シャンソン 1 




表通りから脇に伸びた路地の奥、昼夜問わずうらびれた気配の漂う場所にその店はある。
店の名前はキャッツアイ。
許された者のみが知る事ができる喫茶店である。



看板は出さず、一見、どこかの店の裏口に見える、店の名前が小さく箔書きされた木製の扉を開けると、カウベルの音が扉の大きさと反比例した割合広い店内に低く響いた。
「いらっしゃいませ〜」
BGMの古いシャンソンを掻き消さない程度の声量で、店の奥から間延びした男の声がして、カウンターの下にもぐりこんでいた店主が、くすんだ金に染上げた頭を覗かせた。

「お、泉。久し振りだなー」
「相変わらず暇そうだな、浜田」
馴染み客の言葉に、店主の浜田は苦笑いを浮かべた。
「まぁ、場所が悪いからな。でも趣味だし、儲けは気にしてないから良いんだよ」
上質なマホガニーの一枚板を使ったカウンターの真中、いつもの定位置についた泉は、浜田のそんな言葉に気の無い返事を返すと、ゆっくりと息を吐いた。
「何だ?何かお疲れみたいだな」
手際良く、ドリップタイプのコーヒーを準備しながら浜田が声を掛けると、泉は眉間に小さくしわを寄せ、更に深々と溜息を吐いた。

「お疲れみたいじゃ無くて、疲れてんだよ……あー嫌だ。何で俺が……」
浜田が変に思いながらも、口の細い薬缶からお湯を迸らせると、途端に店じゅうに広まった香ばしい香りに、泉は嫌々ながらといった態で浜田の顔を見た。
「シャ・ノアールにエサの時間だ」
「……ヘェ……」
徐々に投入するお湯の量を増やしながら、コーヒーを淹れていた浜田は、面白そうに目を細めた。
「シャ・オールの物でよければどうぞ?」
浜田は白磁のシンプルなデザインのカップに、淹れたばかりのコーヒーを注ぎ入れ、泉の前に差し出すと、とても流行らない喫茶店の店主の物とは思えない鋭い目を光らせた。



泉がこの店を知ったのは一年前だ。
まだ刑事になりたてで、意気込みばかりが空回りしていた頃、自分のミスから窮地に立たされた。
その時、まるでドラマのお約束のように現れたのが浜田で、以来、時々こうして店を訪れるようになった。
普段はどこか間の抜けた印象の、流行らない喫茶店の店主だが、彼のもう一つの顔、武器と情報の遣り取りを行う店のオーナーだと言う事を知っている者は、けして彼には逆らわない。
まだ二十台半ばから後半といった年頃にも関わらず、彼のコネクションと名前は知れ渡っており、各組織のトップですら、一応の敬意を払う。

刑事である泉は、それを取り締まる立場にはあるのだが、どれだけ彼の身辺を漁ってみても、何ら尻尾を出さず、むしろ彼からもたらされる情報によって助けられてしまう。
いつもそれを腹立たしく思いながらも、証拠も無く彼を逮捕する事は出来ず、今では馴染み客にまでなってしまった。

浜田との出会いの時、サンドバッグにされた自分を助け、意識をはっきりと取り戻すまで一週間もの間世話になった恩も、またこの店の空気が気に入っている事もある為、どちらかというと淡白な性格だと自認している泉は、浜田の放置を決め込んでいた。

泉が無意識に小さく溜息を吐くと、目の前の浜田が小さく首を傾げたが、それを無視して、内ポケットの中に忍ばせていた一枚の写真を取り出し、カウンターの上に滑らせた。
まだ二十代前半、泉と同じような年頃らしき写真の中央にいる人物は、タンポポの綿毛を思い出させる、ふわふわとした印象の色素の薄い髪に、何やら眉をこれでもかと困らせながら、大勢のSPらしき人物達に囲まれていた。
「あれぇ?三橋グループの御曹司じゃん」
写真の中の人物の身分を正確に言って見せた浜田に、泉は渋面を作った。

「4時間前に誘拐された」
苦りきった声に、浜田は面白がるような気配を消した。
「俺の元同期で、このSPチームのチーフ兼、三橋の秘書をやってる阿部って奴から、俺に極秘裏に協力依頼があった。居場所を知りたい」
「ふーん……噂の三橋君かぁ。傾きかけたグループ再生の原動力。出向いた赤字セクション全てを黒字に転換させる奇跡の人。もしくはざしきわらし」
「んな馬鹿みたいな事言ってんな。こいつはただの天然だっての」
呆れたように呟くと、泉は浜田の顔を見つめ、言葉ではなく視線で彼を促した。

が、そんな事を全く意に介さず、カウンターの向こうから三橋の写真に見入っていた浜田は、泉の視線を無視するように首を傾げた。
「なんだ?泉の知り合い?」
「高校のクラスメイト。阿部とは同じクラスになったことねぇけど、三橋は三年間同じクラスだった」
出されたコーヒーカップを口元に寄せ、まず一息香りを楽しむと、泉はそう言って濃く抽出されたそれを口に含んだ。

「泉ーせめてミルクくらい入れろよー?体悪くするぞ?」
「っせーな。客の趣味に口出すな。で?何かねぇのかよ」
眉を八の字にした浜田を、泉は上目遣いに睨みつけた。
こうしてもったいぶるところが気に入らないところの一つだったが、大体こういう反応を返す時は情報を持っているので、泉は自分を落ち着ける為にもう一口コーヒーを含むと、浜田が話し始めるのを待った。
「三橋の居場所についてなら無ぇけど、最近きな臭い動きをしてるのは南米系かなぁ……銃の流入量が増してる。三橋グループと対立関係にあるところとも繋がりあるなぁ……その辺から調べて見るから、ちょっと時間くれない?」
かわいらしいとも思える仕草で首を傾げて見せた浜田に、泉は眉間に深々と皺を刻んだが、コーヒーを飲み干して席を立った。

「一時間が限度だろうな。それ以上になると、三橋も心配だけど、阿部の方が手に負えなくなっちまう」
「了解」
おどけて敬礼して見せた浜田の様子に小さく笑うと、泉は財布から小銭を取り出し、カウンターの上にのせた。
「じゃ、頼んだぞ浜田」
「携帯に連絡入れるからなー」
振り返らず、再びベルを鳴らして扉を引き開けた泉の背中を見送ると、浜田は表情を一変させ、カウンターの内側からしか見えない位置にあるロフトを、鋭い目で振り仰いだ。
「梶―!おーい、かーじーやーまー」

「おー。聞いてたぞ」
少し間延びした声がして、ロフトの手すりの向こうから、浜田より若干くすんだ金に短い髪を染めた男が顔を覗かせ、かけていた眼鏡を指で押し上げた。
「三橋君に持たせてたGPSチップは気付かれたみたいだな本社ビルから動いて無ぇ」
「監視カメラも死角を狙われたみたいで、駐車場から出て行くセダン2台と、ワンボックスくらいしか怪しい車も無いぜ」
梶山と呼ばれた男の横合いから顔を覗かせたもう一人、浜田よりも少し長い黒髪をした男の言葉に、浜田は情けなさそうな顔で二人を見上げた。

「あーあぁ何やってんだか阿部も……で、梅。セダンタイプ2台はどこ行った?」
「本社ビルから北東方面と、南西方面ってしか分かんねぇよ。街中の監視カメラ洗うか?」
「ん。頼むわ。梶は久々に頼む」
「あぁ?マジで?この借しは高いぞ?」
不満そうな言葉とは裏腹に、口元に笑みを刻んだ梶山の言葉に、浜田も同じように笑みを浮かべた。
「さぁ、お仕事始めよーぜ」



きっかり一時間後、浜田の店から10分程の場所にある三橋の本社ビルの一角で、不機嫌な阿部と、他に数人のSPと共に連絡を待っていた泉は、胸ポケットに入れていた携帯が、少し耳障りな呼び出し音を奏でながら鳴動するのを感じて取り出した。
取り出したことで大きくなった呼び出し音に、SP用の控え室の中、椅子にどっかりと座り込み、両膝の上に肘を置いた手を組んで額に当て、微動だにしなかった阿部が弾かれたように顔を上げたが、泉はそれを無視して携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし?」

『やっほー!いーずみーv』
通話ボタンを押す前に確認したディスプレイで、掛けて来た相手が誰であるかは分かっていたが、自分の問い掛けにかなり能天気な声を上げた喫茶店の店主の声に、泉は頭痛を覚えた。
「てめぇいい加減にしろ。警官侮辱罪で逮捕すんぞ」
『おーこわ。折角ねずみの居所突き止めたのにぃ』
不満をもらす声の背後に、エンジンの回転する低い音が混じっている事に気付いて、泉は顔をしかめ、阿部はつかつかと泉に詰め寄った。
「おい、泉!情報屋からなのか?!」
『おおっと、阿部も限界近いみたいだな』
電話口から聞こえたのか。浜田が面白がって笑うのを聞いて、泉は小さく舌打ちした。

「浜田、お前もしかしてもう片付けたのか?」
泉のその言葉に、阿部の顔が固まった。
『さぁすがー!良く分かったな!』
顔の見えない相手の上げた声に、泉は深々と溜息を吐いた。
「分からねぇ訳無いだろ、この馬鹿。普段外に出ねぇお前が外に出てたら、大体そういう事じゃねぇか」
『良くご存知で……ちょっと嬉しいなぁ。俺、今心臓どきどきしてるv』
「勝手にやってろばーか。それよか、三橋は無事なんだろうな?どこに居んだよ」
『実は今御曹司連れてそっち向かってるトコ。後5分程したら、社員用出入り口のトコ来てくれっか?じゃぁなぁ』
「あ!こらっ!切るな!」
「三橋は!?三橋は無事なのか!」
携帯で話していた泉の様子を、何とか口を出さずに見ていた阿部の問い掛けには答えず、泉はもう一度盛大に舌打ちすると、通話の切られた携帯を片付け、つかつかと部屋の出入り口の扉に向かった。
「てめぇ!泉!どこに行くんだ!」
何も言わない彼の態度に業を煮やした阿部が、怒り心頭と言った態で叫ぶと、泉はありありと面倒くさいと語る表情で、肩越しに元同期の顔を振り返った。
「社員用出入り口。三橋、連れて帰って来るってさ」



「三橋っ!」
「ふおっ!あ、阿部、君!」
「あー……うっぜぇ……」
梶山が運転するジープから、寝惚け眼の三橋が降り立つと同時に彼に駆け寄った阿部が、頭の天辺から足の先まで、何事もなかったかチェックするのを横目で見ながら、泉は助手席から降りてこない浜田に向かって歩み寄った。
「で?怪我は無ぇのかよ」
「ん?見ての通り、御曹司は元気だけど?」
「じゃなくて、お前の方。どうせ穏便になんか済ませて無いんだろ?」
険しい表情とは裏腹に、気遣わしげな言葉をかけた泉に浜田は一瞬驚いたようだったが、すぐに笑顔を浮かべると泉を手招きした。

「何だよ」
「実はちょっとここだけかすった」
開け放った窓から身を乗り出していた浜田は、そう言って右手で自分の首筋の方を指差した。
「何が……」
かすったのか、と問い掛けつつ、その場所を覗き込もうとしたその時、浜田が首を伸ばし、一瞬の早業で泉の唇を掠めた。
小さく音を立てて奪われたそれに、運転席にいた梶山も、側に立っていた阿部と三橋も、揃って二人に視線を向けたが、当の本人の泉は、突然のことにその場でびしりと体を固まらせた。

「うっし。じゃぁ帰っか。報酬も貰ったことだしな。またな、泉ーv」
梶山が走らせ始めた車の窓から身を乗り出したまま、浜田が満面の笑顔と投げキッスと共に去っていくのを見送る事もせず、硬直から立ち直った泉が拳銃を片手に店に乗り込むと言い始めるまで、そう時間は掛からなかった。





虚ろなカウベルの音が響いて、浜田が歓迎の言葉と共に視線を落としていた手元から顔を上げると、阿部と三橋の二人がスーツ姿で立っていた。
「よぅ!さっきの今でどうした?」
洗い物をしていたのか、濡れた手をタオルで拭いながら破顔すると、浜田は二人にカウンター席を勧め、手早く飲み物と食べ物を用意し始めた。

「ハ、ハマちゃん。さっきはありがとう!」
「悪かったな、手間掛けさせて」
もう二十台になっているのに、年端の行かない子供とそう変わらない笑顔の三橋に釣られるように、阿部も口元に微かな笑みを刻んで浜田に向かって小さく頭を下げた。

「何だよー二人共水臭い。俺だって元クラスメイトの幼馴染だぜ?助けられるなら助けるって」
浜田のその言葉に、カウンターの二人は僅かに表情を曇らせた。
それを目敏く見つけた浜田は、先に用意できた三橋用のオレンジジュースをコースターと共に彼の目の前に差し出しつつ苦笑した。
「もう大丈夫だって。あれから何年経ってると思ってんだよー……まぁ、確かに少し寂しいけど、今は今で楽しんでんだから、大丈夫」
阿部用のコーヒーを入れながら、次々と材料を重ねてサンドイッチを作る様を目にして、阿部と三橋は顔を見合わせるとこれ以上は言うまいと頷き合った。

「さっきの礼に来たんだ。でも、お前のところに乗り込んでやるって言ってた泉を取り押さえてきたから、貸し借り無し、ってとこかな」
三橋グループ御曹司の懐刀は、その本質を語るような黒い笑みを浮かべながら、胸ポケットに仕舞い込んでいた細身の茶封筒を浜田に向かって差し出した。
「えー?良いのかよ。さっき泉から礼を貰ったから気にしなくても良かったのに」
「ち、治療費……」
出されたサンドイッチをすでに半分以上平らげた三橋の言葉に、浜田は小さく目を瞠った。
「い、泉君が、ハマちゃんが手を、傷めた、って……だから、お見舞い」
「そういう事」

なにやら嬉しそうな三橋と、浜田から受け取ったカップに、ろくに冷ましもせずに口をつけた阿部の言葉に、浜田は呆然と二人の顔を見た。
「泉、が?」
「うん。ハマちゃん、左手使わなかった、し、庇ってたって、泉君、言ってた、よ」
残りのサンドイッチをほおばり、まるでリスのように頬を膨らませた三橋は、そう言って目を細めた。
「泉君、は、やっぱりハマちゃんが大好き、だよね」
三橋の言葉に、浜田はカウンターの向こうで悶え始め、呆れた阿部が三橋を連れ出すまで、延々妙な踊りを踊り続けた。



『…………宅に打ち込まれた銃弾は……氏の耳……命に別状は無く…………続いて指定……』
小さな個人病院の待合室の中、流れ始めたニュースを聞くとは無しに聞きながら、泉は眉間に小さく皺を寄せた。
三橋誘拐騒ぎの黒幕だろうと阿部が目星をつけていた人物が、誰かに襲撃されたというニュースなのに、刑事として何の感慨も覚えない自分の矛盾に笑がこみ上げそうになりながら、無茶をした浜田の様子を思い出して小さく舌打ちした。
結局左手の骨にひびを入れた浜田を、今日は強制的に病院に連れてきているのだが、よくもまぁ我慢できたものだと思いつつ、自分にまで黙っている水臭さに少し腹を立てたが、よくよく考えるとそう親しいとも言えない相手に対し、何故こうも心を乱されるのか、その理由に辿りつきそうになって、泉は考える事を放棄した。
「はい、終わったよ」
「あんがと先生」
左手にプロテクターを着け診察室から現れた浜田と、白衣を着た中年のでっぷりとした体型の医者の顔を見て、泉は気持ちを切り替え、二人に意識を向けた。

あまり酷い怪我では無かったようで安心を覚える自分の感情を隠し、自分達以外患者の居ない、閑古鳥の鳴く病院のリノリウムの床を鳴らして立ち上がった。
「よし。んじゃ店に戻るぞ」
「泉、仕事は?」
医者に直接支払いをする浜田を置いて、ワンフロアしかない小さなこの病院を後にしようとする泉に、浜田がそう問いかけると、泉は小うるさげに振り返った。
「今日は休み。帰って田島の試合見るぞ」
「おお!お前の友達の?今日試合かぁ……デーゲーム?」
「そ。だから急げよ」
手を振りつつ、扉を開けて出て行った泉を浜田と医者が見送ると、ニヤケ顔の浜田を見て、医者が大きな溜息を吐いた。

「あの子、まだ何も思い出さんのか?」
顎より首の方が大きくせり出している医者は声をひそめながら、眼鏡の下から感情を窺わせない視線を浜田に向けた。
「ん。何一つ。でも、思い出さなくても良いんじゃねぇの?俺は今の状態でも良いと思ってんだ……」
軽い口調ながら、その目に複雑な感情を乗せる浜田に向かって、黒縁の分厚いメガネを光らせた医者は鼻を鳴らした。
「まぁ記憶以外はなんも問題ないからなぁ。お前も何も知らん振りの演技も堂にいったもんだし、好きにやれや。そしてバンバン怪我して儂に金を落としてけ」
浜田から渡された札をひらひらと振って見せた医者は、そう言ってさっさと診察室の方へと戻っていった。

その後姿に礼を言った浜田は、大きく伸びをすると肩を鳴らした。
「さぁ、にゃんこはお家に帰ってごろごろしながら野球見ますかね」
「何してんだ浜田!置いてくぞ!」
「はいはい。今行くよー」
扉の向こう、雑居ビルの廊下からの呼び声に、声を張り上げて答えた浜田の口元には小さな笑み、そして瞳には隠しきれない寂しさと愛しさが顔を覗かせていた。


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連載に……なってしまうかどうかは反応次第です!受けなかったらここまでで(苦笑)
某チャットにて元ネタを頂きました。関係者の皆様、その節はありがとうございました!
パロの意外な難しさに手間取りました。ハマちゃん達三人はフランスの外人部隊に五年(は除隊できないそうです)いて、帰って来てからハマちゃんは窓口兼トップ兼指揮者、梶は武器調達及び長距離攻撃による支援者、梅は情報収集と近接戦闘担当……とか考えてみました。すみません、こういう事を考えるのも大好きです。色々と細かい所を考え過ぎなんですよね。
シャ・○○のシャはフランス語で猫。
しかし、三橋ざしきわらして自分……(^▽^;)