シャンソン 7 




『では次のニュースです。今日、三橋コーポレーションはCSSジャパンとの正式な提携を発表し……』
「ちょっと音量上げて良いか?」
「へ?あぁ、良いよー」
阿部の問い掛けに、どこか間の抜けた印象のある店主、浜田の声が応じたが、リモコンを差し出してきたのは別の人物だった。

「お前、折角皆で騒いでんのに、一人で何ニュースなんか見てんだよ」
悪態を吐きながらも持っていたリモコンを手渡した泉は、不機嫌を装う為に眉間に皺を寄せながら、カウンターに座る阿部の隣に自分も腰を下ろした。
「……まだごたつきそうなのか?」
「そりゃな。いくら次期会長候補の言葉でも、社内の不平全部を平らげるには時間がかかるさ」
吐息と共に愚痴を零しながらも、その顔には何かを企んでいるとしか思えない不敵な笑みを掃いた阿部は、店主である浜田から供された冷えたビールを呷った。
その言葉に聞き入っていた泉は、自分も持っていたビールに口を付け、苦味のある液体を飲み下した。

泉と西広がCSS日本支社から脱出してから約二ヶ月、受けた傷も少し痕を残すものの、大方回復した。
その快気祝いと西広の結婚祝い、そしてついでに新年会も兼ねて、野球部や応援団のメンバーと集まって騒ごうという話が盛り上がり、懐かしい顔触れの多くが集まった。
そう狭いわけではないのに、十人を超えるメンバーが集まると流石に少し手狭だったが、皆その狭さも楽しんでいるようで、ずっと笑い声が絶えない。

そんな様子に目を細めながらも、泉は席を立った。
「どこ行くんだ?」
「ベンジョ」
手にした携帯を弄くる事に集中しているだろうと思っていた阿部の問い掛けに素っ気無く答えると、泉はわいわいと騒ぐ仲間達の間をすり抜けながら、店の際奥、上階へと続く階段を隠している扉を開けた。



屋上へと続く階段を昇り切り外へと続く扉を開けると、冬の冷たい空気が薄着をしている体を一瞬にして冷やしてしまうが、泉は小さく身震いしただけだった。
アルコールのもたらす熱りが少しづつ抜けて行く中、唯一周囲の風景を見渡せる東側に向かうと、転落防止用の柵に腕をかけて上半身を預けた。

背の高いビルが無数に林立する景色はいつもと変わらないのに、正月という雰囲気に街全体がすっぽりと包まれているのか、普段とはやはりどこか違う気配を漂わせた景色をじっと見つめていると、背中に何かが掛けられて寒風が遮られた。
「んな薄着してっと、今度は風邪引くぜ?」
「そんなヤワじゃねーよ」
振り返りもせず切り返すと、相手──浜田は、いつもの困ったような笑みを口元に浮かべて泉に並んだ。

これも用意してきたらしいビールの缶の一つをこちらに渡すと、もう一本用意していた自分用の一本のプルトップを開けて呷り、浜田は満足そうな息を吐いた。
「やっぱビールって最初の一口が一番ウメーよなー」
昔から変わらない気軽さが嬉しくて、泉は柔らかい笑みを刷いた。

「俺、仕事続ける」
穏やかに囁いた言葉に、もう一度缶を呷っていた浜田の動きが止まった。
CSS社の行っている人身売買等の不法行為は幾つか暴く事が出来たものの、それが全てでは無い事を先日の騒動に関わった者や、阿部と三橋は知っている。
それでもその一角を崩すため、三橋コーポレーションには無理を頼み、掴んだ情報を隠し球にCSS社にTOBをかけ、ニュースにあった提携という名の買収を行った。

それだけで日本での活動にいくらか歯止めが掛かるはずでは在るが、全て虱潰しに潰すのは無理だろう。
浜田達もそれを理解していて、まだ今の仕事を辞めるつもりはない事を、泉は確認していた。

怪我を理由に長期休暇を取り、今後の事をこの数日ずっと考えていたのだが、漸く腹が決まった事を口にすると、途端に心が揺らいだ。
休んでいる間、ずっと浜田の部屋で世話になっていた。
その間の心地良さに後ろ髪を引かれる気持ちが、それを置いてでも自分に出来る事をしようと決めた筈の決心を揺らがせる。

今ここで浜田に行くなと言われれば、あっという間に気持ちを翻す事も出来るだろうに、浜田は何も言わずに缶から口を離しただけだった。
何を考えているのだろうかと考えを巡らせてみたが、どこか遠くを見つめるような目からは何も読み取る事が出来ず、泉は耐えられなくなって目を逸らした。

「ま、仕事続けててもお前ンとこに遊びに来る事くらいはできるし、そう変わらねぇよな」
肩に掛けられていた浜田のダウンジャケットに袖を通しながら、自分を奮い立たせる為にそう口にすると、これ以上未練を引き摺らないように踵を返した瞬間、不意に強い力で腕を引かれた。
何が起こったのか理解した時には、もうすっぽりと浜田の腕の中に囚われてしまっていて、泉は目を丸くした。

「仕事に復帰しても、ここ出て行くことねぇだろ」
今まで聞いた事の無い搾り出すような声音に驚いていると、体に回された腕に更に力が込められて泉は小さく呻いた。
「いろんなこと思い出して嫌かもしん無ぇけど、俺は泉を手放したく無ぇよ」
呻いた事に気付いたのか、腕の力を弱めて少し体を離した浜田は、真直ぐに泉を見つめると小さく鼻を鳴らした。

「泉……ずっと、俺の側に……一緒に居てくんねぇか?」
酔いの所為なのか寒さの所為なのか、鼻を赤くした浜田の真直ぐな言葉に、泉は不覚にも涙が滲みそうになって慌てて顔を伏せた。
その途端に自分の顔にも熱が上がってきて、鏡を見るまでも無く、顔全体が赤く熱ってしまっているのを感じた。
けれど、次の瞬間には怒りに似た激しい歓喜の感情がわきあがってきて、持っていたビールの缶を落としてしまう事にも構わず両手で浜田の襟元を締め上げると、高いところにある浜田の目を見上げた。

「テメェ、俺は確かに聞いたからな?」
「はいっ?」
泉の態度の急変に対応しきれず、怯えたような顔をした浜田の様子に小さく噴出すと、険しい表情を装う事を止め、首元を締め上げていた手を解き、浜田の肩に回した。
「やっぱ、俺の戻ってくる場所ってのはここなんだな」

まだ少し背伸びをしないと辛い事への不満は飲み込んで、泉は伸び上がると自分から浜田の唇に口付けた。
一瞬面食らったような顔をした浜田だったが、すぐに主導権を奪い、泉が思わず怯んでしまうほどの激しさで翻弄した。



「戻ってこない、ね」
「あ?誰が……って、あぁ、泉と浜田か」
少しだけなら、とアルコールを摂る事を許した三橋は、阿部の言いつけをちゃんと守っているのか、ほんのりと色づいた頬をしているものの、意識ははっきりとしているようで、カウンターに座っている阿部の傍らに立つと小さく頷いた。
「泉君と浜ちゃん、遅い……」
「気にすんな。あいつ等はあいつ等で宜しくやってんだろうからな」

呷ろうとしてグラスを持ち上げた瞬間、その軽さに中身が無い事に気付いて、阿部は小さく舌打ちしたが、三橋から心得ているかのように缶ビールが差し出されて、阿部は頬を緩めた。
「サンキュ」
小さな礼に、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた三橋は、阿部の隣の席を陣取ると、その左の肩にことりと頭を預けた。

「皆、幸せな一年に、なると良い、ね」
段々と声が小さくなっていることから、相当眠いのだろうと判断しながらも、阿部はそのぬくもりにもっと酔っていたくて動かなかった。
「そうだな……俺は今も結構幸せなんだけど?」
問い掛けるように呟きながら傍らを覗き込むと、三橋はすでに気持ち良さそうに寝息を立てていて、阿部は耳ざとくやり取りを聞いていた田島に大笑いされた。





表通りから脇に伸びた路地の奥、昼夜問わずうらびれた気配の漂う場所にその店はある。
店の名前はキャッツアイ。
許された者のみが知る事ができる喫茶店である。

「なぁなぁはまだー。オレンジジュースちょーだい!」
「あのなぁ田島、小学生じゃねんだから、もっとちゃんと喋れ」
カウンターに座った大柄な男に向かって、泉は眉間に皺を寄せて見せたが、今や野球界に無くてはならないとまで言われているプロ選手は、慣れた様子で聞き流していた。

メジャーを目指している田島は、これから花井と英語の特訓なのだという。
その待ち合わせにこの店を使っているのだが、待ち人が予定より遅れていて少々不機嫌なのだ。
泉が用意して差し出したオレンジジュースのグラスに口をつけながら、子供のように唇を尖らせた田島に向かって、泉の横合いからホットサンドが差し出された。

「これでも食べて気長に待ってなって。花井のことだからすぐに来……」
「悪ぃ田島!遅くなった!」
浜田の言葉に重なるようにして、大きく開かれた扉から飛び込んできた花井の大音声が響き、店に居た三人の視線が集中した。
その視線に花井は恥ずかしそうに言葉を失っていたが、待ちかねていた田島にあっという間に店の外にさらわれてしまった。

「田島が来ると、なんか台風一過って感じだな」
カウンターに残されたグラスと、食べずに持ち帰ったホットサンドの乗っていた皿を片付けながら零すと、傍らの浜田が可笑しそうに笑った。
「西浦の奴等が来るといつもこんな感じじゃねぇか。賑やかになって儲かるから、俺はむしろ嬉しいけど」
そういってまた笑みを深くした浜田に、泉もまた口元を綻ばせた。

一緒に住むようになってから、こうして二人で笑い合えることが多くなった。
少しづつ、二人で何かを取り戻し、そして新しく築いて行くようなこの感覚は楽しい。
なんでもないことの積み重ねに幸せを感じるようになるとは思いもしなかったと感慨に耽っていると、来客を知らせるドアのカウベルが鳴り響き、条件反射のように二人はドアを振り返った。

「いらっしゃいませ」
入ってきた若い男は、虚を付かれたような顔で一瞬ためらいを見せたが、切羽詰った様子で店の中に入り、後ろ手に扉を閉めた。
「……ここ、キャッツアイなんだよな?」
戸惑いを隠しきれない男に、二人はニヤリと笑って見せた。

「ああ、四匹の猫があんたを助けてやるよ」


fin.







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(2010.01.02)
長く時間が掛かりましたがこれにて終りです。長々とパラレル話にお付き合い下さり、ありがとうございました!