シャンソン 6 




半ば朦朧としていた意識がはっきりしだしたのは、浜田の運転する車に揺られている最中だった。
たった一発のパンチでのびてしまった事に舌打ちしながら、少し収まりの悪かった姿勢を正すと、ハンドルを握っていた浜田がこちらを窺うように視線を寄越したのが分かった。
けれど、何を言って良いのか分からず、泉は深呼吸して更に意識をはっきり保つようにすると、改めて浜田を見遣った。
「久し振り……」
「……久し振り、だな」

当たり障りの無い挨拶がするりと口を突いて出て、緊張が幾分解けたようだった。
あの雨の日、何も言わずに浜田の部屋を出てから初めての邂逅に、傷の痛みも遠のいてしまうほど体が強張っていたらしく、息を吐いた途端に殴られた箇所や、関節が外れたままになっている肩が痛みを主張し始めて呻くと、浜田が心配そうに顔を覗きこんできた。
真直ぐ前を向くように力なく叱りつけて前を向かせると、浜田は何も言わずに前に向き直った。

「すぐに、先生んとこ着くからな」
「お前、軍隊に居たんだろ?肩くらい入れられねぇのかよ」
「……できっけど、ちゃんと医者にしてもらった方が安心だからな」
夜尚眠らない街の中を走っているのに、薄暗いままの車内に沈黙が落ちる。
お互い、もっと話したい事は沢山あるのだと分かっているのに、それを口に出してしまうのがはばかられた。
賑やかなネオンや、対向車のライトが車窓を賑やかに流れている中、泉はシフトレバーに添えられた浜田の手を見つめた。

中学生の頃から憧れ慕っていた手は、意識して見ている所為なのか、高校生の頃のそれに比べると、骨ばって大きくなっているように思えた。
触れたいという思いが急激に膨れ上がってくるが、運転の妨げになる事を恐れて、泉は伸ばしかけた右手を力なく握りこんだ。
怪我の所為で熱が出始めているのか、唇が酷く乾いた。
それを湿そうとしたとき、薄く開いた唇が予期しない言葉を紡いだ。

「会いたかった」

吐息に紛れそうなかすかな声に、前を向いたままの浜田の目が大きく瞠られる。
彼の耳に届いていただけでも充分満足だというのに、わななく唇は何度も会いたかったと繰り返し、細かく痙攣する瞼には、涙が零れる限界まで溢れた。
何度も何度も同じ言葉を繰り返し、漸く満足したらしい声帯が振動を止めると、泉は熱い吐息を胸の底から吐き出した。

「……ごめん……」
何とか落ち着きを取り戻して呟くように言うと、浜田は「否」とだけ返し、真直ぐに前を見据えていた。
だが、ハンドルを握る手が白くなるほど力が篭っているのを見つけて、泉は胸の中に充足感が広がっていくのを感じた。
言葉に表してもらえなくても、浜田もまた自分と同じ気持ちだったのだと知れて嬉しかった。
思いも寄らない事件が起きて、昔とは全く変わってしまった人生を歩む事になり、浜田に恨まれても仕方が無いと考えていたのに、自分が記憶を失っている間もずっと自分の事を守ろうとしてくれていた。
それが、心から嬉しくて仕方が無かった。

記憶が戻っている事は、いろいろと確認を取りに行った阿部と三橋に口止めをしなかったため、浜田にも知れているだろうと思っていた。
最後に会ってから半年もの間、お互い良く我慢できたものだと思う。
運転席に座る浜田から、自分に向けて熱を孕んだ気配が放たれているのを感じて、泉は目を細めた。
触れたいという欲求は、言葉を交わしてしまった事で最後の留め金を弾き飛ばしてしまった。
体に軽い重力が掛かって車が停止し、エンジンを止めるために浜田が車を操作するのももどかしく、泉は腕を伸ばして浜田の襟足に手を掛けて引き寄せた。

お互い示し合わせてでもいたかのように、噛み付くようなキスの応酬が始まった。
シートベルトで固定されたままの自分に覆いかぶさるように、シートベルトを外した浜田が手荒い手技で口内を隈なく舐め上げれば、泉もまた負けじと浜田の唇を食み、舌を絡める。
呼吸困難になりそうになりながら満足するまで堪能していると、飲み込みきれなかった唾液が口の端から零れ、はだけられた胸に滴った。

それを見咎めた浜田の顔に、雄の笑みと同時に痛ましげな表情が浮かんで体が離れていった。
「先生んとこ、もう着いたから行こっか」
一瞬、もう少しだけ二人だけの時間を持ちたいなどと考えてしまったが、僅かに背を浮かせた瞬間に走った左肩の鋭い痛みに、泉は浜田の提案に大人しく従う事にした。





「…………で、何でこんな事になってんだ?」
梶山は三人共用のスペースである一階の店舗に入るなり目にした光景に、うんざりといった態で呟やいた。
「あ、お帰り、梶」
「お邪魔してます、梶山さん」
「おっかえりー首尾はどうだった?」
梶山の問い掛けに、その場に居る誰もまともな返事をしなかった。

早朝、というにはもう遅いかもしれない時間。
世のサラリーマンはもう仕事を始めているだろうに、喫茶店である筈のそこはまるでバーにでも宗旨替えしたかのようにアルコール臭で満たされ、カウンター席に座る三人は上等な一枚板の天板の上に無数の缶や酒瓶を並べてご満悦のようだった。
「ほら、梶も飲め飲め!」
「誰かこの状況の理由を説明しろよおい」

この場に居る四人の中で一番酒に弱い梅谷が、片手にビールの缶、もう片一方の手に日本酒の一升瓶を持って詰め寄るのをいなしながら、普段以上ににやけた顔をしている店のオーナーであり、自分達のリーダーでもある浜田を見遣ると、もう数年来目にしていない心からの笑顔を浮かべて笑った。
「今回の仕事の成功祝いと、泉の記憶の回復祝い。梅が張り切っちゃてさー、祝い事なら酒だ!っつって買い漁ってきたんだ」
その言葉を聞いた梅谷は、浜田と泉に背を向けているのを良い事に、梶山に向かって違うというジェスチャーを繰り返していた。

梅谷が酒を買い漁ってきた本当の理由に大方の察しをつけた梶山は、手にしていた茶封筒を顔の横に掲げて見せた。
「仕事の報告すっから、いったんこの辺片付けろ」
「じゃあ、俺は上行ってる」
梶山の言葉に、夜の内に治療を受け、顔に大きなガーゼを貼り、左腕を吊った泉が席を立った。
「おう。俺のベッド綺麗にしてあっから使えよな」

背中越しに、ベッドの提供を申し出た浜田に向かって小さく返事を返しながら、二階への階段に向かう泉の背中を見送り、その気配が完全に無くなるまで沈黙が降りた店の中、ドアが閉まる音がするなり梅谷が盛大な溜息を深々と吐いて、梶山は浜田と一緒に僅かに身を引いた。
「なんだよウメ」
「もーどうもこうもねーっての!先生んとこから帰ってくるなりさ、二人でぎこちないのにあっつーい気配漂わせて座ってんだぜ?!居合わせちまった俺の身になってくれって!」
問い掛けた浜田を無視し、梶山に向かってぎゃあぎゃあとわめいた梅谷に、梶山はご愁傷様と言ってやることしか出来なかった。

「それよりほら、仕事すっぞ」
「けっ!仕事人間め」
「まぁまぁウメ、ほらもう一杯」
カウンターの定位置に着いた梶山に続いて、同じく定位置に着いた梅谷に新しい缶ビールを差し出した浜田は、視線で梶山に話を続けるように促した。

それを受けて、茶封筒の中に入れていた書類を数枚取り出し、夜の間の出来事をかいつまんで説明する。
本来は浜田も参加するはずだった作戦だったが、彼が抜けてしまった為に幾つか変更点があり、それらの細かい案件を報告し終えると、浜田は安心したように息を吐いた。
「じゃあ、俺が抜けた事以外は計画通りだったんだな」
「おう!しこたま感謝しろよ!」
更にアルコールが入った事で声が大きくなった梅谷に、浜田は幾分神妙な顔で頷いて見せた。

「ホント、二人にはいくら感謝しても足り無ぇよな」
「そう思うんなら、後の報告書作成は任せたからな。俺等はもう寝る」
一度出していた書類を戻した茶封筒で浜田の額を叩くと、驚きと不満が混じった声が上がったが、梶山はそれを無視すると、だんだん絡み酒になってきた梅谷の襟足を捕らえた。
「まだ気は抜け無ぇんだ。俺等にも休息は必要だ、ってぇ話。お前も、泉君しっかり看病してやれよ」
言うまでもないかも知れないけれど、と続けると、浜田はいつもの困ったような笑みで小さく頷いた。
「二人に迷惑掛け無ぇように、な」
自嘲ではない言葉に、梶山はニヒルな笑みを返し、駄々をこねる梅谷を引き摺ってその場を後にした。



言われたとおり浜田のベッドに仰臥した泉は、久し振りに見上げた天井に向かって溜息を零した。
梅谷や梶山が店に戻ってくる前に直属の上司に連絡を入れ、怪我の事を伝えて休みを取った。
驚いた事に、公安に勤務している西広から先に連絡が入っており、自分が監禁の上暴行を受けていた事が事前に伝わっていて、休みは二つ返事だった。
西広が公安勤務だとは知っていたが、まさか同じ場所に潜入しているとは知らず、あまつさえどうも良いように使われたようだと知って混乱した。

直情径行を自認してはいるが、それほど目立った動きをしたつもりは無かったのに、西広に言わせて見れば潜入経路からして目立っていたそうだ。
上司に連絡を入れた後一言礼を言おうと電話すると、西広はそう言って笑った。
あっけらかんと社長室への侵入も自分の仕業だと白状した西広も、もうCSS社から退き、これからは公安と警察の連携捜査に協力する予定なのだという。
ただ、その後には公安も退職し、三橋の元にアドバイザーとしての就職を決めていると聞いて驚いた。
何故と問うと、照れながら身を固めるつもりだから、危険を伴う仕事から手を引くのだと西広は笑った。

記憶を失っていた間、自分も成長していたが周りも同じように成長し、自分の道を歩いている事が羨ましかった。
記憶を取り戻した事で、不意に高校生に戻ってしまったような気分になったが故の感傷だと分かっていても、取り残されたような心地になってしまう。
胸の底のわだかまりを吐き出すように深く息を吐くと、泉は目を閉じた。



店の中に散乱した缶や瓶を片付け終え、梶山に言われた仕事を片付けるべく自室に上がると、寝室のドアが薄く開いている事に気付いて、浜田はそっと中を覗いた。
ちゃんと治療を受け、処方された痛み止めを飲んでいた所為か、泉は先ほど自分が提示したベッドの提供を素直に受け入れてくれていた。

穏やかな呼吸を繰り返しながら眠る姿を近くから見下ろしていると、胸に溢れた安心感が、全身を温めてくれるようだった。
何度も手放さなくてはと思っては手に入れ、取り戻した大切な存在──
浜田はベッドの脇にしゃがみこむと、そっと泉の髪に触れた。
そして何度も優しく頭を撫でると、髪の隙間から顔を覗かせた額に口付けた。
「お帰り、いずみ……」

漸く心の底から放つ事が出来た言葉は、一粒だけ零れた涙と共に泉の上に降り注いだ。





ベッドが軋む気配に目を開けると、ダウンライトの灯った部屋の中、ベッドの縁に膝を掛けた浜田が窓際に手を伸ばしていた。
こちらが目覚めた事に気付いていない浜田は、カーテン代わりに掛かっているブラインドを閉めると、そのままその場を離れようと動いた。
刹那、目覚めたばかりだというのに我ながら驚く程素早い動きを見せた腕が浜田に向かって伸び、ラフな格好をした浜田のシャツの裾を抓んでいた。

「起きてたのか?」
真剣に驚いたのだろう、潜ませながらも固い声にこちらも怯みそうになったが、何とか口元に笑みを履く事が出来た。
「今目ぇ覚めた。お前ももう寝んの?」
かすれた声の問い掛けに、浜田もまたぎこちないながらも笑みを浮かべ返した。
「もうそろそろ日付が変わるからな」
薬を飲んだ所為もあるだろうが、思いもよらない時間を眠って過ごした事に驚いていると、浜田が優しい仕草で掛け布団を直し、そのままどこかへ行こうとした。

浜田の住まうこのフロアに、新しく買い置いたのでなければここにしかベッドが無いはずなのに、と、泉は掴んだ手に力を込めた。
「今詰める」
「は?」
寝転がったままベッドの上をはいずって移動し、浜田のためのスペースを空けた泉は、誘うように空いたスペースを叩いた。

「早くしろよ。温まってたのに冷えちまう」
わざと言葉に苛立ちを滲ませて言うと、浜田はためらったものの、大人しく泉が空けたスペースにもぐりこんだ。
壁際に寄り、浜田の方を向く為に横臥した泉を、浜田の緊張を孕んだ目がじっと見つめていた。
「俺が寝ちまっても、どっか行くな」
浜田が考えていそうな事に先手を打つと、どうやら大当たりだったらしく浜田がびくりと肩を強張らせた。

「でも、泉怪我してんだから、このベッドで一緒に寝るの辛いだろぉ?」
半ば泣き言を洩らすような気配で言い募る顔を半眼で睨みつけると、泉は浜田のシャツの胸倉を掴んだ。
「俺と一緒に寝るのはイヤなのかよ」
「イヤじゃねぇよ!むしろ嬉しいけどさ……!」
「なら」
更に言い訳を紡ごうとした浜田の機先を制し、泉は布団の中に頭を埋めるようにして浜田の肩に額を預けた。

「もう大丈夫なんだ、って、俺を安心させてくれよ」
軋るような呟きは、こんな情けない事を願わなければならない自分の不甲斐なさと、こんな事を頼める相手が居る僥倖への嬉しさがない交ぜになって、喉の奥で紡がれた。
くぐもってしまった声が浜田に届いたかどうか分からなかったが、体中の傷に触れないようそっと背後に回された腕の温もりに、泉は静かに目を閉じた。

「泉こそ、もうどこにも行くな」
不意に耳を擽った言葉に、泉は閉じた目を大きく見開いた。
背中に回された腕に微かではあったが力が込められて、逞しい胸に引き寄せられる。
「俺の側に、ずっと居てくれよ」
まるで叶わぬ願いを口にするかのような切なさに、泉は言葉を失ってしまった。

動かす事のままならない左腕を動かし、浜田の胸に縋りつくようにして自らもっと近付くと、浜田もまた何も言わずに泉の体を抱え込むようにして抱きしめた。
お互い無言のまま、互いの温もりに包まれる心地良さに酔いながら、穏やかな眠りに落ちて行く。
窓の外、また降り出した雨の気配にも邪魔される事の無い、深く安らいだ眠りの海に……








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(2009.10.04)
なかなか筆が進まなかったのに、いちゃつかせ始めたら早かったです(笑)