視線 -12- テストの最終日、朝から教室で嫌でも顔を合わせてしまう阿部と、俺は全く視線を合わせないようにした。 それはもちろんしのーかも同じ。 目元を赤く腫らして、気遣う雰囲気の教室の空気を全身で拒否しながら、俺や阿部だけでなく、花井とも言葉を交わしたりはしなかった。 止めたいと、どれだけ切実に願っても止まらない時間はあっという間に過ぎてしまって、午後からはもう部活が始まってしまった。 重たい気持ちでグラウンドに向うと、皆も昨日の七組での顛末を聞き知ってるんだろう。俺達にどう接したもんか、って空気が一杯だった。 でも、それは俺もおんなじ。 自分の所為で空気が悪くなってるっていうのはわかってるんだけど、どうやってそれを何とかしたらいいのか全然分かんなくて、焦る気持ちが空回りを繰り返してた。 どうにか練習を終えて、コンビニで皆と別れた後、俺は巣山と他愛の無い話をしながら歩いてた。 今日の練習の事や、打撃フォームの話なんていう色気も何も無い話だったけど、巣山って結構人の事を観察してるみたいで、他のメンバーや対戦した学校の選手なんかも引き合いに出して、俺が質問した事に丁寧に答えてくれた。 それで少し気分が紛れたところで、俺は家に帰る為の分かれ道に到着して、巣山と同じ方向に帰る他のメンバーと別れて一人になった。 自転車を押しながら歩いて行くみんなの背中を見送りながら、俺は吐き出しづらかった息を思い切り吐き出した。 少しばかり前向きになれても、沈みきった気持ちが浮上するには時間が掛かる。 それでも、気遣ってくれる巣山達に気を使わせたくなくて、溜息をこぼさないよう我慢してたんだけど、今日はもうここが限界だった。 テストと練習で疲れきった体をのろのろと動かし、自転車のサドルに跨ろうとした瞬間。ズボンに入れてた携帯が着信を知らせてきて、俺はタイミングよく電話を掛けてきた相手に、心の中で悪態を吐いた。 もう疲れ果ててるんだから、家に返って風呂に入りたいんですよ、俺は。 でも、せめて相手を確認してから無視するかどうか決めようと思って、携帯を引っ張り出した俺は、一瞬対処に困った。 電話を掛けてきてくれたのは栄口だった。 栄口の声を聞けるのは純粋に嬉しい。 でも、昨日の事や今日の空気の事が話題なんだろうな、と思うと、嬉しさと同じ位憂鬱な気持ちになる。 俺の自己満足で踏みにじった人の心。 やっと乾きかけた傷口に触れられるのは嫌だったけど、俺は観念して通話ボタンを押しながら、自転車のスタンドを立てようとした。 その時、俺の服の裾がサドルの変なところに引っかかっちゃって、自転車が倒れ掛かってきそうになった。 慌てて自転車を支えようとした瞬間、無意識に携帯を持ってた左手も差し出しちゃって、今度はハンドルにぶつかった携帯がアスファルトの上に落っこちた。 うっわーもうサイアク!せっかく大事に扱って傷一つ無かったのに!! 何とか体勢を立て直して携帯を拾い上げると、俺は情けない自分を見せたくなくて、空元気を装った。 「も、もしもし栄口?」 『うんそう、俺。水谷、もしかして携帯落とした?』 スタンドを立てた自転車に寄りかかるようにしながら、俺は小さな嘘を頭の中で組み立てた。 もし栄口に慰められでもしたら、俺はきっと立ち直れなくなる。 指先に当たる携帯の傷の感触に眉を寄せて、俺は明るい水谷君を装って笑った。 「だってびっくりしちゃったんだもん!っていうかそれよりどうかした?」 倒れ掛かってきた自転車にびっくりしたんだけどね、って心の中で呟きながら話を摩り替えようとすると、電話の向こうで栄口が少し気を緩めたのが分かった。 『あー……ちょっと話でもしようかと思って、さ』 ホラ来た。 分かってたんだけど、やっぱり昨日の事や、今日の阿部との険悪な様子の事に触れられるんだと思うと、かすかな恐怖みたいな感情に体が震えた。 もう、全部栄口に打ち明けてしまって、気楽になりたいっていう気持ちが膨れ上がる。 でも、しのーかを泣かせてしまった俺にそんな逃げ道なんてある訳無い。 どこまでも栄口の為に、って考えて行動して、栄口が幸せになれる方法を考えなきゃいけないのに、弱ってしまった心は不安と寂しさを訴えてきて、気が付けば涙がこぼれてた。 熱い雫がぽろぽろとこぼれて、上着に小さなシミを作る。 それを目にした瞬間、溢れた涙が止まらなくなって、俺は慌てて手の甲で涙を拭った。 でも、小さくしゃくり上げてしまうのは栄口の耳にも届いてしまう。 案の定、心配そうな声が俺の様子を窺ってくれた。 『水谷?どうしたんだよ泣いてんのか?』 「……うん、ゴメン、何か、きゅ、急に……」 溢れて止まらない涙をどうしても制御できなくて、正直にそう言うと、少し気分が落ち着き始めたのを感じた。 けど、次の瞬間に囁かれた言葉に、俺は息の仕方を忘れた。 『ゴメンな、水谷。側にいてやれなくて』 遠く離れたどこかで、栄口が俺の事を労わってくれてる。 そう感じただけで、俺は言葉まで忘れてしまったみたいに、詰めていた息をゆっくりと吐いた。 栄口がそんな風に思ってくれてるって分かっただけで、俺の中に渦巻いていた罪悪感が薄まっていく。 相変らず涙は止まらなかったけど、栄口の言葉で一瞬の内に意味が変わる。 やべぇ、嬉しくても涙って止まらないんだ。 だけど、やっぱりカミサマって奴は俺の事が大嫌いらしい。 落ち着かない気持ちを静めるように洟を啜り上げた刹那、今の俺を支えているものを打ち砕く言葉が、栄口の唇からこぼれた。 『俺、自分の事ばっかりで、水谷の助けにならないよな』 は? 「そ、そんな事無いって!今は、ちょっと目にゴミが……」 ヤバイ。 栄口は基本、人に頼ったりする事を好まない。 俺に三橋との接触を増やすような事をさせてくれてるのは、俺に見せてくれた弱みに対する照れ隠しが大きな理由だ。 自分の恥ずかしい一面を見せてしまったから、俺にも少しは心を開いてくれてたのに、こんな事を言い出し立ってことは…… 『俺、もうできるだけ水谷に頼るのは止めとく。自分の気持ちなんだから、自分でコントロールするべきだよな』 悪い予感って、どうしてこうも的中するんだろう。 『だから水谷、俺の事はもう心配しなくて良いよ?その代わり、しのーかを慰めてあげなよ。こんな事言ったら不謹慎かもだけど、今がチャンス、ってやつだろ?』 「さかえ、ぐち……」 いやだ、 俺は栄口しか心配じゃないって言っても過言じゃないんだ。 だからそんな事言わないでよ。 『今まで、本当にありがとな。水谷も幸せ、掴もうぜ?』 続いた短い挨拶を最後に通話が切れ、言葉はもう耳に届かなかった。 通話ボタンを押して切る事も忘れ、携帯を支える事も忘れ、俺は呆然とその場に立ち尽くし、手から滑り落ちた携帯がアスファルトの上を滑るようにして転がっていくのも放っておいた。 俺の幸せ? そんなもの…… 「今、栄口が打ち砕いたっての……」 酷く出しにくい声を絞り出すと、俺は涙の出し方も忘れた。 翌日の朝、俺は気分が悪いと言い張って、布団から出なかった。 親は仮病を疑ってたみたいだけど、熱を測ってみたら微熱だけど熱もあったし、気分はまだ最悪のままだったから、何とか納得してくれたらしい。 朝練開始時間には間に合わなかったけど、モモカンと学校の方に連絡を入れてくれた。 息子に甘い母親でホント良かった。 いつもなら学校で授業を受けたり、部活で汗を流している時間に家に居るのは変な気分だ。 何かするべきなのかなーと思ったりしたけど、やっぱり何もする気力は無くて、俺はベッドから起き上がる事をせず、夢と現実を行ったり来たりして、その日一日を過ごした。 でも、夢と現実、そのどちらでも頭の中を占めているのは昨日の栄口の事と、これからの事だった。 栄口が俺としのーかの事を勘違いしたままだって知ってはいたけど、まさか俺の事をもう必要無いっていうとは思わなくて、ショックは大きい。 お陰で今日も学校も部活もさぼっちゃったけど、明日からどうやって栄口に接したらいいのか分からない。 でも、ずっとこうして布団にくるまってじっとしている訳にもいかない。 八方ふさがりって、こういう事を言うんだなー…… 何だか息苦しい部屋の中、俺は溜息を吐いて起き上がると、リビングのある一階に下りた。 モモカンから、食べて体を大きくするのも重要、って言われ続けているのもあって、食事は今日も出来るだけしっかり食べるようにしてる。 でも、普段の食事量より少し少なかったからか、なんだか小腹が空いちゃったんだよね。 リビングでふと時計を見ると、もう少しで晩御飯っていう時間だった。 その所為か、母親は買い物に出るっていうメモを残して出かけていた。 メモを握りつぶし、ゴミ箱に向かって放り投げると、見事にホールインワンして少し気分が晴れた。 冷蔵庫を開けて、適当につまめそうなものを取り出していると、玄関から来客を告げるチャイムが鳴った。 面倒くさい。 多分新聞の集金とかそんなのだろうとは思ったんだけど、一応誰が来たのか位は確認しておこうと思って、玄関扉の覗き穴から外を窺うと、俺はそこに立っていた人物に目を見張った。 何故だか分からないけど、俺は慌てて玄関の鍵を開けた。 そして開け放った扉から飛び出すようにして相手の目の前に立つと、縋るような思いで顔を見上げた。 「巣山……!」 「……っびっくりしたー……何だよ、元気そうじゃん」 一瞬驚いたような顔をした巣山が、そう言って笑った瞬間、俺はまた涙腺が緩んでくるのを感じて顔を伏せた。 「何で……今日、練習あるのに……」 そうだ。まだいつもなら練習の真っ最中っていう時間なのに、何で巣山が俺の家まで来てくれてんだ? 「お前試験前の連絡聞いて無かったのか?今日はラグビー部が全面使いたいからって、次のミーティングの日と練習日を入れ替えたじゃねぇか。で、俺は全員の代表でお前の様子見。他の奴等も心配してたぞ?」 明るく言う巣山の言葉が、なぜかは分からないけど素直に受け止められて、俺は巣山の両肩に手を乗せて顔を伏せた。 「わざわざ、来てくれてありがと……」 今、巣山の肩にすがってるみたいに、折れそうな心もすがってしまいたい。 けど、そうしたら、俺は巣山を今の俺みたいに苦しめてしまうかもしれない、って考えたら、そこから動けなくなった。 巣山の肩から手を離して、俺は自分ひとりで立ち直らなきゃならないのに…… 「……水谷」 静かな呼びかけに俺が顔を上げると、巣山はいつもみたいに真面目な顔をして、グダグダな俺を見下ろした。 「ちょっと、上がらしてもらっても良いか?」 「何、で……?」 熱を帯びた目をこすって鼻を鳴らすと、巣山はちょっと呆れたように目を瞠った。 「お前ね、こんなに弱ってる奴放っておける訳無ぇだろ?話聞いて、何かアドバイスできればしてやっから、とりあえず上がらせろ」 まるで(本人は全力で否定するだろうけど)世話好きの泉みたいな巣山の言葉に、俺は声を上げて笑った。 ←BACK NEXT→ (2010.8.16) まだ水谷幸せじゃないですよ……おかしいなぁ…… |