we wish -1- 「は、ハマちゃん……助けて……」 「はぁ?!」 目を潤ませ、頬を赤らめた昔馴染みの言葉に、浜田は心の底からうろたえた。 7組の教室の中は今、一人の核弾頭を抱えて、クラス全員が固唾を呑んで成り行きを見守っていた。 1時間目が始まる前、暖房が欠かせない時期になっているが、教室の中の気温は、それを上回る恐ろしい程の冷え込みを見せている。 核弾頭を唯一なだめる事が出来そうな人物を、クラス全員が注視しているが、何とか出来そうな人物、こと西浦硬式野球部主将、花井梓は、クラスの誰よりも核弾頭こと阿部に近付きたくなかった。 「ア、阿部?何かあった……に決まってるわな……」 「あぁ?」 背後に渦を巻く妖気を纏いながら、自身の席に座り、額の前で組んだ手で隠していた顔を上げた阿部は、機嫌の悪さを隠そうともせず、花井の顔を見上げた。 「何の用だよ花井」 その声を聞いただけで、水谷は小さく悲鳴を上げて、教室から逃げ出して行き、篠岡も、何事かという顔でこちらを見ている。 花井は大きく溜息を吐くと、多分、地雷につながる言葉を口にする事を決めた。 「三橋に、何かあったのか?」 一応気を使って声を潜めた花井だったが、阿部の頭に大きな角が生えた幻覚を見たかと思うと、拳が机に叩き付けられた大きな音に体を強張らせた。 「うるせぇっ!黙れっ!」 (毎度の事ながら……) 阿部の怒声に教室に居た全員が驚き、肩を竦める中、花井は天を仰いで、阿部の不機嫌の原因であるピッチャーの顔を思い浮かべた。 (ある意味、三橋もスゲェ奴だよなぁ……) ほわんとした印象の顔が浮かんで、花井は大きな溜息を吐いた。 結局午前の授業中、ずっと妖気を放ち続けた阿部は、教師すら慄かせたまま昼を迎えていた。 流石に天気のいい日でも、屋上で食べるには寒い時期なので、近頃は野球部員全員が、ほぼ夫々の教室で昼を食べている。 「んで?実際何があった訳?」 怯えきった水谷に連れてこられた例外、栄口が、春の陽だまりを思い起こさせる穏やかさで尋ねると、幾分気を殺がれたらしい阿部は、眉間に深い皺を刻んだまま、低く唸った。 「朝学校来て、荷物置いてから9組の教室覗いたら……」 そこまで言ったところで、思い出したかのように阿部の妖気が密度を増す。 「……思い出したらまたムカついてきたから、絶対ぇ喋らねぇ」 手にしていた購買のパンをぐしゃりと握りつぶすと、阿部は犬と言うより、狼の凶暴さで再び唸り始めた。 花井と栄口は顔を見合わせると、互いにアイコンタクとを交わし、心底怯えた水谷は、地雷を踏むまいと、おかずを口に入れて沈黙を守った。 新設の野球部にとって、大切なバッテリーだと言うだけでなく、栄口は同中のよしみ、花井は主将として、また、おおっぴらにできない秘密を共有する友人として、阿部の事を心配していた。ただ、二人がもっと心配になるのは、バッテリーの片割れ、ピッチャーの三橋の事だった。 中学時代の辛い思い出や、生来の大人しさ、野球以外の事への引込み思案等から、三橋は他人に対して、ひどく臆病で、真剣に怯える。なのに、野球部一口の悪い阿部と組む事になり、初めの頃は、バッテリー以外のメンバー全員で、二人のやり取りを監視するような事もしていた。だが、高校球児憧れの舞台である甲子園を目指して時間を重ねるうちに、二人の間にも、次第に目に見えない絆が芽生えて来た事は、誰の目にも明らかで、三橋も、阿部との付き合い方を少しづつ学び、周囲の者も胸を撫で下ろし始めた矢先のこの騒ぎに、主将と副主将は大きな溜息を吐いた。 「はーないー!リーダーのノート貸ーしてー」 底抜けに明るい声がして、パック牛乳のストローを口に含んでいた花井の背中に、小柄な人影が抱きつき、不意の攻撃に隙を突かれた花井はストローを吹き出した。 「こらっ田島!」 「よっ!栄口、今日は7組で飯か?」 叱られている事など全く気にも留めず、隣り合わせた机を囲むメンバーに向かって、田島は全開の笑顔を浮かべた。 「まぁ、ちょっとね……なぁ、田島。今日、三橋どう?」 不機嫌極まりない阿部を目にしても、何ら怯みも怯えもしない四番に感心しつつ、栄口は何気ない調子で尋ねた。が、その瞬間、田島の顔に、かつて見た事も無い強張った表情が張り付き、尋ねた栄口だけでなく、花井も水谷も、阿部ですら目を瞠った。 「田島?」 「……花井、ノート」 「へっ?」 「のーと!」 怒ったように言った田島の勢いに呑まれた花井が、机の中から要求されたノートを取り出し、手渡すと、彼は固い表情のまま、短く礼を言うや否や、脱兎の如く7組の教室を後にした。 「え〜〜っとぉ……」 何が起こったのか理解できなかった栄口が、そう口にした途端、互いに向かい合う形で座っていた阿部と花井が、椅子を蹴散らさんばかりの勢いで立ち上がり、机に片膝を突くと互いの胸倉を掴み合った。 「花井ィ!!テメェも何か知ってんのか!?」 「阿部こそ三橋に何したっ!?三橋の事聞かれて、田島があんな顔するなんて絶対ぇおかしいだろっ」 教室内に響く怒声に、7組は花井までもが怒り始めた事に驚き、栄口は泣いて縋る水谷を残して自分のクラスへと戻って行った。 「まず、事の発端を考えよう。阿部、今朝9組の教室で何があったんだ?」 試験前、最後の授業を終えた花井は、終礼を終えるやいなや、9組の教室に飛んで行きそうな阿部を捕まえると、そう詰め寄った。 昼の出来事で、彼もかなり思い悩んでいたが、その遥か上を行く憔悴振りを見せる阿部をこのまま行かせては、三橋の命に関わるのではという思いが、自分も行きたい気持ちを何とか押さえ込ませていた。 「……花井……俺、三橋に嫌われたのか?……」 妖気の中に疲れを滲ませた阿部は、自分でも分かっているのだろう、花井の言葉に大人しく従い、自分の席に座ると、そう小さく呟いた。 「俺に分かるわけねぇだろ。それより、本当に今朝、何があったんだ?」 すげもなく阿部の問い掛けを一刀両断した花井は、阿部の机の前の座席に座ると、不機嫌な溜息を吐いた。 「俺だって、田島の事が気になるんだから、知ってる事全部喋れ」 花井の言葉に、阿部は教室の中に残っているのが自分達だけである事を確認して、重い口を開いた。 「いつも通り学校来て、荷物置いてから、ちょっと喋りに9組の教室行ったら、三橋が……」 「三橋が?」 花井は再び漂い始めた妖気に怯みつつ尋ねると、阿部は眉間に深い皺を刻みながら、苦々しげに口を開いた。 「半泣きになりながら、浜田に抱きついてた」 花井は心の中で絶叫しつつ、驚き強張った顔で傍らの阿部を見た。 (確かに、それなら阿部の不機嫌の理由も理解できるな……) 自分の立場に置き換えて考えた花井は、小さく唸った。 阿部はバッテリーを組む投手、三橋の事を、恋愛感情を持って見ている。 同年代の同性愛に、以前の自分なら拒否反応を示すだろうと思いながらも、同じく同性にそう言った感情を持たれ、それに応えた花井は、阿部と同じように頭を悩ませるしか無かった。 花井の恋人となった人物、それもまた同じ野球部員で、チームの頼れる四番であり、控え捕手でもある田島だった。 色々と悩んだ時期もあったが、自分の気持ちに素直になり、全てを受け入れる心構えのようなものが出来た今は、実はかなり幸せだった。だが、田島が自分以外の人間に、真剣なハグでもしようものなら、花井にも今の阿部のようになる自信がある。 「でも阿部……お前の気持ちは、もう三橋に言ってあんだろ?だったら……」 花井の言葉に、阿部の肩が盛大に跳ね上がった。 その反応に、花井の眉が歪む。 「え?阿部……まさか……」 「うっせえな!黙れよ!」 阿部の言葉に、花井は大きな声を上げた。 「お前、人にはあんだけ焚きつけるような事言って、宣言までしたのに……!」 「いい加減にしろよ花井ぃ……あの写真、部員全員に詳細付きで回すぞ」 「てめぇ!まだ消してなかったのか!」 花井は柳眉を逆立て、顔を真っ赤に茹で上げながら、阿部の携帯を取り上げようと立ち上がった途端、教室の扉が開けられ、田島が姿を現した。 「花井―、ちょっと良いか?」 「田島?」 いつものようにずかずかと入って来ない田島の様子に、花井は訝しげに頷き、扉から手招きする田島の元に向かおうとすると、荷物を持って来るように指示されて、花井は阿部を振り返った。 「ああ、もう良いよ。さっさと帰れよ」 視線だけの問いかけに、阿部は犬でも追いやるように手を振ると、大きな溜息を吐いて目を閉じた。 「お、う……じゃあお先」 花井の声に滲んだ喜びに、阿部はこめかみの血管が痙攣するのを感じた。 (お幸せそうデスネー) 教室の中から人の気配が消えるのを感じて、阿部はそう心の中で呟いた。 二ヶ月ほど前、田島からの告白に尻込みしていた花井を焚きつけたのは、確かに阿部自身だった。 阿部が大事に思っている三橋は、人付き合いが苦手なのだが、最近は、野球部員相手ならそれほどびくつく事も無く付き合っている。そして、主将である花井や、もう一人の副主将、栄口と親しげに話したり、同じクラスの泉や田島と楽しそうにじゃれあう姿を見ていると、三橋と普通の友人同士として付き合うことすら難しい阿部にとっては、三橋に近付くもの全てが敵のように思えてきてしまう。 その排除にと、花井と田島を炊きつけ、くっつけたのは良いが、いざ自分がとなると、意外な難しさに立ち竦んでしまっていた。 一ヶ月程前、三橋が熱を出して倒れた事があった。 その時、両親が二人とも出張に出ていた三橋の看病の為に、阿部が泊まりこむ事になり、色々と世話をしていた夜、三橋自身から「阿部君を下さい」と言われた事は、脳幹に刻み込まれている。 なのにだ、と阿部は眉間に皺を寄せた。 翌朝になって熱の下がった三橋は、前夜の発言など無かったかのように阿部を平然と送り出し、その後も、返事の確認をしてこなかった。 相手が熱を出していた事や、半分以上寝ぼけていた事も分かっている。 だが、確かにこの耳で聞いた以上、もう一度三橋自身の口から聞きたかった。 そう思って手をこまねいている内に、どんどんと時間は過ぎて行き、今に至ってしまったのだ。 もちろん、自分から話を振って確認してみようともした。が、隠し事をしていればすぐに行動や顔に表れる三橋が、特にそんな素振りを見せる事も無く対応して来て、阿部は自分の記憶を疑い始めた。 そして、今朝見た衝撃のシーン。 三橋は、浜田に惚れているのではという疑念が、三橋に嫌われているのではという疑念に追い討ちを掛ける。 野球を教えてくれた昔馴染みで、三橋が怯えない、数少ない人物。 ダークホース的な存在の出現に、阿部の頭の中は混乱した。 「くそっ、何でこんな事になんだよ……っ」 阿部の苦しげな言葉は、空っぽの教室の中に、滲み消えた。 NEXT→ |