夢の庭

『俺さ、殺しに来たんだ』

目の前に立つ見覚えのある人影から放たれた言葉に、花井は喉を小さく引きつらせた。

『気付いてたんだろ?』

穏やかに紡がれる言葉には何の気負いも感じられず、それが余計にぴりぴりとした緊張感をうかがわせた。

『俺は殺しに来たんだ。お前──……





まるで首でも絞められていたかのように、鋭く空気を吸い込みながら目覚めた花井は、急激に浮上した意識に戸惑いながらも、全身に帯びた冷や汗の不快感に気付いて眉間に皺を寄せた。
枕元に置いてある、目覚まし時計代わりの携帯の背面ディスプレイに浮かびあがる時間は、まだ起床するには少し早い時間を告げていたが、緊張から早鐘を打つ心臓が落ち着きを取り戻せない事を知っていた花井は、ベッドの上に身を起こすと、傍らの勉強机に備え付けたスタンドの電気を点けた。

急に閃いた目をさすような鋭い光に、実際痛みを覚えながら瞼を動かすと、眼球を潤した涙が眦に滲んだ。
もう何日、同じような夢を見ているだろう。
目を覚まし、時間を経る毎にどんな内容だったのか忘れてしまうのに、目の前に立ちはだかった人物の正体だけは、妙な確信を持って理解していた。

花井は溜息と共に布団から抜け出し机の前に座ると、鞄の中から勉強道具を取り出す。
この夢を見た後はもう眠れない事を、この所の経験から良く分かっている。
仕方なく授業の予習をするための道具を広げながら、少しづつ夢の記憶を頭の中から閉め出していく。
広げたノートにシャーペンを走らせながら、それでも胸の中にわだかまっている想いに、胃が重くなった。

この夢を見始める前に自覚した想いを、花井はどうやっても消化することが出来ず、ずっと苦しんでいた。

今、胸の内にあるその感情に名前をつけるとすれば、それは恋と呼ばれるものだと、十人に問えば十人が答えるだろう。
もし、自分が誰かに今の自分のような状態をどういうのかと尋ねられても、きっと恋煩いだ答える。
夢のことは忘れられても、意識がある間の殆どの時間頭を占めている思考に動揺し、ノートに書き写していた教科書の内容を書き損じた事に舌打ちすると、乱暴な仕草で消しゴムを走らせる。

この想いを自覚した時がいつなのか、花井ははっきりと覚えていた。
最初の出会いの時、その体の小ささを目にして、サードで四番を張っていたという彼の事を鼻で笑った事が少しばかり懐かしい。
そんな彼の見せる、共に愛してやまない野球の技量に張り合い、自分を見せつけ淘汰しようとしていたあの頃、そんな自分の試みをあざ笑うかのようにはるかな高みから見下ろす彼の翼に憧れた。

天賦の才。

その一言で片付けてしまう事が出来れば、きっと今の苦しみは生まれなかっただろう。

例え陰に篭ったやり方であっても、彼を嫌う事が出来た。
そう確信できる。
なのに、彼のあけすけな行動や、裏表の無い性格と人当たりの良さ、重ねる努力に触発され、自分だけでなく、チーム全体の精神的なポテンシャルは引き上げられ、数ヶ月前の自分達ならお題目程度に掲げたであろう目標を、掴む事の出来る確実な目標に据えさせた。

本来なら、そういったものの要として自分があるべきなのだろう。
けれどそれは叶わない。
否、叶えられない。
目の前にそびえ立つ壁を目の前に立ち尽くす自分には、そんな事は到底無理だった。
手を掛けることすらせずに諦めるか、自分自身に言い訳をする為におざなりなアクションを起こして終わり、とする事を良しとする。
そんな自分の性格を理解しているからこそ、高校最初の夏が終わりを迎えた後、自分自身を変えようと慣れないポジションにチャレンジする事を決めたりもした。

けれど、自分では彼に──田島になれはしない。

忘れもしない夏の初戦、雨の中の桐青との試合。
彼が自分の身を痛めてまで打ってくれたあの時、ネクストサークルで、誰よりも間近で見たあの瞬間の背中に、どうしようもないほどの渇望を覚えた。

嫉妬や羨望ではなかった。
自分が田島に惹き付けられるように、彼にも求めて貰いたいと思った。
チームの誰でもなく、ただ田島にだけ認めてもらい、唯一無二の者として欲して貰いたいと考えた。
けれど、その瞬間に醒めた思考の一部は、そんな弱者のような思考を叱咤した。

それから数日、怪我を理由に四番という打席から離れた田島の代わりにその打順に立った時、中学時代とは格段に違うその重責に押し潰されそうになった。
大きすぎる田島という存在、打つ事を当然視される打順、チームメイトや監督からの期待。
それらのプレッシャーを己の双肩に感じた時、改めて田島の凄さを感じた。
決して正面から田島に伝えられない感慨を振り返りつつ、試合中や試合後に会話を交わし、アイスに釣られて走り去る彼の背中を見たときに、自分が考えもしなかった感情が芽生えていた事に気付いた。

それだけなら、きっと一生胸の内に仕舞い込んだままでいられた。
田島という存在を希求しているのは紛れもない真実だったが、彼や、他の仲間とする野球が何よりも大事だと、まだ自分を誤魔化すことが出来た。



けれど、今はそれが出来ないでいた。








その視線に気が付いたのは、秋も深くなった頃の事だった。
開始時間は少しばかり遅くなった朝練で汗を流していても、廊下や教室で顔を合わせた時、さり気ないものではあったが、最近田島の視線が自分に注がれる事があった。
何か用でもあるのかと、気付いたときに声を掛けてみても、なんだかんだとはぐらかされてしまい、笑顔を振りまかれる。
向けられる視線と全く違う、その朗らかさに自分も誤魔化された振りをして見せていたが、それが一月以上も続けば、相手に対してやましい感情を抱いている身としては、それを看破されたのかと体の深奥が冷えた。

それが引き金になったのだろう。
この所、同じような夢を見る。
酷く重く、苦しい夢で自分に語りかける相手の顔は、いつも田島の顔をしていた。

何を話しかけられているのかは、いつも起きてから一時間もしないうちに忘れ去ってしまっているが、追い詰められている事だけは分かる。
夢は自分の心を映すというが、野球や勉強の事、そして田島に向ける感情や田島からの視線に、軽い不眠に陥るまでに追い詰められているのかと思うと、少しばかり情けなくなる。
それほど弱いと思わない神経なのだが、時として体は自認を裏切るらしい。
花井は気だるい体を引きずるようにして、昼の屋上に向かった。

セーターを着込んでいても、吹き付ける風は穏やかな冷気を孕んでいて、タオルで覆った頭と襟の隙間を埋めようと、無意識に首を竦めた。
誰か一人でも先客がいるかと思ったが、もうそろそろ冬と呼ばれる季節が迫っている所為か、のどかな鳥の鳴き声が響くそこは、僅か2メートル足らず下の足元に、沢山の生徒を飲み込んでいると思えないほど静かで、重い鉄扉を重厚な音と共に閉めると、もう現実とは隔絶された世界になってしまった。
花井は小さく溜息を吐くと、南向きの壁に向かった。

階段の踊り場を覆う為だけにある、まるで小屋のようなそれを回りこみ、日当たりの良い、春や秋口には多くの生徒で賑わい、野球部のメンバーで揃って昼食を取ったこともある場所に巡り着くと、その時のことが思い出された。
全員で笑いあい、他愛もない話をしながら近くの者の弁当のおかずを貰ったり奪われたり、無邪気にじゃれあった記憶に、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
けれど、今はそんな感傷に浸っている時ではない。

午前中は何とか堪えたが、夢による寝不足は思ったよりも深刻らしく、今日は船を漕ぐだけで済まなくなってしまい、騒がしい教室ではなく、少しでも静かであろう屋上で仮眠を取ろうとわざわざ来たのだから、時間が許す限りは休息を得ようと、床面にじかに座り込むと、太陽に照らされて温められた壁に背中を預けた。

腕を胸の前で組み、吐息と共に目を閉じると、途端にさざなみのように眠気が襲い掛かってきた。
空腹よりも眠気、と、昼食を取らずにここに来たが、事前に同じクラスのメンバーに寝過ごしてしまわないよう携帯に連絡を入れてもらうように依頼しているため、今は何も考えずに体の欲求に身を任せた。
そんな時、自分が閉じた鉄扉が開く耳障りな音がして、誰かが屋上に姿を現した気配がした。

その人物も一人らしく、扉の開閉の音だけがして、花井は眠気を追いやるべきかという心配りを放棄した。
もしかしたら誰かと待ち合わせでもしているのかもしれないが、北向きの出入り口とは反対の位置にいる自分に向こうは気付かないだろうから、こちらの事は無視してもらおうと決め込んで、花井は意識を更に深い場所に沈み込ませようとした。
けれど、向こうは誰かあてがあったのか、段々と足音がこちらに近づいてきた。

目を開け、会釈でもするべきかと思った矢先、壁を回りこみ、すぐ近くに立った相手の声に花井は動けなくなった。
静かに、何故か怯えを含んだ声音は田島のものだった。
「はない?」
聞き間違いとも取れるような最初の問い掛けと違い、こちらに意識があるのかどうかを問い掛ける声だったが、恐怖に近い動揺は呼吸すら止めてしまうのではないかと思うほど激しく、花井は空気が伝える田島の存在感に肌を粟立たせた。

全身に、田島が時折こちらに向けるものと同じ鋭い視線が刺さるようだった。
傍らに座り込んだらしい田島の手が、赤ん坊に触れるかのような慎重な手つきで頬に添えられる。
添えられたといっても、頬と手のひらの間に僅かな隙間を作り、その空間を伝ってくる田島の手のひらの熱から、その距離の短さが分かるという状況なのだが、田島の意図が全く読めず、花井はともすれば震えだしそうになる体を支えるので精一杯だった。

触れない事に神経を使っているらしい田島は、張り詰めていたらしい息を吐き出したようだった。
早鐘を打つ心臓に促されて、瞼を薄く押上げようかとしたとき、田島の手が下ろされた。
「俺さ、殺しに来たんだ」
鼓膜を震わせた言葉に、背筋を何かが駆け抜けた。

「気付いてたんだろ?」
自嘲の笑みらしい吐息を洩らした田島が、今どんな表情をしているのか見たかった。
けれど、見てしまってはいけないとも思う。
これは田島の独白だ。
それを黙って聞いてしまうことへの罪悪感はあるが、彼が何を自分に向かって言うつもりなのか知りたかった。

これは、自分と田島だけが知る秘密になるだろうからだ。

体中の細胞が、それを求めてうごめいているようだった。
背筋を伝った不可思議な感覚は、いつもは自分を支配している理性を蕩けさせ、貪欲な欲望に主導権を握らせている。
常に無い感覚に酔い、身を任せながら、愛おしいと思う相手の言葉を待った。
聞かせて欲しい。
そう願った瞬間、田島が短く息を吸い込んだ。



「俺は殺しに来たんだ。お前の事、好きだっていう気持ち」



自分の身をなげうってでも得たかった言葉は、しかし静かな諦念を教えてくれた。

喉から手が出るほど聞きたかった言葉だというのに、それを耳にした瞬間、自分の中の気持ちは口に出来なくなってしまっていた。
「好きだよ、花井」
友情による好意ではない、熱を帯びた告白に踊る心臓とは裏腹に、その感情を殺すといった田島の言葉に、小さくて大事だった灯火は吹き消されてしまった。

「ごめんな」

小さな呟きと共に田島が立ち去る気配がして、暫くするとまた鉄扉が開閉する音が響いた。
背中にした壁の向こう側、階段を降りて行くかすかな足音に耳を澄ませながら、花井は目頭に昇った痛みに涙をこぼした。



(2008.11.09)
葉良湖牧さん、hitリク。切ないんだけれど甘いタジハナ。
オフにしようと思っていたネタとかぶさってしまった為、許可を頂いて、続きをオフ本にさせていただきました(^^;)葉良さん、ありがとうございました!