手に手を取って




暑い夏の真っ最中。
野球部の面々は、この夏の大会の好成績のお陰で優先的に使えるようになったグラウンドを目一杯使ってのランパス練習に余念が無い。
ただ、一人チームメイトを欠いてしまっているため、どうしても二人一組では一人あぶれてしまう。
それなら三人一組で、というところだが、この暑い中、少しでも休憩を取る時間を求めたいナインは、あぶれた一人に休憩する権利を与える為に、わざわざ二人一組でローテーションを組んだ。
今そのあぶれてしまった一人になった西広は、休憩のために少しでも涼しいベンチに入ると、肩で息をしながら椅子に座り込んだ。

「お疲れ様ー」
すかさず飛んできた労いの言葉に閉じていた目を開けると、大きな麦藁帽子を持った篠岡が、自分のすぐ脇で笑っていた。
田島家寄贈のその帽子を持っているところを見ると、彼女もグラウンド周辺の草むしりを一段楽させたのだろう。
「篠岡こそお疲れ様」
何とか落ち着き始めた呼吸で一息にそう言うと、篠岡の笑顔は更に明るいものになる。

その笑顔を見ながら可愛いな、などという感想を抱く間も無く、次の休憩権を行使する巣山がベンチに入ってきて、西広は泉とペアを組んでランパスを始める。
夏休み真っ最中の、容赦なく照り付けてくる太陽の元、苦しいけれど楽しみでもある練習を続けながら、何故か胸が苦しいような気がして、西広は呼吸を整える事に集中した。

午後になり、午前中は病院に行っていた阿部がグラウンドに姿を現した。
美丞戦で負った怪我の為、練習に参加する事は出来ないが、家でじっとしていられない性質だからと、毎日姿を現し、控え捕手の田島にアドバイスをしたり、投手の三橋に細かい練習の指示を出したりする合間、今までの試合のスコアブックをチェックしたりして、西浦のウィークポイント探しに余念が無い。

「おい、西広!」
「えっ、はい?!」
そんな阿部に、ベンチ近くを通りかかった時に突然呼び掛けられて、西広は思わず肩をびくりと震わせた。
「……んなびくつくなよ……」
「ごめん、急に声を掛けられたから、びっくりしちゃって……で、何?」

地声の大きさで人を怯えさせている事を気にしている、案外気の小さい所のある捕手に近付くと、篠岡と二人、頭を突き合わせてスコアブックを見ていた阿部は、持っていたシャーペンの先でそれを指し示した。
「美丞戦の時の状況をちょっと確認。俺の記憶とスコアと篠岡の記憶で食い違いがあんだよ」
「ごめんねぇ。お互いばたばたしてた時だから、分かんなくって……ビデオを見に行くのもちょっとね」
申し訳無さそうな篠岡の声に、西広はふと違和感を感じた。けれどすぐに阿部にせっつかれて、問題の箇所に見入った為、そちらに意識を集中させた。

問題はすぐに解決して、西広はすぐに練習に合流した。
「サンキュ、西広」
「ありがとねー」
自分に向かって手を振る二人に見送られて練習に戻りながら、西広は胸に走った小さな痛みに眉根を寄せた。
それからずっと、その日の練習が終わるまで、西広は胸の痛みに悩まされ続けた。

原因はわからないままだし、しつこく続くその痛みに困り果てたが、練習の厳しさは全く変わらず、夕方になる頃にはいつも通り、空腹のために身の内から情けない音が響く。
いつものおにぎり時間になり、部員全員が篠岡が用意してくれているであろうおにぎりを期待して、花井の号令を待ってベンチを振り返った時、そこにはおいしそうなおにぎりも、プロテインも、牛乳すらなく、ただ阿部が黙々とダンベルで腕を鍛えている姿だけがあった。
「あれー?しのーかはー?」
田島の声に阿部が顔を上げて、初めてその不在に気が付いたらしく、ダンベルをしながら読んでいたらしい、膝の上に広げた野球雑誌から顔を上げた。

「あれ?そういやいねぇな……」
「相変わらずなんだからなーもー。しょうがない、探しに行こうか」
不思議そうに呟いた阿部の言葉に、栄口が呆れながら言うと他の部員は同意して、全員でぞろぞろと食べ物と飲み物のある筈の顧問の志賀の元に行く為、グラウンド脇に停めてある自転車の元に行こうとしたとき、最後尾を歩いていた西広は、ベンチ脇に置いてある物置のドアが少しだけ開いていることに気付いて、ふと足を止めた。

通称しのーか部屋とも呼ばれるそこは、篠岡が時折休息を取ったりするのに使う部屋で、普段は殆どぴったりと閉められている。
けれど、中に篠岡が居る時は別だ。
中で着替えるとき以外開けられているのだが、この三センチほどの中途半端な開き具合がどうにも気になった。
「どうした、西広」
足を止めた西広に気付いた花井が声をかけてきて、西広は思わず中が見えないしのーか部屋を指差した。
「開いてるんだけど」

「ええ?」
「何?しのーか中にいんの?暑くね?」
田島の言葉に全員がはっとして、西広は急いで扉を開けた。
元はただの物置に過ぎないそこは、やはりサウナ状態になっていて、開けた途端外気より幾分熱を帯びた空気が押し迫ってくる。
「篠岡?」
声をかけても返事は無い。けれど足元に視線を落として見ると、いつものジャージ姿の篠岡が横たわっている。

「しのーか!?」
「おい、だれかシガポ呼んで来い!」
「ほえ?」
男共が慌てふためく中、惚けたような声がして、横たわっていた篠岡が体を起こした。
「へ?」
「し、しのーか?」
「大丈夫?」
「何がぁ?って、ええ!こんな時間?!ウソ!」
寝惚けたような声が一変して、ナインの背負う夕焼け空に気付いた篠岡は、横たわっていた枕もとに置いていた携帯で時間を確認して真っ青になった。
「おにぎり!」

『へ?』

嫌な予感に全員が声を上げ、篠岡は申し訳無さそうに彼等の顔を見渡した。
「ごめん……できてない……」
蚊が鳴くような細い声に、全員の顔に落胆の色が浮かぶ。
「ご、ごめんねぇ……」
篠岡の泣きそうな声にかぶさって、幾つもの腹の虫が鳴き始める。

皆分かっている。篠岡がどれ程疲れているかを。
夏休みに入り、ほぼ一日ずっとつきっきりであれやこれやと部員のフォローに入り、備品の買出しや、飲み物、食べ物の準備と走り回っているのだ。それには本当に頭が下がる思いで、時々拝みたくなるくらいだ。
けれど、現実問題として今ここにおにぎりが無いということは、かなり辛い出来事だった。

「じゃあ、皆で作ろうか」

明るい声で言いながら、最前列で篠岡と向かい合った西広は笑った。
「篠岡、さっき顔色悪かったもん、全部任せちゃうのは申し訳ないからね、皆で自分の分のおにぎり作れば、それだけ早く食べられるし。どう?」
床にぺたりと座り込んだ篠岡に向かって手を差し伸べた西広に、ナインは乗り気になって頷いた。
「そうだよな。あ、じゃあさ、全員で2個づつ作って、一個トレードってのはどうだ?」
「いいなそれ!」
「田島ぁ、お前食い物で遊ぶなよ?」
巣山の提案に乗った田島の言葉に花井が釘を刺して、一同笑いに包まれる。
「ほら、篠岡も行こう」

西広が、差し出した手を促すように軽く突き出すと、篠岡は青くなっていた顔に笑みを浮かべた。
「ありがとう、西広君」
言いながら、篠岡が西広の手を取ってくれたその時、西広は今日の午後、ずっと胸を苛んでいたちくちくとした痛みが消えたのを感じたが、すぐに自分の左手に添えられた篠岡の柔らかい手の感触に、全神経が集中していた。

結局、動けない阿部と、その話し相手(というか阿部の許可が下りなかった)に三橋を残し、残りの部員全員でおにぎり製作に向かい、手分けして用意したそれを持ってベンチに戻り、全員揃っていつもの間食を楽しんだ。





冬の午後の暖かな光の中、そんな事を思い出して、西広は思わず笑ってしまった。
「何?どうかしたの?」
「何でもないよ。ちょっと思い出し笑いしただけ」
「思い出し笑いだって。パパは何を思い出してたんだろうね〜」
二人の新居で、ソファに腰掛けた彼女は、その腕に抱いた新しい家族にそう言って笑いかけた。
「別に変な事じゃないよ。高校の頃の事思い出してたんだ。今日皆が来るからかな」
「でも良く皆揃ったよねー田島君なんか特に」
二人とも視線は新しい家族に向けたまま、懐かしい面々の顔を浮かべて小さく笑った。

「この子もいつか、野球部のマネージャーとかやってくれるかな」
西広の言葉に、母になった彼女は夫を振り返った。
「女子野球っていう選択肢もあるんじゃない?ソフトボールも」
昔と変わらず、大きな目を輝かせる彼女の隣に腰掛けると、西広は二人ごと抱きしめた。

「それもいいけど、俺はやっぱりマネージャーかな。やっぱりお母さんに似て欲しいから」
真直ぐに目を見て言うと、腕の中の妻は顔を真っ赤に茹で上げた。
その時、来客を知らせるチャイムが鳴り、西広が立ち上がりかけると、鍵を掛けていなかった玄関扉が大きく開け放たれ、知り合った頃に比べるとかなりの大柄になったプロ野球選手が、遠慮も何も無く両手に花束を抱え、先頭切って飛び込んできた。
「西広ー!しのーかー!姫見に来たぞー!俺等の姫ー!」

「田島ぁ!挨拶も出来ねぇのかお前は!それからもう篠岡じゃ無ぇって何遍言えば……」
「上がるぞー」
「凄ぇ、良くこんな大きな家建てられるな……俺絶対無理」
「こ、んばんわ……」
「何をしたらこんなに儲かるわけ?」

皆口々に何かを言いながら問答無用で入り込み、出迎えた三人に相好を崩した。
「いらっしゃい」
「皆いらっしゃい!ほら、西広姫ちゃんですよー」
『おおー』
西浦高校野球部の創部メンバーの中で、まだ唯一の既婚部員である西広の元に生まれてきた新しい命に、また、その妻となったマネージャーの篠岡の晴れ晴れとした笑顔に、休日をやりくりして集まったメンバー全員は、感嘆の声を上げた。

「かっわいーなー!ほら、目ぇ開けた!ちっちぇー!」
「声の音量下げろ田島。姫ちゃんびっくりすんだろが」
言いながら、花井があまり身長差の無くなった田島の頭を軽く小突くと、それが見えているかのように、赤ん坊は可愛らしい笑顔を浮かべた。
「ホント可愛い〜!」
「お前が言うと犯罪者みたいだな」
「阿部ヒドイッ!でも、西広もしのーかもおめでと」
「こんだけ沢山のおっさんに祝われる女の子も珍しいかもな」
「お、おっさん……」

懐かしい面々が、口々に喋る中、むずがるどころかゆっくりと瞼を下ろしていった姫を寝かし付けに行った篠岡を除いて、まだ明るい時間にも関わらず、酒盛りの準備を始めながら、男達は新米パパの肩を次々と叩いていった。
「どうよ、お父さん。将来姫ちゃんがこの中の誰かと結婚するとか言い出したら」
泉が肩を組みながら囁いた言葉に、西広はアルカイックスマイルを浮かべた。
「俺と千代を、お義父さん、お義母さんと呼べるなら許すけど?まぁ、恋に落ちる瞬間なんて、誰にも予測できないからね、さっき田島君と花井君を見て笑った時にもう始まってるかもよ?」

そう言いながら、自身が自覚したその瞬間、篠岡の手を取った瞬間をもう一度思い出して、西広は「この中からなら〜」とうそぶいて見せると、戻ってきた篠岡が、いきさつを聞いて少し頬を染ると笑顔で言った。
「そうだよね〜私も寝過ごしておにぎり作れなかった時に、辰太郎君が皆で作ろうって言ってくれた時だったもん」

『ごちそうさま……』

トマトのように顔を茹で上げた西広以外の面々は、顔を見合わせると低くそう呟いた。





雪月さん87○リク。西x千代。
八割書けた!と思ったところから四割くらい増えました(笑)姫ちゃんは文字通り西浦ーぜのお姫様になるかと。
テーマは恋に落ちる瞬間。(ブハッ!恥っ!……すみません)とんでもなく不意に、なんでもないだろう事で、人はそれに落ちて行く。