許しの秘蹟

「ねーねー阿部ー?」

午後の気だるい空気の満ちた教室の中、昼食を終えて手にした雑誌を片手に、椅子の背もたれと机を肘置きにするようにして座っていた阿部は、同じクラスにいる部活仲間、水谷の眠たげな問い掛けに、眉間に小さな皺を刻んだ。
「あ?何だよ」

夏の大会真最中、膝に負った怪我の為、部活に参加できないフラストレーションが溜まっている阿部は、このところずっと機嫌が悪かったが、水谷はそんな事など気にも留めず、阿部の席の後ろに陣取り、頬杖をついて窓の外を眺めていた。

夏真盛りの為、グラウンドには人影一つ無く、蝉の鳴き声だけが絶え間なく続いているのを、ぼんやりと眺めている様は、頭の大事な線が切れたか、変な電波でも受信しているように見えて、阿部は眉間の皺を深くした。

それに気付いたのか、水谷はゆっくりと阿部を振り返った。
「阿部ってさぁ、三橋の事好きだよね」

水谷の言葉に、めくろうとしていた雑誌のページが、いい音をさせて割けた。

「それも、友達じゃない方の」

「いい加減にしろよ、水谷……」
阿部は機嫌の悪さに怒りと羞恥を混ぜ込んで、水谷を上目遣いに睨みつけたが、いつもなら悲鳴を上げて逃げている筈の水谷は、引きつった笑いを浮かべながら、阿部の顔を見据えていた。

「そんなに睨まないでよォ……別に言いふらす訳じゃないからさぁ」

阿部が肯定も否定もしていないにも関わらず、水谷は眠たそうに小さな欠伸をすると、机の上に上半身を投げ出した。
「俺も、好きな奴がいるからさ、分かるんだよね」
友人のいきなりの告白に、阿部は少し興味をそそられ、割けたページを千切りかけた手を止めた。

阿部は水谷の言う通り、同じ野球部に所属しているピッチャー、三橋に対して、そういう感情を持っている。

自覚してまだ間もないが、自分の中に、同性に対してそういう感情を持てる部分があった事の驚きと、自覚と共に芽生えた強烈な独占欲とに、頭の中も心の中も、ぐちゃぐちゃになっていた。

今、自分の横に居るチームメイトが、どこの誰の事を言っているのかは分からない。
でも、いつもと全く違う様子を見ていると、水谷がどれだけその相手の事を思っているのかは、解る気がする気がする。

「でね、一つ頼みがあるんだけど」
「ああ?何で俺がお前の頼みを聞かなきゃなんねぇんだよ」

解る気がしても、それに協力するかどうかは別問題だ。今は自分の事で手一杯だ。

「お互いの利害が一致しても?」

水谷の言葉に、阿部は片方の眉をぴくりと上げた。

「って事は、お前の好きな奴は、三橋に気があるのか?」

今までは考えた事も無い、でも、ありえない訳ではない話に、阿部は誰に対してとも無く怒りが湧き上がってくるのを感じた。
「うん。その通り」
顔を上げてにっこり笑った水谷の頬を抓ってやりたい衝動に駆られながら、阿部は視線で先を促した。



「誰とは言えないけどさ、そっちにあんまり構わないようにするからさ、その代わり……」



「その代わり?」

珍しく言いにくそうに、視線を泳がせた水谷は、暫しの逡巡の後、まるで何かの儀式のように深い呼吸と共に瞼を閉じると、口を開いた。

「俺が三橋を傷つけるような事を言っちゃった時は、フォロー頼んで良い?」

騒がしい筈の教室の中、静かな気配が周囲を満たしていて、言い終わるや、また窓の外に視線を向けた水谷に向かって、阿部は掛ける言葉を見つける事が出来なかった。

「あーくそ。先生ももうちょっと融通利かしてくれ……おう、どうした?阿部。深刻そうな顔して」
昼食の後、顧問である志賀に呼び出されていた花井が、戻ってくるなり阿部と水谷の周囲の空気の異変に気付いて、訝しげに眉をひそめた。

「あ?何でもねぇよ」
「あー、お帰りぃ。シガポ、何だったの?」

もういつもの笑顔を浮かべた水谷に気を取られた花井だったが、予鈴が鳴り始めると同時に教室に駆け込んできた田島に、「グラマーのノート貸して!」という言葉と共に背中に飛び掛られ、その応対に苦慮していた。
「水谷」
それを静観していた阿部は、傍らで声を上げて笑っている水谷に向かって、他に気付かれないよう、小さく声を掛けた。
「頑張れよ」

「……うん、サンキュ、阿部!」

仮面じみた笑顔ではない、心の底からの笑顔を浮かべた水谷は、阿部に抱き付こうと手を伸ばして、手加減無しのデコピンを喰らう羽目になった。






視線を書いている最中にフラグが立った。
本誌の方で段々と活躍を見せている水谷君は、私と一月違いの誕生日。(クロエは二月)
フミキングは明るいおばかのイメージなのですが、時にはこんな風に、考えて考えて、どうしようもない想いに弱音を吐いて、誰かに慰められているのではないかなぁ……と思ったのです。