WAKE UP

- Side-M -

「やっぱさぁ、勢いって必要だよな」
昼休み、賑わう教室の中で、田島君がポツリとそう言った。

「ってか、いきなり何?」
飲み干した牛乳のパックをぐしゃりと潰した泉君が聞くと、田島君は持っていた購買のサンドイッチを一気に口の中に放り込んで、それを飲み下してから答えた。

「いや、それがさぁ、ぜんっぜんチャンスがねぇの。もう一ヶ月くらいお預けでさぁ」
「だから何の」
「花井の返事」
田島君の言葉に、泉君と俺は合点が行き、一緒に「おお」と声を出していた。

「なになに、何の話?」
俺と田島君の机を寄せ合い、泉君と一緒に椅子だけ持ち寄っているハマちゃんが訊いてくると、泉君は「お前は関係ねぇよ」と一蹴して、田島君に向かって身を乗り出した。
「何だよ。お前、まだ返事保留かよ」
少し呆れたような顔で泉君が言うと、田島君がちょっと大げさに溜息を吐いた。

「だぁってさぁ、あいつ、練習ん時は何でもねぇのに、それ以外の時は俺と二人になんのすげぇ嫌がんだよなぁ……俺もさ、無理矢理聞き出すのもちょっと違うと思うし」
「へぇ、お前もちゃんと考えてんだな」
関心しきりといった感じで泉君がいうと、田島君はちょっと怒ったみたいだった。
「ちゃんとって何だよー。まぁ、あの時に答えは聞いたようなもんだから待てるけど、そうじゃなかったら待てねぇよ。ゲンミツに」
言いながら、どんどんテンションを下げて、それと一緒に机にだらりと身を投げ出していく田島君に、俺はどう声を掛けて良いのか分からなかった。

田島君が、花井君から聞きたい事を、俺も泉君も知っていた。

夏の最後の試合の後、俺と泉君、栄口君と阿部君の四人は、その現場に居合わせ、田島君の告白を聞いてしまった。
俺は、人の告白を聞くのも初めてだったし、それが良く知る男友達同士だと言う事にショックも受けたけど、その前から、「俺、花井の事好きなんだ」と言っていた田島君の気持ちを聞いていた所為か、隠れて聞きながら、一所懸命田島君を応援していた。

その後、うやむやになっちゃった告白の答えを、田島君はずっと待ち続けていて、俺も、なんだか一緒に悲しくなり始めた。
「何だ、三橋。どーしたー?」
俯いてた俺を、机の上に寝そべるような感じになった田島君が、下から見上げながら声を掛けてくれて、俺は慌てて「何でもない」と首を振った。

「まぁ、確かに。その件に関しては勢いは必要だな。下手に時間があると、いろいろ揺れちまうし」
泉君が、言いながらハマちゃんにちらっと視線を向けたのを見て、俺はちょっと羨ましくなった。
実はハマちゃんと泉君が付き合っていると言う事を、俺は偶然知ってしまった。

本当に偶然、少し遠いスポーツ洋品店に買い物に行ったとき、二人で歩いているところを見かけて声を掛けようかどうか迷っていたら、ハマちゃんが泉君にキスするところを目撃してしまった。
二人のホントにすぐ後ろにいた俺は、ばっちり見てしまい、雑踏の中、ほんの一瞬の幻かと思ったくらいの早業を見せてくれたハマちゃんが、それよりも早い泉君のパンチで吹き飛ぶのを、声も出せないくらいの驚きと一緒に見ていた。

その後、二人に誰にも言わない事を誓ったから、誰にも言った事は無いけど、二人からは時々内緒の相談を受ける事もあって、少し頼られている感じが、凄く嬉しかった。
「その点、三橋は何の心配も無くて良いよな!」
田島君に急にそう言われて、俺は変な声を出してしまった。
「な、何が?」
「だってさ……」
「田島、花井が来てるぞ」
「何!」
理由を言おうとしてくれた田島君に、泉君が不意に声を掛けて、確かに教室の扉の向こうから顔を覗かせた花井君を見つけた田島君は、俺を置いてけぼりにして走って行った。

「た、田島君、今何が言いたかったの、かな……」
「気にすんな、三橋。どうせあいつの事だから、たいした事じゃねぇよ」
「そうそう、あいつの頭ん中、野球と花井とヤラシイ事で一杯だろ」
泉君とハマちゃんが、声を揃えてそう言っているうちに、予鈴が鳴り始めて、俺は半分程食べられていなかったクリームパンを、急いで食べた。



午後は、昼に聞きそびれた田島君の言いかけた事を訊こうかどうか迷ったり、手間取ったり、俺の何が心配ないのか色々考えているうちに授業が終わっていまい、あっという間に放課後になった。
「行くぞ三橋ぃ!今日は俺もブルペンで受けるからな!」
「う、うん!」
終礼が終わると、すぐに田島君はそう言ってカバンの持手に腕を通しながら、真後ろの席の俺に声を掛けてくれた。やっとボールに触って、投げられる時間になった事が嬉しくて、俺も野球に必要な物と、財布と携帯と空のお弁当箱しか入っていないカバンを持つと、泉君と三人で部室に向かった。
部室に行くまでに、田島君にお昼の事を訊こうと、俺が口を開きかけた時、聞き慣れた低い声が俺達を呼び止めた。

「花井ー!」
「うぉわっ!お前、正面から飛びつくな!」
低い声の主の隣に立っていた花井君に、田島君が抱きつき、のけぞった花井君は倒れそうになった体をドアの枠を掴んで支えて、悲鳴を上げていた。

「お、ま、え、はーっ!自分の体重がどんだけ増えたか考えろ!」
「えー?そんなに体重は変わってないぜ?身長はちょっと伸びたけどな!」
「ほーぉ、三キロが変わってない……赤ん坊一人分がねぇ」
花井君の額に青筋が走ったのを見て、ちょっと怯んだ田島君は、手を離して花井君を解放した。と思ったら、すぐに後ろに回りこんで、今度は背中におぶさった。

「諦めろよ花井。うちの四番は五番から離れたく無いとよ」
低い声の持ち主──阿部君が、おもしろそうに口元を撓めた。
「そ、俺のだからな。ゲンミツに!」
「はいはい、誰も取りゃしねぇよ」
泉君が呆れたみたいに呟いていると、水谷君も合流して、結局六人で部室に行く事になった。

歩きながら、今日のおにぎりの中身の事とか、もうすぐ始まる中間テストの事とか喋っていると、俺は、この頃よく起こる、かすかな動悸を感じて、無意識に胸元に手を当てて、シャツを握った。
「どうした三橋?」
「ぅへ?」
隣で、田島君を背負った花井君と喋っていた阿部君が、急に俺の方を向いて声を掛けてくれた。その時、心臓がどきんと跳ねて、俺は胸の手に力を込めた。

その途端、阿部君の表情が一変して、真っ青になった。

「どうした三橋!気分が悪いのか?胸が痛いのか!?」
あんまり真剣な顔で問い詰められて、俺は言葉も出ないほど驚いた。自分で無意識にやっていた事に、これほど反応されると思わなかったし、そのどちらでもない事を伝えようとしたけど、動転した気持ちが鎮まらなくて、俺は単語にならない言葉を口にするのがやっとだった。

「あれー?皆揃って何やってんの?」
沖君、西広君、巣山君、栄口君が廊下の途中で立ち止まった俺達に気付いて、声を掛けて来てくれた事で、俺はちょっと気持ちを立て直す事が出来て、息を吸い、阿部君の顔をみて何とか口を開いた。
「何、でも無いよ!俺は元気だし、今日も投げられるよ」
俺の額に手を当てて、熱が無いか調べていた阿部君は、ちょっと怒ったような顔で、眉間に深い皺を刻んだ。

「ホントか?」
「う、うん。今日は、阿部君にも、田島、君にも、投げるよ」
「本当だろうな?」
もう一度念を押されて、俺はぶんぶん音がするくらいの勢いで首を縦に振った。
「ああ、分かった分かった。もう振んな。首がおかしくなるぞ」
呆れたように、俺に右の手の平を向けて首振りを止めさせた阿部君は一瞬、ふわりと微笑んだ。

その瞬間、俺の目はシャッターを押されたカメラのように、阿部君の笑顔を焼き付けて、ほんの一瞬の出来事に、もともとあんまり回らない頭は完全停止してしまいそうだった。
もっと見ていたいと思った時にはもう、いつもの顔に戻っていて、花井君に練習の内容を変更するように詰め寄っていた。

ふと、視界の端の方で、泉君と田島君が顔を見合わせて笑ったような気がしたけど、その後は、阿部君の笑顔と、練習のハードさで思考回路は全然働いてくれなくて、田島君の言葉はどこか彼方へと飛んで行ってしまった。



試験週間の真中にあった日曜日、その日はもう恒例になってきた、家での勉強会があって、野球部の皆が集まった。
まだ少し暑いけど、窓を開けておけば冷房を入れる必要のない時期になっていたのに、十人も一つの部屋に集まっていると、さすがにそれでは我慢できなくなってきた。

冷房を入れて、少しづつ下がっていく室温に、みんなの顔が緩んで行くのを見ながら、俺はちらりと隣に座って、俺の数学を見てくれている阿部君を見た。
「出来たのか?三橋」
あぐらをかき、両手を後ろに付いて首を仰け反らせた阿部君は、クーラーから出てくる冷たい風を受けながら、こっちをちらりとも見ずに声を掛けてきた。まるで超能力者みたいなタイミングで声を掛けられた事に驚いて、俺が変な声を出すと、頭を上げて俺の事をじっと凝視した。

また、試合の時のドキドキとは違う鼓動が、胸の内側で跳ね始める。
「三橋、お前さっきの基本は解けたんだから、これくらいの応用なら出来るって」
俺の反応を見て、まだ解けていないと思ったらしい阿部君に向かって、俺は恐る恐るノートを差し出した。
「い、一応、出来た……と、思う」
「何だ、ならさっさと見せろよ」
表情を緩ませた阿部君がノートを受け取ってくれて、答え合わせをしてくれている間、俺はじっとそれが終わるのを待ちつつ、阿部君の少し伏せられた顔を見つめていた。

夏が終わって、少し日焼けも薄らいできているけど、それでも俺みたいな顔とは全然違う、男らしい感じの顔を見ているのは飽きなかった。
皆少しづつ身長が伸びたり、体重が増えたりして変化しているけど、俺には阿部君が一番変わったように思える。

そういえば、とふと、自分の鼓動が跳ね始めた頃を思い出した。

夏大の最中、三年間怪我をしないと誓ってくれた後に膝を傷めてしまった阿部君が、俺に言いたくても言えない事を伝えようと、痣が残るほどの強い力で腕を掴んでくれた時くらいからだ。あの頃から俺は……と思い出して、急に頭だけサウナに入れられたみたいに顔が熱くなった。

「みは……え?おい、どうした!?」
ちょっと自慢気に顔を上げた阿部君は、俺を見るなり声を上げ、他の教科の勉強をしていた皆が、何事かと俺と阿部君を振り返った。

「なな、何でも、無い。何でも無い、です……ちょっと、顔、洗ってくる……」

本当は逃げ出したいくらい恥ずかしかったけど、俺はなるべくゆっくり歩くようにして洗面所に行くと、何度も顔を洗った。けど、それでも顔の熱りを追い出せなくて、俺は水を溜めると、そこに頭を突っ込んだ。その途端……

「死ぬ気か三橋!」

阿部君の特大雷が落ちて、驚いた俺が顔を上げるより早く、肩を掴んだ手が俺の体を洗面台から引き剥がした。
「何してんだてめぇ!人間三センチの水位があれば溺死すんだぞ!」
「ご、ごめ、ごめん、なさい……」
引き剥がされた勢いで尻餅をついた俺を、阿部君が見下ろしながら睨み付けた。
「頭冷やしたいなら、せめてシャワー浴びろ!あんな事は今後絶対禁止だ!いいな!分かったか!?」
「ごめ、ん……阿部君……」
俺は目に溜まった涙を見せたくなくて俯いたけど、かえって涙を落としてしまう結果になって、それを見た阿部君は、大きな溜息を吐いて、俺の前にしゃがみこんだ。

「ごめん、なさ……」
「もう良いよ。俺も驚いたからってでかい声出し過ぎた。ごめん。でも何なんだよ、急に。頭使いすぎたのか?それとも調子悪いのか?」
優しい問い掛けにも、俺は答える事が出来なかった。

頭の中は、気付いてしまった自分の気持ちで一杯になって、絶対に受け入れて貰えないだろう大きな大きなそれを、伝えられない辛さで涙が止まらなかった。

「おーい、阿部。どうだ?」
ずっと泣き止まない俺を、辛抱強く待ってくれる阿部君に、後を追いかけて来てくれたらしい花井君が、洗面所の入り口から遠慮したみたいに声を掛けてきた。
「どーした三橋。顔びちょびちょだぞ?」
花井君と一緒に姿を現した田島君が、俺のすぐ横に座り込んだ。

「た、たじっ、田島、く……ッ」
しゃくり上げながら顔を上げて田島君の顔を見ると、涙はもっと溢れ出して、田島君は大きな目をもっと大きくして、阿部君を振り返った。
「阿部、三橋に何か言ったのか?」
「水に顔突っ込んでる奴に、馬鹿な事すんなって言っただけだよ!」
さっきまでの優しい声は消え、阿部君はまた怒ったような声で田島君に叫んで、俺はまた体をびくりと震わせた。その声に怯えてしまった俺は、田島君に助けを求めるみたいにしがみついて、ぎゅっと目を瞑った。

何でいつもこうなんだろう。阿部君と上手く喋れない。その所為で、いつも苛つかせて、不機嫌にしてしまう。それでも、いつもなら何とか自分の拙い言葉を紡いで、理解してもらおうとして、阿部君も、苛々としながらでも待ってくれて、ちゃんと理解してくれる。
でも、今は、絶対に阿部君には喋れない。
「ん〜……俺じゃ無理かな……おーい、いーずみー!」
最初、独り言のように小さな声で呟いた田島君は、すぐに肩越しに後ろを振り返って、二階に向かって泉君を呼んだ。すると、すぐに誰かが階段を下りてくる気配がして、洗面所に泉君がゆっくりと現れた。

「田島ぁ、いくら俺等しかいなくても下から叫ぶな。近所めいわ……どうした?」
「さぁ……」
「俺に分かれば、俺が何とかするっての」
泉君が呆れたように田島君に声を掛けた後、花井君と阿部君を振り返って訊くと、二人はそう言って黙った。

「泉、三橋の話、聞いてやれよ。多分、俺じゃ無理だ」
「何だよ……俺や田島じゃ無理って……」
阿部君が苦々しく呟く声が鼓膜を震わせて、俺はもう、その場から逃げ出したしたくて、でも、力が入らない足がもどかしくて、田島君にしがみついているのがやっとだった。

「阿部ー。三橋びびってんぞ?お前等は三橋の部屋に戻ってろよ。俺が話し聞いて、落ち着いたら、説明してやっから」
泉君は言いながら俺に近づいてきて、田島君と一緒に俺をその場に立たせてくれた。
「三橋、歩けるか?歩けるなら庭行こうぜ。ここじゃ盗み聞きする奴だらけだからな。田島、誰も出て来ねぇように、玄関見張ってろ」
「おう、分かった」
まるで、いつもの教室でのやり取りみたいに話している二人に引きずられるようにして、俺は玄関に行き、そこで田島君と別れて泉君と二人、夕方近くなってまた少し涼しくなった庭に出た。

投球練習場の池の淵にある、適当な石の上に座らされると、泉君も俺の隣に座って、「で?」と言いながら顔を覗き込んできた。俺は、やっと少し落ち着いてきた涙と、まだ濡れたままだった顔を、手の甲でごしごしと拭った。
「お、俺、阿部君には、絶対、絶対言えない」
「何が言えねぇの」
「俺の、気持ち」
「三橋の気持ち?」
泉君に訊かれて、俺は頷いた。
「俺は、阿部、君の事が、凄く大事、だから、絶対、絶対、言えない、んだ」
「好きだって事を?」

泉君が言った言葉に、俺はきっと凄い顔をしたんだと思う。泉君は、野球が好きとか、ご飯食べるの好きとか言う意味で言ったんだと思ったけど、俺が秘密にしなきゃと思った事を、簡単に言い当てられて、隣の泉君の顔を、びっくりした顔のまま見つめた。そうしたら、泉君がこっちを見た瞬間、凄く驚いたというか、当たり前の事を言ったのに、物凄く驚かれて、こっちの方が驚いたっていう顔をして、俺を見た。

泉君のその顔を見て、俺の顔がまた熱くなってきて、俺は池に飛び込みたいくらいの気持ちになったけど、これ以上阿部君に怒られるのも、嫌われるのも嫌だったから、ぐっと堪えた。だけど、水面に映った自分の顔の赤さに、もっと顔が熱くなった。

「ん?……んん?!もしかして三橋、お前……」
泉君は、驚いた顔のまま、俺に詰め寄ってきたけど、すぐに口元を隠してため息を吐いた。
ああ、俺は、阿部君だけじゃなく、泉君にも迷惑を掛けてしまっているんだと考えると、また目に涙が溢れた。

「ああ、待て、三橋。お前は悪くないんだから、まず泣くな。良いな。でもそうか……お前、自分で気付いてなかったのか……」
ちょっと慌てた感じで言った泉君の声に、俺は半袖のシャツの肩口で涙を拭きながら、何かを納得したみたいな泉君の次の言葉を待った。

「あのさぁ、三橋。一個づつ確認だ。お前は阿部の事が好きなんだよな?」
俺は一つ頷く。

阿部君は、俺にとっては一番大事な人だ。野球をしている時も、そうでない時も。
だから、阿部君を失うかもしれない事なんて、絶対に口に出来ないんだ。

「じゃ、次だ。野球やってる時や、練習してる時、それから今日みたいに勉強見てもらってる時以外も、阿部と居たいとか考える?」
ちょっと長い質問だったけど、俺は考える事無く頷いた。

俺は、ずっと阿部君と居たい。俺の球だけを捕って欲しいし、阿部君ともっともっと一緒に居て、阿部君の事を知りたいと、いつも思ってるから、考える事なんて無かった。

「んじゃ、最後だ。あんま深く考えんなよ?お前、阿部が欲しいとか思う?」
欲しい?
その言葉を聞いた時、合宿の時の練習試合前、監督に「エースが欲しい?」と聞かれた阿部君が、俺の左肩を掴んで叫んでくれた言葉を思い出して、少し収まっていた熱がぶり返したみたいに顔が熱くなった。でも、心の中ではその言葉に反応した気持ちが、俺の心臓をどんどん早めていって、肺の中の空気と一緒に、俺の中で暴れていた言葉を押し出させた。

「俺は……俺は、阿部君が、欲しい。俺だけの、阿部君で居て、欲しい!」
そう言った瞬間、自分の中で苦しいだけだった気持ちが、綺麗なシャボン玉みたいに弾けた気がした。
泉君は「こっちが照れる」って言いながら、両手で俺の髪をぐしゃぐしゃと弄った。

「そんだけ分かってれば、ビビる事ねぇって。田島みたいにチャンス狙って、阿部に自分の口で言えば良いよ。いつか絶対言えるから。もしどうしても駄目そうな時は言えよ?俺も、三橋がちゃんと言えるように、助けてやっから。な?」
笑顔でそう言ってくれた泉君に、俺は凄く安心した。その所為でまた溢れてきた涙をぽろぽろとこぼしていると、泉君が泣き止ませようと俺の頭を肩に乗っけてくれた。そして泣き止んだ頃、泉君のシャツの肩は、びっしょりと濡れていた。

何とか落ち着いて家の中に入ると、玄関では凄く怖い顔をした阿部君を、栄口君と西広君が羽交い絞めにして取り押さえていて、それ以外の人は、上がり間口で仁王立ちしている田島君の前に、行列を作ってた。

「何してんの、お前ら」
「あ、帰ってきた!」
「お、もう大丈夫か三橋ぃ」
泉君の問いかけに、田島君の前に立っていた水谷君が声を上げ、田島君もこっちを振り返った。

「おう、泉。三橋ももう大丈夫か?いや、それがさ、田島が外に出たけりゃジャンケンに勝てって言うんだけど、これが面白いくらいに勝てないもんだから、気付いたら皆でこの有様」
そう言って花井君が笑った時には、水谷君のチャレンジは終わって、凄く悔しそうに、花井君、沖君、巣山君の順番で並ぶ列の最後尾に戻っていった。

「俺、ジャンケンは負けねぇよ、ゲンミツに!でも、三橋が戻って来たんなら、もう終わりだな」
「おい、三橋!」
田島君の言葉が終わるより先に、阿部君の声が響いて、俺はついいつもの癖で体を固くした。
栄口君と西広君に目で合図をした阿部君が、二人の腕から自分の腕をもぎ取るようにして自由にすると、どんどんと俺に向かって歩いてきた。

泉君と田島君が俺の後ろで、阿部君の後ろで栄口君と西広君、そして、俺達の横で花井君と水谷君、巣山君、沖君が、黙って立った。

阿部君は、視界に入る人の顔を順番に見渡すと、最後に俺に目を止めて、俺の顔を見下ろした。
「三橋」
呼び掛けられると、またびくりと反応してしまうけど、俺は、阿部君に申し訳ない気持ちで一杯だった。

阿部君は全然悪くないのに、きっと、物凄く心配させて、傷付けてしまったんだと思う。少し上から注がれる視線に、寂しさみたいなものを感じた。
本当は、何度も謝りたかったんだけど、大泣きした所為か、喉が渇いて、声は胸元で固まりになった。

「ごめん、ね、阿部、君……俺、お、……」
何とか声が出たけど、俺に謝まられても、多分、阿部君は嬉しくない。でも、何て言って良いのか分かんなくて、胸の中の気持ちを少しでも伝えたくて、俺は顔を上げて阿部君の顔を見た。

「あ、あり、が、とう心配、して、くれて……」
その瞬間、阿部君はちょっと不意打ちされたみたいな顔をしたけど、すぐに口元を手で隠して、視線をどっかに向けた。

「……まぁ、俺も怒鳴って……ってのはさっきも言ったか。兎に角だ、さっきみたいな事はやめてくれよな。バックホーム躊躇された時くれぇ傷つくっての」
バックホームから先は、だんだん声が小さくなって、ちょっと聞きにくかったけど、皆にも聞こえたのか、俺の視界に入る阿部君以外の人は、皆今にも笑い出しそうな変な顔になってた。多分、俺に見えない、泉君と田島君も笑ったんだと思う。阿部君は眉間に皺を寄せると、俺の左腕を掴んだ。

「さっさと勉強に戻るぞ!とんだ時間を食っちまったしな!三橋は次の問題だ!」
阿部君の言葉に、俺は小さく声を上げた。
「さっきの、問題……」
「全部合ってたぞ。だから次に行くんだろうが!」
階段を踏み抜きそうな勢いで登っていく阿部君の首筋は、なぜだかさっきの俺の顔くらい、真っ赤になっていた。

他の人もそれに気付いたのかな、俺達が階段を登りきると、一階から皆の笑い声が凄く大きく響いてた。



次の日から、俺は阿部君の前に立つのが少し怖くなったけど、でも、逃げ出したりする事は無くなった。
それから、バリケードになってくれた田島君と、ハマちゃんにも、俺は阿部君の事が大好きだという事を話した。ハマちゃんは、少し複雑そうな顔をしたけど、田島君は「そっか」と言って笑ってくれた。

そして俺は、泉君の言った通り、阿部君に自分の気持ちをちゃんと言える日が来る事を、毎日祈るようになった。




エピローグ

「なぁ、泉。なんで阿部が三橋の事好きだって事言ってやらねぇんだ?」
午前中に弁当を食べつくした田島と三橋が教室から飛び出して行ったのを見送りながら、浜田は一つ下の同級生にして恋人の顔を見た。
その恋人は、イチゴ牛乳のパックにストローを挿し、少し気のない返事を返しながら、浜田の顔を振り返った。

「理由なんかねぇよ。強いて言やぁ、面白そうだからかな?まぁでも、そう時間はかかんねぇだろ。あの阿部に堪え性なんかあるわけねぇもん」
そう言って薄い唇を撓めた恋人の背中に、浜田は黒い翼と、鋭角的な先端のついた、細長い尻尾が見えた。






田島様がジャンケンに負けないのはラブ○スのリッカ理論だと思う。
思ったよりも泉君が世話焼きになって驚いたけど、何より驚いたのは勝手に動いてくれた三橋君でした。