ホワイトラプソディ




いつもは明るい雰囲気が満ちている西浦高校1年9組の教室は、その日、二人の生徒が放つどんよりとした雰囲気に、教室中が満ち満ちていた。

「…………うぜぇ…………」

そのどんよりとした空気の発生源である二人の様子を見ていた男前、こと西浦高校硬式野球部部員の一人、泉は、もう一人の野球部員である三橋と並んで立ちながら、そうポツリと呟いた。

「何だよお前等……あれだけ貰っててまだ食う気だったのか?」
「当たり前だろ?だって価値が全然違うんだぜぇ?」
「そーだよー。なー浜田ー」
泉の言葉に、発生源の二人は声と頭を揃って上げた。
二人共浜田の机に突っ伏していた為、接していた箇所を赤くして泉と三橋を見上げた。
「一年に一回しか無いのにさぁ、用意してたの三橋と栄口だけなんてしんじらんねー!」
心底不満そうに叫んだ田島の言葉に、名指しされた三橋がびくりと肩を竦めた。
「あつかましい奴らだぜ……」
恨めしそうに泉と三橋を見上げる田島と浜田の視線に怯え、「う、あ」と言葉に詰まる三橋の横で、泉は小さくそう呟いて、あさっての方向を見つめた。



暦の上では立春を過ぎたこの時期の一大イベントの翌日、まだ甘い香りが漂っていそうな学校の中は、香り以上に甘い雰囲気を漂わせる者達が所々で見かけられる。
教室の中でその雰囲気を放つクラスメイト達を横目で見た後、こちら7組の教室では、花井が阿部の机に突っ伏した水谷と、いつも以上に不機嫌の極みにある机の主の様子に、顔を強張らせた。
「何だよ、何かあったのか?」
「うるせぇ、黙れ」
「なーんでもありませーん」

普段より険を含んだ声音の阿部と、死んだ魚のような目をした水谷の言葉に、苦労症の野球部キャプテン、花井は、彼らがそうなった理由に思い至って、乾いた笑いを零した。
(そんなに欲しいもんなのかな……)
昨日、それこそ一気に食べたら糖尿にでもなりそうな量のチョコを持って帰った花井は、妹達が早速消費していたのを思い出していた。
中学に入り、身長がどんどんと伸び始めた頃から、バレンタインに学校でチョコを貰うのはもう恒例になっていた。もちろん告白付きだ。
けれど、野球が、とか受験が、とはぐらかして断り続けて来た為、もう面倒ごとのようにしか思えなくなっていたのも事実で、その認識が、渡すべきだったかもしれない相手に渡すという事を失念させていた。

今日はまだ顔を合わせていないものの、昨日一日、やたらと纏わり着いてきて、自分がチョコを貰う場面を見ては不服そうに頬を膨らませた相手の顔を思い出して、花井は軽い罪悪感を覚えた。
実は花井自身、ちゃんと付き合っている相手はいる。
──ちゃんと、の定義がどのようなものかはともかく、その相手に好意を持っている以上、やはり何か渡すべきだったか?と自問して、花井は首を捻った。

「あー。花井も上げてないんだ」
「い゛っ?」
朝っぱらからどこか遠い所を見ていた水谷が復活したのか、面白がるような顔で、突っ伏していた机から顔を上げ、痛いところを突かれた花井に企むような笑みを向けた。
「ぜーったい落ち込んでるぞー?暫く口きいてもらえないんじゃないのぉ?」
「はぁ?!てか、お前に関係無いし!」
水谷のからかうような口調に花井は噛み付いた。すると、横に居た阿部が、効果音が付きそうな勢いで、機嫌の悪さをありありと浮かべた凶悪な顔を二人に振り向けた。

「二人共うっせぇ。黙れ。どっか行け」
「ふンだ。もうすぐHRだもん。どこにも行けまセン」
余程機嫌が悪かったのか、珍しく反抗的な水谷がぷいとそっぽを向きながら唇を突き出したのを見て、花井は阿部の堪忍袋の緒が切れる音が、教室中に響いた気がした。
「このク・ソ・レ・フ・トが〜〜〜っ!」

「どっちもうるさいわよ?モップさん達」
鈴の音が転がるような声がして、三人が振り向くと、笑顔を浮かべたマネジの篠岡が、阿部の席を中心に、周りの席の椅子に座っていた部員達を見下ろしていた。
「モップさん?達?」
呼び掛けの言葉に疑問を感じた花井が、引っかかった言葉を繰り返すと、篠岡が花井の顔を振り仰いだ。
「ホモカップル、略してモップ。了解?」
周りに聞こえないよう、声量を落とした彼女の口から零れた言葉に、三人は驚いた顔のまま固まった。



その日の昼の休憩時間中の1年1組の教室。ここでも一人、自分の机に両肘をつき、組んだ手の甲にあご先を乗せて、浮かない顔でぼんやりとしている野球部員が居た。
「何だ?栄口。バレンタインに告白でもされて困ってんのか?」
「はぁ?んな訳無いよぉ」
部活仲間であり、クラスメイトでもある巣山の言葉に、栄口はどこか遠くを見ていた視線を、彼の顔に向けて笑った。
「んだぁ?ここもかよ」

不意に湧いた泉の声に、顔を声がした方に向けると、三橋と、何故か花井を引き連れた彼が、呆れたような顔をして立っていた。
「あれ?珍しいな。泉に三橋、おまけに花井が1組まで来るなんて」
「んまぁ、ちょっとな」
巣山の言葉に適当な返事を返すと、泉はきょとんとした顔の栄口を振り返り、少し呆れた様子で鼻を鳴らした。
「栄口、お前も渡してなかったのか」
泉の言葉に、栄口は瞬時に彼の言いたい事に気が付いて肩を震わせた。
「な、何の話?」
目を泳がせ、冷や汗をかきながら言った栄口の両肩をがっしと掴むと、泉はぐいと顔を寄せた。
「しらばっくれんな?ネタは上がってんだ。三橋と一緒に、コンビニで買ったんだって?」
まるで事情聴取をする刑事のように、薄く笑った泉から放たれた言葉に、栄口は逃げられない事を悟った。



「しょっぱい話しだなぁ……」
「うっせ。自分は関係無ぇみたいな事言うな」
「何で俺と三橋も付き合わなきゃ……」
「う……」
花井のぼやきを泉が切り捨て、栄口が怒りと困惑を乗せて呟くと、三橋が顔を強張らせ、言葉に詰まった。
四人は今、バレンタインデー商戦の終了したコンビニにいた。
だが、いつも部活帰りに立ち寄るコンビニではなく、レンタルショップ近くの別のコンビニを選んで、渋い顔をする三人と挙動不審な一人は、棚落ちし、レジ横の特売コーナーに積み上げられた、バレンタインチョコの山の前に立っていた。
ミーティングだけで終わったその日、花井にチョコを渡すべきかどうか相談を持ちかけられた泉が、チョコを用意していた二人が渡せなかった原因を聞き出そうと、三橋と栄口を誘って少しばかりの遠出をしたのだ。

「俺ぁ別に要らねぇと思うぞ?花井」
泉の一言に、花井は「やっぱり?」とでも言いたそうな顔で、彼の顔を見た。
「いや、でもさ、あいつ欲しがってたんだろ?」
「だからって言って、何でもやりゃあ良いってもんでもねぇだろ」
溜息混じりに言う泉に、栄口が乾いた笑いを洩らした。

「そうだよね。大体さ、貰えるものだと思ってる方があつかましいって言うか……」
「お、俺は、上げたかった、けど……」
栄口の言葉を遮るような三橋の言葉に、三人は三橋を振り返った。
一瞬、視線が集中したこ事に驚いて口を噤んだ三橋だったが、喉を鳴らして自分を鼓舞するように息を吸うと、ひよこを連想させる口を開いた。
「あ、べ君は、チョコ嫌いだっ……て……」
勢い込んで言いながら、次第に目に涙を浮かべ始めた三橋に、三人は垂れ目捕手の迂闊さにげんなりした。

昨日の野球部員は、全員がそれぞれもてていた。
昨年の夏、初戦では去年の優勝校を下し、創部一年目にしてベスト16まで喰らいついた所為で、一気に有名になってしまった西浦ナインは、他校からもチョコを渡しに来る者もいたほどで、三橋にチョコを渡そうとする集団から、彼を鬼のような形相で守っていた捕手はかなり苛ついていた。
漸くその騒ぎが一段落した練習後の帰り道、三橋が鞄の中に忍ばせていた、阿部に渡す為のチョコの箱に手をかけた瞬間、阿部は「チョコなんか大嫌いだ」と呟いたらしい。
朝になって、三橋からその事を聞き出した泉は笑い出しそうになったが、田島と浜田は自分達も貰っていないということを思い出し、落ち込み始めたのだ。

そして7組では、三橋から栄口と共にチョコを買ったと聞いた、泉からの情報リークを受けた水谷と阿部が、朝から落ち着きなくそわそわしていた。
しかし、女子からの猛攻勢に疲れていた阿部は最後に失言をして自らチャンスをフイにし、水谷は、当然のようにチョコを栄口にねだりに現れた所為で、栄口の機嫌をこれでもかというほど損ねていた。

「皆、そんな所で集まってると、他の人の邪魔になっちゃうよ?」

落ち着いた声音が背後から掛けられて、全員がいっせいに振り向くと、そこには仏の笑みを浮かべた西広が立っていた。
「に、西広?!」
「よう、どうしたんだ?」
「な、何でこんなところに……」
「西広君、お疲れ、様」
四人が銘々に口を開くと、仏の笑みのまま、西広は四人を見渡した。
「篠岡に、変な噂が立たないように皆を見張っててくれって頼まれたんだ」

「変な噂?」
泉が怪訝そうに尋ねると、「言って良いのか?」という気配が西広から放たれて、泉と花井は何も言わずに視線を逸らした。
「あー、うん。何となく分かった。もう良い」
「わかってくれたみたいで嬉しいよ」
花井の言葉に、アルカイックスマイルのまま、西広はうそぶいた。
「それより、四人共どうせなら相手を焦らしてみたら?」
『は?』
突然西広から飛び出した言葉に、四人は目を丸くした。



その頃、いつも西浦ナインが打ち揃って寄り道するコンビニでは、浜田を筆頭に、阿部、水谷、田島が、沖や巣山と共に買い物をしていた。
「あーあぁ!やっぱくれねぇか!」
「でかい声で叫ぶな田島」
「まぁ気持ちは分かるけどな」
「そうだよねぇ……」
浜田と水谷がそう応じると、田島は不満そうに頬を膨らませたが、すぐになにやら首を傾げた。

「何だ田島」
「なぁ、こっちからやるのってあり?」
「はぁ?」

田島の様子に浜田が声を掛けると、そんな事を言い出した田島に、阿部が声を張り上げた。
「やるって、向こうに何か上げるってこと?」
「うん、そう。俺さ、いつも貰ってばっかみたいな気がすんだよな。だからお返し!」
水谷の言葉にそう笑い返した田島は、そう言うなりコンビニのお菓子コーナーを回り始めた。

その姿を見送りながら、残りの三人は四番の小さいながら偉大な背中に言葉を失った。
「……田島って、たまに凄い偉大?」
浜田が心底感心したように呟いた。
「俺も、今ちょっとそう思った」
水谷が感嘆の溜息と共に応じた。
それを聞いていた阿部が、ふと思案顔になり視線を伏せた。
「どうかした?阿部」

「おい田島」
呼びかけてきた水谷を無視すると、阿部は田島を呼びつけ、二人で額をつき合わせて話し始めた。
「なんだよぉ!俺等も仲間に入れてよ」
「え?俺等って俺もか?」
浜田が躊躇うような声を上げるのも構わず、水谷が阿部と田島の肩に手を置こうとした瞬間、二人が振り返り、水谷はたじろいだ。

「もちろん、お前も浜田も仲間だ」
「そーそー!俺達きょーてーを結ぶんだぞ!」
いつもの企む笑みを浮かべた阿部と、満面の笑みを浮かべた田島を見て、水谷は自分の言葉を後悔し、回れ右をしてその場を去ろうとしたが、素早く伸びた二人の手が襟を掴み、問答無用で取り押さえられた。
首をホールドされ、半ば本気で逃げ出そうとする水谷を、為す術無く見ていた浜田は、彼等には逆らってはいけないという事を瞬時に理解して、その場に立ち尽くしていた。



「……なぁ、巣山……」
四人の集団から少しはなれたところで商品を見ていた沖は、隣に立ってパックジュースを選んでいた巣山に呼びかけた。
「ん?どうした沖」
選び取ったマンゴージュースを手に、巣山が僅かに下になる沖の顔を振り返ると、沖は青ざめながら呟いた。
「俺達、あの会話に加わらなくて、別に良いんだよね……?」
「沖、しょっぱい現実は、見なくて良いと思うぞ?」
顔を見合わせた二人は、お互いに大きく頷き合うと、まだ騒いでいる四人を残して買い物を済ませると、さっさと家路についた。





翌日、前日の不穏、険悪、困惑といった雰囲気を何故か一気に吹き飛ばした野球部員五人と応援団長を見て、マネジの篠岡は両脇を固めるように立つ沖、巣山、西広の三人を、順に振り返った。
「ねぇ、昨日何かあったの?」
一人左側に立っていた巣山が、グラウンド整備に精を出す一団を見ながら口を開いた。
「阿部達のグループは、昨日コンビニで何か話し合って、妙案が出たらしい」
「泉達の方は、来月まで持ち越し」
「来月?」
右側に立つ西広の言葉に、篠岡だけでなく、巣山と沖も彼を振り返った。
「来月なら、大手を振って買いに行けるからね」
西広の言葉に、三人は暫し時間を必要としたが、同じ答えに辿り着き、溜息のような声を上げた。
「けど、その前に学年末試験、無事にクリア出来ないとねぇ」
篠岡の言葉に、全員難しい顔でごく一部の部員の姿を見つめた。





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