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入学式の始まる直前。

大きなパネルに張り出されたクラス分けの表を見ていた俺は、ありえない事態に目が眩みそうだった。
「よう、泉ィ!元気だったか?今日から同じクラスなんだ。よろしくな」
なんのてらいもない、満面の笑顔を浮かべて、新入生やその保護者の人波を掻き分けて歩み寄ってきたのは浜田先輩だった。

中学の部活の、憧れの先輩。

故障した肘を抱えながら、必死に投げ続けた姿に、胸を痛めたりしていたあの先輩が、今何て言った?
「どうした?具合でも悪いのか?」
俺はこんな事態を予想していなかった自分を呪った。

背中を丸め、俺の顔を覗き込んできた浜田先輩が、野球部のない西浦を選んだと聞いた時は、少しショックだった。
もう、あの人は野球をしないんだと決めたという事を、認めたくなかった。
そして、噂で浜田先輩が何か問題を起こした事を耳にした時、俺はもう、この憧れだけに止めておけそうになくなっていた想いを、消し去る事を選ぼうと思った。なのに──

新設されるという野球部に興味があったのと、色々な事情、そしてほんの少しの下心を持って俺も西浦を選び、入学してしまったが、まぁ、学年が違えば会う事もないだろうと高をくくった矢先の再会と、衝撃の事実に、俺は、カミサマとかいうのがいるのなら、ぶん殴ってやりたくなった。

「おーい、いーずみー。大丈夫か?」
「先輩こそ、何やってんスか?まさか留年?」
自分で喋っているのに、誰か別の人が喋っているみたいに聞こえるか細い声で、俺は久しぶりに見る先輩の姿に、涙が出そうになった。
「そーなんだ。ま、よろしく頼むわ」
少し困ったように笑いながら、俺を拝むように頭を下げた先輩に向けて、俺は大きく溜息をついた。



先輩──もとい、浜田のその視線に気が付いたのは、入学式が終わり、新入生が各教室に入った時だった。
その視線の先を辿ると、学ランを着込んだ男が目に入った。
体を縮こまらせ、不安そうに視線を泳がせているそいつは、どう見ても新しく始まる高校生活への不安から緊張しているようには見えない。超が付きそうな臆病な奴の背中だ。

担任の挨拶や、レクリエーション、その他諸々の説明が一通り終わって、休憩時間になると、夫々同じ中学から上がってきた連中が固まり始めた。だけど、そいつは席から少しも動かず、浜田の視線もそいつの背中かから動かなかった。

「せ──じゃ無かった。浜田、何見てんの?」
俺は声の中に棘が含まれないように気をつけながら、教室の最後列に席のある浜田の席に近づいていった。

「おう、泉。いやぁあいつ、昔の知り合いかも知れねぇなと思って考えてたんだ。ってか、もう呼び捨て?順応早ぇのな」
そういってまた笑った浜田は、不意に表情を変え、俺をまじまじと見つめた。
「何スか?」
俺の心臓が、急に鼓動の速さを増し、耳が熱くなる。

「いやぁ……お前、やっぱ中学の頃よりでっかくなったよなぁって思って。あの頃は細っこくてさぁ、お前の事を変な目で見る奴もいたくら……い……」
懐かしそうに笑った浜田の言葉は、最後まで続かなかった。
俺の冷ややかな視線に、浜田の視線が泳ぐ。
お前は俺の親類か?

「……そ、それよりさぁ、泉、お前、野球部入んねぇの?」
「は?」
俺は不意を疲れた質問に、眉間に皺を寄せた。
「まあ、入るつもりではいるけど、何?」
「何か面白そうだぜ、ほら」
そう言って、浜田は手書きのチラシを一枚、俺に見せた。

そこには、簡単な勧誘の文章と、グラウンドの地図が書かれていて、俺は目を疑った。
何でこんなものを、この人は持っているんだ?

「入学式の前に、クラブの勧誘準備してるとこ行ってみたらこれがあってさ。今年からかぁ……」
俺はチラシに見入りながら呟く浜田の横顔を見て、胸に湧いた希望に、身を震わせた。
やっぱり、浜田も野球がしたいんじゃないのか?だから、わざわざこんな小さなB5のチラシを目敏く見つけたんじゃないのか?
「なぁ、浜田。お前も……」
「さぁ、席に着いてー」
俺の言葉は教室に入ってきた担任の言葉にかき消され、浜田に席に戻るように促された。



「よ!どうだった?」
クラブの見学を終え、家に帰ろうと一人で自転車置き場に向かっていた俺は、浜田に呼び止められ振り返った。
「何で居んだよ?」
俺はぶっきらぼうに言い放つ。

何となく、居る気はしていた。

レクリエーションが終わり、クラブの見学に行かない新入生が帰り始めると、浜田は教師に呼ばれてどこかへ行った。
てっきり一緒に見学に行くと思っていた俺は出鼻を挫かれたけど、取り敢えず見学だけと思って行って見た信じられない監督や、あの学ラン──三橋の投球を目にして、かなりやる気が出てきていた。

「冷たいなぁ、先輩に向かって遠慮も何も無いし」
子供みたいに口を尖らせた浜田は、手を頭の後ろで組んだ。
懐かしいやり取りに、俺は不覚にも涙が出そうになった。
くそっ、俺の気も知らないで!

「先輩……何で野球、やめちゃったんですか?」
懐かしい顔、仕草、雰囲気。でも、一年という歳月が、目の前に立つ人を、少しづつ変えていく。追いつかない身長や、記憶にあるより少しだけ低い声。

「なんでって……お前も知ってんだろ?肘が伸びねぇ以上、投げられねぇから……」
浜田の語尾に、初めて苦いものを聞き咎めて、俺は勢いづいた。
「でも、今からでも治療すれば、少しは投げられるんじゃないんですか?あんなに楽しそうに投げてたのに……今日だって、自分はやらないって言ってた野球部の勧誘チラシ持ってきたりして……俺だって、先輩と一緒に、ずっと野球やりたいっすよ!」

日が落ちて、肌寒さが蘇ってきた春先の夕闇をかき混ぜるように、校舎の間を縫って吹き込んできた風が、昼間満開だった桜の花びらを、はらはらと散らす。

俺と浜田の間にも、頭上から降り注ぐ桜吹雪が舞い、花びらと夕闇が視界を悪くするのを利用して、俺は堪えていた涙を一筋零した。
胸の内にわだかまっていた物が、それと一緒に剥がれ落ちた気がした。

「泉……」
「俺は、先輩と野球がやりたい。ずっと、一緒にいたい……」
本人を目の前にして、一年前は、言いたくても言えなかった事を、今なら素直に全部吐き出せると思った。もし、それで嫌われるとしても、それはそれで良かった。明日からは、見知らぬ他人の振りで、関わらないようにすれば良いだけだ。

「先輩、俺、先輩の事……」
「言うなよ」

それは、低く、固い声だった。

知らない間に伏せていた顔を上げると、両手をポケットに突っ込み、苦しげに顔を歪めた浜田の顔があった。
「それ以上言うな。俺も、お前等と野球がやりたかった。でも、一年サボってた俺には、もう追いつけねぇよ」
少し震える声でそう言った浜田の拳は、きっとポケットの中で、固く握り締められているんだろう。もしかしたら手を上げられるかもしれないという不安より、浜田が俺を置いてどこかへ行ってしまうんじゃないかという不安の方が大きくて、俺は浜田の正面、手を伸ばせば触れられる位置に立つと、まだ見上げる位置にある顔を見た。

「やってもいない内から諦めんのかよ」
「止めろっていってんだろっ」

苦しげに眉根を寄せながらも、まだ逃げようとするかのような浜田の言葉に、俺は頭に血が昇った。
「俺は逃げねぇ。だから言ってやる、あんたが好きだ。だから一緒に居たいんだよっ」

その瞬間、浜田の顔が固まった。

多分、拒絶の言葉が紡がれるのだという事は覚悟していた。でも、そんな言葉を聞きたくなくて、俺は矢継ぎ早に言葉を続けた。
「今日だって、どんだけ嬉しかったと思うんだよ。前と変わらずに笑って話し掛けてくれて……なのに、昔の知り合いだかの背中ばっか見つめて、ぼんやりして……平気な顔すら出来なくなりそうだったのに、あんたは嬉しそうに野球の話しだすし……俺は……っ」
ついに堤防が決壊したのか、涙が止まらなくなって、俺は顔を背けた。

きっと今、凄い顔になっている。浜田の記憶の中に、こんな顔を残しておきたくなかった。

「泉」

優しい声が、なだめるように降って来て、俺はセーターの袖で顔を拭うと顔を上げた。
「何だよ、馬鹿はま……」
呼びかけた浜田の名前は、当の本人の口の中に消えた。

ポケットに入れられていた手が、俺の二の腕を掴み、あまり優しくない、噛み付くような仕草で俺を貪った浜田は、暫くすると満足したかのように唇を離した。

「悪ぃ。あんまり可愛い事言われて、我慢できなくなっちまった」

呆然とする俺の目の前で、ついさっきまで固かった表情を和らげ、浜田はへらりと笑った。
人気のない、自転車置き場の街灯の明かりが届かない場所に居るとはいえ、俺はすぐさままた「馬鹿」と叫びかけたが、再び口をふさがれて、目を閉じた。

少しして開放されると、俺は溜息をつくように息を吐き、浜田の顔を見上げた。

「静かにしろよ?生徒は帰っても、先生達はまだ居るんだし」
たしなめるような浜田の言葉に頷く事も出来ず、俺は火照った頬と、つかまれた腕の痛みに酔いしれた。

「昼間さ、お前は人気あったって言ったろ?変な意味でも好きな奴が居たって」
同意を求める言葉に、俺は小さく頷いた。
「ゴメン。あれ俺の事」
俺は、いつもの笑顔でしれっと言ってのけた浜田の言葉を理解するのに、結構な時間がかかった。そして理解すると、思い切り顔をしかめた。

「はぁ?」
漸く搾り出したにしては間抜けな言葉だったが、それでもそれが精一杯だった。けど、その言葉に傷ついた様子もなく、浜田は俺の腕を掴んでいた両手を背中に回すと、俺を大事な物みたいに、優しく抱きしめた。

「浜……」
「お前の事がずっと好きだった。だから今日のクラス発表見て驚いたのは、お前だけじゃねぇよ。どうやってお前と顔を合わそうか、必死になって考えちまったよ。声掛けた時なんか、心臓破裂するかと思った」

抱きしめられ、頭を押し当てた胸の鼓動は、確かに早くなっていたけど、俺自身のそれも同じくらい高鳴っていて、段々どっちの音か分からなくなってきた。
「中学の頃、まさか、可愛い後輩にそんな気持ち持ってる事なんか、ばれる訳には行かないと思ってたし、
一緒に野球が出来る間だけは頑張ろうと思って続けた。でも、まさか高校でもう一回会えると思ってなかったからなぁ……」

その声に堪らなくなって、俺は体を離すと、浜田の顔を見上げた。

「肘、やっぱしっかり治せば良かったな」
「浜田……」
ひらひらと、桜の花びらが舞う中で、俺は嬉しさと共に、どうしようもない悲しみを抱えた。

ずっと欲しかった浜田を手に入れられたかも知れないが、もう、一緒に野球をする事は無いんだという現実は、自分の中で抱えきれず、俺は溢れた思いと涙を隠そうと、浜田の胸に顔を埋めた。



それから二ヶ月程して、夏大予選の抽選会が終わり、俺たち野球部がそろって学校に戻ってくると、浜田が三橋を捕まえていた。
話の中に入り、二人のやり取りを聞いていた俺は、浜田の口から出てきた言葉に目を丸くした。

「俺、野球部の応援団作ってもいいかな」

──俺の為だけじゃないかも知れないけど、きっと俺の事も考えてくれた浜田の提案に、俺は身を震わせた。






夜の桜吹雪と、ちゅーのイメージから出来たSS。この時の泉君は、まだ髪の毛が伸びかけの筈だけど、私の頭の中の泉君は桐青戦の時のイメージ。いつかこのSSのイラスト描きたい。