約束

「いーずみー!ちょっと手ぇ貸してー!」
「おう、ちょっと待ってろ!」
フリーバッティングを終え、ボールを集め終わった浜田が、丁度俺の守備位置辺りから叫んで来て、持っていたバットとメットをベンチに片付けると、俺は浜田の立っている場所目掛けて走った。

桜も散り始め、時ならぬ夏日を記録している春休みのグラウンド、そこにはもう下見に来た新一年生の姿がちらほらとあって、慣れない見学者からの視線に、チームメイトの一部は混乱しているようだった。
去年の活躍は、地元では結構有名な話だもんな。結構な人数が見学に現れているのはしょうがねぇ。
その所為で、最近また三橋の様子が少しおかしいけれど、それは阿部が何とかすれば良いだけの話だから放って置くことにしてる。

わざわざ俺に声を掛けてきた浜田は、俺達のそんな心理状態を知る由も無い様子で、ボールが山済みになっているケースを横に、俺が駆け寄るのを待ってくれていた。
「悪ぃな。流石に一人でこれを運ぶのは腰にきそうでさ」
「おまえさぁ、悪いのは腕だけなんだから、他はもうちょっと鍛えたらどうなんだ?そのうちメタボになんぜ?」
「えー?お前等の基礎練に付き合うだけでも、結構な運動なんだけどなぁ……」
言いながら、腹の辺りをさすり始めた浜田の様子に、俺は小さく笑った。

初めて会った頃から、ずっとずっと憧れ続けてきた浜田。
中学で肘を壊してしまい、野球を続けられなくなってしまったのに、好きで仕方がない野球をしている俺等を一所懸命に応援してくれる優しい男は、一年近く前、俺の恋人になった。

誰にも言えない関係ではあるけど、俺は浜田を必要としていて、浜田も、多分俺の事を必要としてくれている。
毎日毎日、安心していられるわけじゃ無ぇけど、それでも、俺達はお互いの全てを許しきっていて、二人で居る事が当たり前だった。
互いの全部が欲しくて、体を重ねた事も、もう数え切れない程ある。

そんなふうに近くに居ても、何故か浜田はどこかつかみどころがなくて、俺は時々酷く不安になる。
それは、俺達より一年長くこの学校に居て、その間に浜田だけの思い出を作っているからなのか、自分の知らない浜田を知る人が、自分の身近に居るからかも知れない。
でも──それでも、全てを知りたくて、繋ぎとめたくて、時折遠くを見つめる視線をこちらに向かせたくて、俺は被っていたキャップの庇を開いていた手でさげると、少し緊張しながら口を開いた。

「なぁ、浜田」
「ん?」
いつもと変わらない、穏やかな声に胸が震える。
去年の今頃に比べれば、俺の身長も体重もそれなりに数字を伸ばしているのに、浜田に関する事だけはどうしても成長できない気がするのは、俺の思い込みか?
ちょっとした誘いをかけるだけで、心臓が破裂しそうだ。

「今夜、デートすっか?」
自分で言った言葉なのに、あまりに恥ずかしくて全身が熱を帯びる。
それに追い討ちをかけるように、浜田は沈黙したまま歩き続けていて、俺は焦れた。
「用があるなら、別の日で全っ然大丈夫だけど!」
半ば逆切れだったのは自分も認める。
でも、逆切れついでに、まだ俺の視線より高い位置にある浜田の顔を仰ぎ見た瞬間、すげぇ嬉しそうな横を向いたままの笑顔に、何も言えなくなった。

「いずみ」
俺に視線を向けず、真直ぐに前を向いたままの浜田の呼びかけに、俺は「何だよ」って返すのが精一杯だった。
さっきから、心臓がうるさくて仕方が無い。
「俺が泉からの誘い、断るわけ無ぇって。知ってるだろ?」
他のメンバーも近くに居る所為で、少しだけ潜められた声に、俺しか知らない浜田の姿が重なる。

ちょっと待て俺!今まだ昼間だし!今夜もそんなつもり全然無ぇし!
「相変わらず可愛いなぁ泉はv」
語尾にハートマークでも付きそうな言葉に、ここで俺の手が出たとしても悪くは無い。と自分に言い訳しながら、俺は握りこんだ拳を浜田に向かって繰り出した。





俺達のデートと言っても、モモカンの容赦無い練習スケジュールがそうそう緩むことも無くて、二人だけになれる時間は少ない。
俺達の練習が無く、ミーティングだけの日に浜田はバイトを入れてるし、練習がある日ははっきり言って揃って撃沈寸前だ。
あんまり浜田のアパートに入り浸ってると、母親のお小言も五月蝿いから、よほど前々から準備をしない限り、俺達のデートは、家に帰り着くまでの短い時間に、僅かな寄り道をする程度の事だ。

だから今日も、ほんの少しだけ寄り道して、近所の河川敷を一緒に歩いていた。
「昼間は暑いくらいなのに、やっぱ夜はまだ少し冷えるなぁ」
ぶるりと体を震わせた浜田の言葉に、俺は同意を示しながら、土手に続く桜並木を歩き続けた。
家に帰り着くコースから僅かに外れたここは、地元の人間しか知らない隠れた花見スポットで、昼間は結構人が集まってる。

休みの日のロードワークの途中で見つけたこの場所は、俺の好きな風景の一つで、桜が見頃な内に、浜田にも見せてやりたかった。
浜田の言う通り、まだ少し肌寒く感じる夜風に煽られて、盛りを過ぎ始めたらしい花が、まるで涙のように無数の花弁を散らした。

桜って、キレイだし何かすげぇって素直に思うけど、どこか寂しい気配がする。
武士の潔さの象徴、って言われるのも、何だか分かる。
泣けない誰かの変わりに、桜が涙を流す──
ってうわ!なんだよ俺。何で今日はこんな事考えてんだろ?

「どうした?泉」
「何でも無ぇよ。気にすんな」
自分の思考回路に恥ずかしくなって、俺がそっけない答えを返しても、浜田は気にして無い様子で鼻を鳴らすと、不意に立ち止まって上を見上げた。

そんな浜田に倣って、俺も足を止めたけど、浜田は何も言わずに上を向いたままだった。
お互い自転車を押したままだから、耳障りなブレーキ音が辺りに響いたけど、それを咎めるような人の姿は、どこにも無かった。
この土手は、すぐ間近に家が立ち並んでるから、夜桜見物をしながら騒ごうって人間は集まらない。
もしそんな事をしようものなら、速攻で近隣住民が警察に連絡を入れるって言うのは、兄貴から聞きかじった話だ。

沈黙を守り続ける浜田に倣って、俺も顎先を上げると、視界一杯に満開の桜が、太い枝細い枝を選ばずに咲き乱れて、まだ尽きない花弁を落とし続けている。
その向こうに広がる墨色の空には、ちらちらと星が瞬いているのだろうに、花が邪魔をしてしまって、隙間から伺うことすら出来ない。
「なぁ泉」
不意に浜田に呼びかけられて、返事は返さずに視線だけを向けると、それを気配ででも感じたのか、浜田はまだ上を見上げたまま、また口を開いた。

「泉はさ、何で皆桜の花が好きなんだと思う?」
突然の質問に一瞬面食らったけど、俺は少しだけ考えを巡らせて、何となく導き出した答えを言う事にした。
「分かんねぇけど、キレイだからじゃねぇの?」
我ながらありきたりな答えだけど、そうとしか思えなくて素直に口すると、浜田はやっぱりそうだよな、と笑いながら、穏やかな目を向けてくれた。

俺の方を向いてくれた事にちょっと嬉しくなっていると、浜田の大きな手が、自転車のハンドルを握ったままの俺の手にかぶさった。
「俺はさ、上を向く事を思い出させてくれるからかな、って思うんだよな」
重なった手の暖かさと一緒に、その言葉は俺の心の中に染み渡った。

「落ち込んで、下向いてても、花びらを降らせて花が咲く季節になった事を教えてくれる。んで、世の中、まだまだ綺麗なもんがあるんだ、下ばっかり向いてても駄目なんだって思い出させてくれる。だから、沢山の人がこの花が好きなのかなって思ってんだ」
ちょっとクサイけど。と笑った浜田の笑顔に、俺は涙が出そうになった。

あぁ駄目だ、泣くな俺!
泣いていいのは浜田だけなんだ。
怪我をして、好きだった野球を手放さなければならなくなった辛さを、誰も本当には分かってやれない。
でも、それを乗り越えてきた浜田の悲しみを、少しでも俺に癒してやれるのか?
それが出来ないなら、俺に泣く資格は無ぇ。

目頭が熱くなったのを感じて、きっとすげぇ変になっているだろう顔を見られたくなくて、俺は涙を堪えるために歯を食いしばりながら俯いた。
「顔、上げてくれよ泉」
そんな俺の我慢なんか知ったこっちゃないって感じで、自転車をその場に停めたらしい浜田は、俺の手を握ったまま、もう一方の手を俺の肩に回してそっと抱き寄せてくれた。

そのまま、俺の首筋に顔を寄せた浜田は、落ち着いた呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと腕に力をこめた。
「俺も、顔を上げたら、泉がいたんだ」
囁かれた言葉に、溢れそうになっていた涙が引込んだ。
「去年の入学式まで、俺はずっと下ばっかり見てた……でも、学校の桜の下で顔を上げたら、そこに泉が居て、それからはずっと、顔を上げて前を向く事ができてるんだ」

浜田の言葉一つ一つに、俺の心臓が息も出来ない程に跳ね始める。
何かを言いたいのに、良い言葉が浮かばないジレンマに襲われている俺を余所に、浜田はまだ俺の耳元に言葉を囁きかけた。
「その時の気持ち、忘れたく無ぇから、これからもずっと俺の側で、毎年花見に付き合ってくんね?」
こっちを伺うような声音に、俺は自然に口元が緩むのを感じた。

「……ばーか」
やっと口を突いて出てきた言葉は、いつもと変わらない憎まれ口で、自分でも呆れたけど、それでも浜田には俺の了解の意味は伝わったらしい。
大きな溜息と一緒に、「良かったぁ」と吐き出しながら、少しだけ近づけていた顔を離した。
「断られたらどうしようって、ずっと不安だったんだ」
困ったように眉をゆがめながら笑った浜田に、俺は自分から顔を摺り寄せた。

背伸びをしなくても、少し腰をかがめてくれている浜田の頬に、俺の唇は難なく届く。
けれど、頬では無く浜田の唇に自分の唇を寄せると、大きな体に僅かな緊張が走った。
「離れてなんか、やんねーよバカ」
そう言ってやりたかったのに、最後のバカは浜田に飲み込まれた。





(2009.4.13)
今年の花見中に思いついたネタ。上を向く、というくだりを、桜を見ながら考え至りました。