風に満ちし喜びに

どうしても埋められない穴がある。
普段は忘れていられるけれど、時々、本当に時々その存在を忘れさせない為に、風を呼び込み、内をひどく抉る。
その痛みには、いつまで経っても慣れる事は無い。



「栄口」
呼びかけられて振り返ると、いつになく真面目な顔をした水谷が俺に向かって、前のめりになりながら歩み寄ってくるところだった。
「何?どうかした?」
次の授業の為の教室へ向かう途中の出来事に、俺は少し鼻白んだ。
俺と水谷は二年に進級しても同じクラスにはならなかった。
文系と理数系の違いだから仕方が無いけど、一年の時と同じく、教室も結構離れていたから、お互いが意識してそこに向かわないと、休憩中に顔を合わせることは難しい。
だから、わざわざ水谷がこうして出向いてきた以上、何かしら用事がある筈だ。
けれど何故だか、俺はその用事を避けたかった。

なのに、俺の足はその場で止まり、一緒に向かっていたクラスメイトを先に行かせると、水谷が俺の目の前に立つのを待ち構えた。
「あのさ、栄口……」
殆ど小走りに近い結構な勢いで向かってきていたのに、少しも呼吸を乱さずに俺の前に立った水谷は、途端に表情をぎこちないものに変えて、そう言うなり口篭もった。
「何?俺、次移動なんだけど。水谷も教室まで結構あるのに、大丈夫なの?」
言い募りながら、俺は込めるつもりの無かった苛立ちが、自分の声や言葉に篭ってしまっている事に怯んだ。
なんだろう、今日はなんだか酷く気分が落ち着かない。
「あの……今日ちょっと栄口の家、行っても良い?」
俺のそんな気持ちに気付いているのか、水谷が俺の顔を見ようとはせず、あさっての方向に目を向けながら、少し言い難そうに口を開き、俺は面食らった。

「は?何で?」
別に断る理由は無い。
今日はミーティングだけだから、いつもよりは早く家に帰れる。
それなのに、俺は水谷に問い返した。
普段もそうしているように、CDやDVDの貸し借りをして見送るだけだろうけれど、なぜだか今日はそんな普通の友達付き合いすら面倒に思えるほど、体の中の何かが重たかった。
「ちょっと、どうしてもやりたい事があるんだけど……」

言い澱む水谷が、申し訳無さそうな目で「駄目?」と問い掛けて来て、俺は小さく溜息をついた。
俺と水谷は、普通は男女間の意味合いで使われる意味で付き合っている。
同じ野球部のメンバー同士、そういった関係になるには色々あったんだけど、俺達以外にもそういう意味で付き合ってる連中が部内にいるから、あまり居心地の悪い思いはしなくて済んでいる。
それはさておき、水谷がこうして俺に何かをねだる事は珍しい。
いつも何の断りも無く、けれど、俺の反応を窺うようにそっと触れたり、尋ねて来たりするのに、何故今日に限ってわざわざ訊きに来るのかが分からない。
けど、断りを入れてでもやりたい事があるって事だよねぇ……多分……
「……いいよ」

俺が諦め半分にそう言うと、水谷はあからさまに顔を輝かせた。
「マジ?!」
「うん、マジで。だから、そろそろ教室戻りなよ。チャイム鳴るよ?」
言いながら、ズボンから取り出した携帯の背面ディスプレイを見せてやると、水谷の顔色が変わった。
「うっわやばっ!俺今日当る!んじゃ、また後でね、栄口!」
ばたばたと廊下を走り去って行く姿を見送ると、俺も次の教室に向かう為に足を動かした。
後三分ほどあるから、俺は間に合う。
水谷は間に合うかな、とか考えながら、俺は不可解な感触の胸の裡に眉根を寄せた。



学校からの帰り道では、お互い他愛ない事ばっかり話してた。
練習の事や、もうすぐ始まる二度目の夏の予選の事。それから学校での事や好きなアーティスト、プロの選手の事、そんないつも繰り返している話題に、自分が知っている中で一番新しい知識を折り混ぜながら、二人だけで歩き続けた。
部の他のメンバーとは、とっくに別れてた。
皆、それぞれ用があるからと言ってさっさと帰っていて、俺と水谷が一番遅いくらいだった。
だからどこかのんびりとした歩調で歩き続けて、家に帰り着く頃には日が暮れてた。

「ゆっくり歩いてたからかな、結構時間掛かったね」
門扉を潜りながら、水谷が夜空を見上げたのを見て、俺も倣うように空を見上げた。
「そうだねぇ……水谷は時間、大丈夫なの?」
「うん。今日は遅くなるって連絡済みー」
のんびりした声に、俺は何故だか少し苛ついた。
「でもウチ、今日は皆居るからね」
釘を刺すようにぼそりというと、水谷は俺を振り返ってへらりと笑った。
「うん。今日は自重する。だって嫌われたくないもん」

ふーん、あっそ…………

………………

って、何だ?もしかして俺……イヤイヤ!そんな事は断じて無い。
別に何も期待なんかしてないし!
「どうしたんだよ栄口。先入っちゃうよ〜?」
ぶんぶんと頭を振っていた俺を尻目に、さっさと玄関扉の取っ手に手をかけていた水谷は、いつものお気楽な口調で中に声を掛けながら入って行った。
「ちょ、待てよ水谷!」
慌てて後を追いながら、俺はいつもの調子が出ない自分に頭を捻った。

水谷の後を追って中に入ると、姉貴が慌てた様子で家の中を走り回っていて、水谷はどうしたらいいのやらって顔で立ち尽くしてた。
「あ、勇人!ちょっと出てくるから、留守番宜しく!」
俺の顔を認めるなり、姉貴は廊下をこっちに向かい、普段使いのスニーカーに足を通した。
「何かあったの?」
姉貴がここまで慌てるのは珍しいと思って訊くと、「それがさぁ」と喋りながら踵を整えて、少しずれた眼鏡を正した。

「ちびが熱出しちゃったのよ。今、丁度お父さん帰ってたから救急に走ったんだけど、お父さんたら財布と保険証置いてってんのよ。届けに行って来るから。ごめんね水谷君、折角来てくれたのにばたばたしてて」
「あ、いえ。こっちこそ、急に来ちゃってすんません」
水谷の言葉を聞き届けると、姉貴は何度か頭を下げるや玄関を飛び出していった。

今が騒がしかった所為で、余計に静かになったように感じる家の中、玄関の上がりがまちで立ち尽くしていた俺と水谷は、どちらからとも無く顔を見合わせ、ぎこちない笑顔を向け合った。
「俺、帰った方が良いよね……」
「は?」
「ん。やっぱそうする」
「水谷?」
「明日また朝錬で。弟君、早く良くなるといいね」
取り繕ったような乾いた笑いを浮かべて、扉の取っ手に手を掛けようとしていた手を、俺は無意識に伸ばしていた手で押し止め、水谷の顔を見上げていた。

お互い、去年より少しは身長が伸びたけど、水谷は元々高かった上に、成長率も俺より良くて、いまや少し目線が上になる。それが少し悔しい反面、格好良く見える。
くそ、ちょっとムカツク。
「別に帰れなんて言って無いだろ?折角来たんだし、上がっていけよ」
今日初めて、自分の気持ちに素直になって水谷の目を見て言ったら、水谷は一瞬固まった後笑顔を浮かべた。
俺の好きな水谷の笑顔だ。

「じゃあ、お言葉に甘えるね」
言葉と共に水谷がゆっくりと顔を寄せ、後数センチでどこかしらが触れ合う位置でピタリと動きを止めた。
二人の間で、いつの間にか暗黙の了解になってしまった儀式だ。
僅かに目を伏せ、動きを止めた水谷を受け入れる為に、俺は目を閉じて頭を少し反らせる。
水谷はいつもそれを確認してから、唇を重ね合わせる。
どれだけ人目が無くて、俺が無防備であっても、こうして目を閉じて「良いよ」と言わない限り、触れない。
時々歯痒くもなるけど、大事にされている感じがして、俺はこの儀式が好きだった。

何度か触れるだけのキスを交わした後、自分達以外に誰もいないと言うこの状況であれば、もう少し深くなる筈のそれは、不意に中断されてしまって、俺は顔を離してしまった水谷を見ようと瞼を押上げた。
「水谷?」
「ゴメン。用事、済ましちゃって良い?」
物足りなさをこめた呼びかけに、水谷は申し訳無さそうに眉を垂れて、俺に向かって拝むように片手を上げた。
「……どうぞ?」
お前もそんなに我慢して、一体俺の家に何の用だよまったく。
不機嫌を練り上げた俺の言葉に、水谷はもう一度謝った。



一体どこで教わったのか調べてきたのか、仏壇の前にちゃんと正座した水谷は、線香を灯し、りんを鳴らすと手を合わせて目を伏せた。
ちょっと吃驚するよなー……
これまで家に来た事は何度かあるけど、大体俺の部屋に直行だったし、水谷にこの部屋の事は言った事は無かった。

俺の母親の事は、結構前に聞かれて答えた。
普通、両親が揃って居るって事は当たり前だと思ってた。
だけど、その俺の固定概念を覆す出来事が起こった時、俺達家族は全員どうしても埋められない穴を抱えた。
それは普段は忘れていられるのに、時々、何かをきっかけにしてその存在を主張して、俺達をさいなむ。
俺は何をそんなに熱心に祈っているのか分からないけれど、じっと祈り続けている水谷の背中を見ながら、今日の自分の心の不快の原因に行き当たった。
そうか──もしかしたら弟の熱も、遠い原因にそれがあるのかも知れない。
何か考え過ぎたんだろうな、きっと。

「水「栄口」
俺が呼びかけようとした声に重なって、背中を向けたまま顔を上げた水谷の声が俺を呼んだ。
「何?水谷」
俺が後ろに居た事知ってったのかな。そんなに大きくは無い声は、酷く落ち着いたものに聞こえて、俺は鼓動を小さく跳ねさせた。
「ちょっとこっち来て」

右手を突いて半身を捻り、俺の立っていた背後を肩越しに振り返った水谷は、いつもの華やかな笑顔で俺を手招きした。
「何だよ、足でも痺れた?何だか知らないけど、熱心にお参りして……」
「ちょっと手、貸して?」
座布団の上で体の向きを変え、仏壇に左半身を向けた水谷は、正座の姿勢のまま俺の顔を見上げて小首を傾げた。

何がしたいのかさっぱり分からないけど、俺は断る理由も無くて右手を差し出すと「両手」と不平を言われ、子供じみた仕草で口を尖らせた水谷の額を小突いてやろうかと思いながら、言われた通り両手を差し伸べてやった。
すると水谷は俺の手に片手づつ自分の手を宛がって握り、ゆっくりと立ち上がった。
どうやら痺れていた訳ではないみたいだけど、一体何がしたいんだろ?
「水谷?」
「あのね、俺栄口のお母さんにお礼言ってたの。栄口を生んでくれてありがとうって」

座布団の高さ分、更に高い位置にある水谷の顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。
何?
「俺ね、栄口と出会えて凄い幸せなんだ」
何だよそれ……
固まってしまった俺に向かって、水谷は静謐って言葉が似合いそうな目を閉じ、顔を寄せてきた。
キスするつもりは無いのは、その体勢で分かる。
細心の注意を払って優しく触れ合わされた額に、水谷の温もりが灯った。
「だからさ、俺にこんな幸せをくれた栄口のお母さんに、どうしてもお礼が言いたくなったんだよね……急にお邪魔しちゃってごめんね?」

うっわもう、こいつどうしてやろう!
いきなりそんな事言われたりしたら……
「それからもう一つ。栄口も、生まれてきてくれてありがとね」
静かに囁かれた言葉と、額と手で感じる水谷の温かさに、俺は込み上げた涙を堪えることなく流した。
俺が水谷の誕生日に送ったものと、同じ言葉を返された。
ただそれだけといえばそれだけなんだけど、俺が生まれた日、普段は形を潜めている埋められない穴を思い出させるその日はもうあと数日だ。
「これからさ、俺、出来るだけ栄口のこと幸せに出来るように頑張るね。俺は栄口と出会えて幸せだもん。だから、少しでも栄口にも幸せになって欲しい」

そんな事を囁かれて、俺は体中から力が抜けそうだった。
触れ合わせていた額を離すと、俺は水谷の肩に顔を埋めた。
「栄口?」
握っていた手を放して、水谷が優しく俺の肩を支えた感触に、また涙が零れた。
「ばか水谷……いや、バカ谷」
「ええ?何それぇ!」
俺が低く囁いた言葉に、水谷が不満そうに体を離そうとしたのを、俺は水谷の背中に手を回してしっかりと掴んで阻止した。
こんな顔見られたく無い。

「俺だって、お前に幸せになってもらいたいんだよ、バカ谷」
水谷の肩にもっと深く顔を埋めながら、心の中の穴を吹き抜ける風が、今まで感じていた冷たさを緩めたのを感じた。
それと同時に、水谷も体を強張らせたのを感じて、俺は容赦なく水谷の服で涙を拭った。
泣かされた仕返しになら、これくらいは構わない筈だ。
ちょっと目元が赤くなってるだろうけど、俺は構わずに顔を上げて、俺を見下ろす水谷の、驚いたみたいに瞠った目を見つめた。
「何で、二人で一緒に幸せになろうって言わないんだよバカ谷。俺だけ幸せになっても、全然意味無いんだよっ!」

暫くの間俺の言葉を理解できなかったらしい水谷は、少しづつ顔を赤くしていって、俺は人間がユデタコになっていく様子を観察する事が出来て、正直ちょっと面白かった。
完全に頭が真っ赤になったところで、水谷は俺の背中に回していた手に力を込めて、ゆっくりと俺を抱き寄せた。
それに併せて俺も水谷の体を腕の中に囲い込んで、苦しくならない程度に力を込めて抱きしめた。

こんなに優しい、愛しい奴を、誰が好き好んで手放してやるもんか。
いつもいつも、俺の事をこんなに幸せにしてくれる奴に出会える機会を与えてくれた神様と、俺達には想像も付かない苦痛を乗り越えて生み出してくれた母さんに、心の底からの感謝を捧げた。
「さかえぐち……」
俺の耳元に顔を埋めていた水谷が、躊躇いがちに、けど、優しさに満ちた声で囁いた。
「ん……何?」

まるで猫がじゃれ合うみたいに、お互いの首筋や肩に額や頬を擦りつけながら問い返すと、首筋に音を立ててキスされた後、少し顔を離して水谷は本当に嬉しそうに笑った。
「誕生日、おめでとう。ちょっとフライングだけど、ね」
少し鼻声で放たれた祝福に、俺はまた涙が出そうになった。
ありがとうと、声に出して返したかったけど、きっと無様に声が震えると思った俺は、返事代わりに自分から水谷の唇に自分の唇を触れ合わせた。








どうしても埋められない穴がある。
普段は忘れていられるけれど、時々、本当に時々その存在を忘れさせない為に、風を呼び込み、内をひどく抉る。
その痛みには、いつまで経っても慣れる事は無い。

けれど、今は少し違う。
その痛みをもたらす風は、同時にまるで初夏の風のような確かな温もりと、優しさを併せ持つ風を呼び込む。
そして、抉られた痛みを撫でさすり、そのくすぐったさに痛みはすこしばかり形を潜める。

俺はきっともう、母さんの事を思い出しても辛いと思うことは無い。
ただその優しさと懐かしい思い出に時々浸るだろうと思う。

心地良い腕の中で、俺は最高の誕生日プレゼントを抱えながら、優しさと懐かしい思い出、そして言葉に表すことも出来ないほどの幸せに浸った。






(2008.6.8)
栄口君ハッピーバースデー!
無くす怖さを知っているからこそ、自分から手を伸ばせない彼にも、吹き込んでくる風は優しかろう、と。水谷は何となくイメージが風。栄口が水です。