆った。





試合は終盤、田島の予告ヒットで調子を崩した先発は三回の守備終了と同時にマウンドを下り、二,三回で得点を稼いだ田島のチームが二対一とリードして迎えた八回裏、交代したばかりの田島のチーム側の抑えが捕まり、二点を返されて逆転を許してしまった。
何とかそこまででチェンジに持ち込み、九回表で一点を返し、同点に持ち込んだ裏を、立ち直った抑え投手が実力を発揮して零点で延長戦を迎えた。

十回表、九番からの攻撃ツーアウト二,三塁という場面で、四番田島の出番となった。
田島はこれまで全ての打席で、ライト方向にバットの頭を向けて数秒静止すると言うデモンストレーションをしていて、全打席で当てていた。
だが、ヒットは初打席と三打席目だけで、それ以外の打席では進塁打とフライに終わっていて、野次と声援の入り混じるこの大事な場面での出番に、花井の方がプレッシャーで押し潰されそうだった。

今回も、ピタリとバットを静止させ、ライト方向に飛ばすぞと宣言するような動作に、相手チームはライトへの打球を警戒して守備を厚くしている。
高校時代のフリーバッティングでは、宣言した場所に打球を飛ばすという離れ業を繰り出していた田島だが、木製バットでは勝手が違うらしく、プロになってからは結構な確率で思ったところと違う場所に飛んでいく、とこぼしていたのを思い出した。
そして、たとえ芯で捉えていても飛び辛い打球は、田島が打てないホームランを、更に遠いものへとしていた。

『十回表、この大事な場面で迎えたのは四番田島。今日は全打席で当てていますが、この回、決勝点を入れることは出来るのでしょうか。ピッチャー振りかぶって第一球……投げた!ボール。田島微動だにしません』

アナウンサーの言葉に、花井は背中を冷たい汗が伝うのを感じ、体を震わせた。
周囲の喧騒など全く耳に入らない。
緊張で手が冷たくなり始めたが、視線はバッターボックスから外す事は出来なかった。
遠い遠い場所に、ぽつりとしか見えない姿だが、きっと投手から視線を外さず、次の球に意識を集中させているだろう。
「打てるぞ、田島。お前なら……」
祈るような気持ちを込めて呟いて、花井は組んだ手に力を込めた。

『さぁピッチャー第二球振りかぶって投げ……』
アナウンサーの言葉よりも雄弁な快音が球場に響き、一気にスタンドが沸きかえった。
花井は思わず腰を浮かせ、飛来する打球を見つめた。
『田島打った!伸びる伸びる!打球は伸びて……ライト腕を伸ばしますが頭を越え、入った!ホームラン!田島、今季初ホームランです!』
『やりましたねー田島!本当に怖い男です!』
飛び込んできた打球に、スタンドにいた人が群がったが、花井はダイヤモンドを巡る田島から視線を外せなかった。

右腕を天高く振り上げながら一塁を蹴り、二塁に向けて進む途中、ライトスタンドに向かって、拳を突き上げていた右腕をかざした。
声は届く筈も無いが、花井は「お前に誕生日プレゼントだ」と言われた気がして、太い眉を困らせた。
何という誕生日プレゼントだろう。
きっと胸の内の感動と歓びを思い出せば、これから先どんなに辛いことがあっても大丈夫だ。
例え、田島が結婚したり、遠い地に向かう事になっても、この思い出を胸に進む事が出来るだろう。

我知らず流していた涙を拭い、詰めていた息を吐くと、各塁を確かめるように踏みしめながら一周し、立ち戻ったホームベースからダグアウトに向かい、チームメイトからの熱烈な歓迎を受ける田島に向けて、左の拳を二度、胸に打ち付ける仕草をして見せた。
高校時代に使っていた、向けた相手に良くやった、という意味を伝えるサインだ。
それだけを送ると、気分を落ち着ける為にトイレに立った。
顔を洗い席に戻ってみると、試合は終わり、ヒーローインタビューが始まっていた。

今日の決勝ホームランを称えられて、田島がインタビューを受けている様子を見ていると、本当に手の届かない相手になってしまったのだと思い知らされるような気がしたが、彼にライバルとして認めてもらえていた時期があった自分が少し誇らしくて、花井はやり取りに聞き入った。
そして、祝砲を上げると言っていたが、という問いを、インタビュアが田島に投げかけたのを聞いておののいた。

どうせなら自分の為に打ってくれたのだと夢を見たいのに、田島の口から答えを聞かされ、自分に全く関係の無い事に対してのお祝いだという事を明言されてはたまらない。
慌てて耳を塞ぎ、その場から逃げ出そうと立ち上がった瞬間、田島の小さな笑い声がした。
「今日が誕生日の、大事な知人の為っすよ」
手のひらを突き抜けて鼓膜を震わせた言葉に、花井はぴったりと耳にくっつけていた手を離した。
背中の方から座れと声を掛けられ、慌てて頭を下げて席に着くと、インタビュアが大事な知人の正体を探ろうと、マイクを自分に戻して口を開きかけたその時、田島の手が横合いからそのマイクを奪い取り、ライトスタンドを振り返った。

「誕生日、おめでと!ちゃんと来てくれてすっげえ嬉しい!今日はゲンミツにお前の為に打った。でさ、お前の気持ち、実は昔から知ってたんだけど、黙ってたりしてごめん。でももう俺の方が限界だぞ!気持ちが変わってなかったら、メールか電話くれよな!」

田島はそうとだけ言い放つとインタビューはおしまいとばかりにマイクを返し、お立ち台から去った。
まるで彼女へのラブコールのようなコメントに、スタンド側は大いに沸き返っていたが、取り残されたインタビュアはどうしたものかとおろおろしていた。
花井は今起こった出来事を理解できずに、呆然とグラウンドを見下ろしていたが、不意に携帯がメールの着信を知らせる振動を起こして、ズボンのポケットに入れていたそれを取り出した。
見ると水谷を皮切りに、次から次に元チームメイトである創部メンバーから誕生祝のメールが届き始め、花井は首を傾げつつ内容に目を通した。

『今からいつもの店に来るように!田島も来るよv』
『ケーキ用意してあるからね』
水谷と栄口からのメールに、わざわざ祝ってくれるのだと頬が緩む。
『花井君おめでとう』
三橋からの簡素な内容のメールに、きっと嫌味な捕手も側に居るのだろうなと思いつつ、次に届いた泉からのメールを見て、花井は血の気が引いた。
『試合見てた。俺もこれから店に行くから、ちゃんと男みせろよ。追伸。なにが良くやっただよ。全国放送で恥ずかしいことすんな』

この人ごみの中で自分の事を見つけ出したセンターの集中力にびびりながらも、どうやら事情を全て知っているらしい言葉に、花井は携帯をどこか遠くに放り投げたくなったが、なんとか堪えて新規メールを打ち込み始めた。
相手はもちろん、今日のヒーローだ。
今一番にするべきことは、田島からのラブコールへの返事だ。けれど、田島が知っていると言ったそれが、自分の思う恋情の事なのかどうか確認が必要だった。
震える指でメールを打って送信すると、まだ着替えも済ませていないだろう相手から、すぐに返事が帰ってきた。


その内容を見た花井は、周りに居た他人が心配するほどに顔を赤らめ、その場にへたり込んだ。







花誕参加作品1作目。泉が何故花井を発見できたかはアンドロメダにて(^^;)テレビでなんて、分かりませんよねぇ……?