パシエンシア! -2-


西浦高校硬式野球部には、とある派閥がある。

篠岡千代派と三橋廉派である。

一方は明るくて良く気が利き、くるくると働く頼れるマネジ、もう一方はバッティングピッチャーを勤めるなどしてくれるが、物凄い人見知りとキョドリの、ドジを繰り返す守ってあげたいタイプ。
前者に属するのは栄口、巣山、西広、花井。後者に属するのは泉、沖、田島、水谷のメンバーで、最後の一人である阿部は、何かというと部室で討論を始めたり、阿部の意向を問いただすメンバーに、そろそろ嫌気が差していた。

「お前等なぁ……俺はどっちでもねぇって何回言えば気が済むんだ!」
「阿部こそ、さっさと吐いちまえ!」
「そうだよ、大した事じゃないんだしさぁ」
練習着に着替えている最中の問答に、阿部はまだ言い募っていた田島と水谷の頬に手を伸ばすと、目一杯の力を込めて抓り上げた。
「そういえば、もうすぐ二月か。バレンタインの季節だね」
田島と水谷の悲鳴など聞こえないかのように、西広がポツリと呟いた単語に、西広以外のナイン全員の肩が跳ねる。

バレンタイン……

高校一年生のメンバーにとって、去年は受験前であった事もあって今年こそは誰か家族以外から貰いたい、という気持ちは割合い高かった。だがしかし、モモ監の指導の元甲子園を目指す事に重きを置いていた為、誰一人として彼女を作った者は居ない。
あるかないか分からない、義理チョコに期待を寄せるしかない状況に、部室内の空気が幾分暗くなる。

「マネジの二人は、誰かに上げるのかな?」

沖が呟いた言葉に、全員──そう、阿部も彼を振り返った。
「何?あいつら彼氏居んの?!」
「え?誰々?クラスの奴?」
「ばっか、それなら俺も田島も気が付くっての。水谷も篠岡にそんな素振り無ぇのわかるだろ」
「うん、篠岡は学校ではそんな感じ無いよ?でも、もしかしたら別の学校の奴って事も……」
「げー!マジかよ!俺等置いてけぼり?」
「やっっかましいっ!!!!」

口々に沖に詰め寄っていた花井、栄口、泉、水谷、巣山に向かって、阿部は雷轟一喝、元々大きな地声で怒鳴り散らすと、驚いて固まってしまった他のメンバーを睨みつけた。
「俺等には関係無ぇだろが!ってか、さっさと着替えろ!時間無ぇんだから!」
余りの剣幕に主将すら気圧されて、メンバーが着替えに集中し始めたのを確認すると、阿部は息を吐き、自分も準備を整える振りをして、頭の中で渦巻き始めた問題に混乱した。

実を言うと、阿部は生粋の三橋派だった。
というか、マネージャーとしての三橋より、一個人としての、三橋──廉に惚れ込んでいた。
おどおどとこちらを見上げる時の上目遣いや、華奢な割に筋肉の付いた腕、稀に笑った時のふわふわした感じがたまらなく好きだと気が付いたのは、部内で篠岡派、三橋派が発生する前の事だ。

メンバーの話に気が気では無かったが、下手に首を突っ込んで廉に手を出すなと宣言する度胸も無く、藪を突付いて蛇を出すよりは、と今までだんまりを決め込んでいたのだが、もし、廉に誰か好きな相手がいると言うのであれば、そんな我慢は滑稽なだけだ。

最初はマネージャーとしてだけ野球部に入ってきた廉が、中学時代はプレイヤーとして野球部に所属していた事を知ったモモ監が、バッティングピッチャーを依頼したのが始まりだった。
その絶妙なコントロールと、変化球の多さに、捕手としての阿部の血が騒いだ。
投げるのが好きで、家で今でも時々投げていると言う廉のキャッチャーを申し出て、彼女の家を訪れ、本格的なピッチングをするようになったのは夏大が終わった頃だった。
抜け駆けというつもりは無かったが、秋になって篠岡派、三橋派の話しが出た頃にはもう廉に夢中になっていた為、恋心を抱く相手をばらしたくなくて今まで来てしまったが、それは誤った判断だったのだろうかと、どんどん思考は渦を巻き始めた。

その時、部室の扉がぎこちなくノックされ、蚊の鳴くような声が細々と届いた。
「あ、の、練習時間です、よー?」
「三橋かー?」
一番扉近くにいた田島がそう声を上げた瞬間、誰もが彼を止めようと手を伸ばし、息を詰めたが間に合わず、田島はトランクス一枚という姿のまま扉を開け放った。
「みんなもうちょっとだから、待っててな!」
『閉めろ田島ー!』
「ヒイィィヤァァァ!」
全開になった扉を挟んだこちら側は、まだ半裸に近い姿のメンバーが多く、皆一斉に絶叫し、廉は田島だけでなく全員のそんな姿を目にして悲鳴を上げた。

花井が慌てて扉を閉め、田島の頭目掛けて拳骨を振り下ろして説教をしているのを聞きながら、阿部の思考は停止していた。
上着は着ていたものの、彼もまた、下はボクサー一枚だった。



そんな事があったのが一月の末頃。
その日の練習が終わった後、部室での話を聞いていたのか居なかったのか、田島がマネージャー二人にチョコケーキをねだり、結局野球部のメンバーはそれで納得したらしい。
その後、誰もマネージャー二人の本命は?という話は切り出さず、静かな日々が続いていた。



「あ、の。阿部君?」
「っと、悪ぃ」
ミーティングだけで終わったある日、阿部は廉の家近くに来て、無意識に思考の渦に集中していた意識を廉に向けた。
練習は無かったものの、暗くなった道を一人で帰らせるのは心配で、いつも田島と二人、遅くなった時は家まで送り届けているのだ。
篠岡も、学校から最寄の駅まで巣山や西広がついて行っている。
全員少し遠回りなのだが、各派閥員にとっては苦にならないらしい。

同じようで少し違う理由で、同じく遠回りが苦にならない阿部は、一緒に自転車を押して歩きながら、何か話題を、と必死になって頭を巡らせた。
いつもなら田島が適当に話を振り、それに乗る形でどうにか話題を繋げるのだが、今日は家の用があって早く戻らなければならないからと、早々に自宅に帰っていた。

「そういえば、もうすぐバレンタインか……」
学校の授業の話、ミーティングの内容、天気の話と言うカードを、学校からここまでで使い切っていた阿部は、最寄りの行事というカードを切って、失敗したと内心舌打ちした。
あの一月の日以来、廉が誰かに本命チョコを送るのかどうかや、送る相手は誰だと考えるたびにどす黒い憎悪が漲ってしまって、気を抜くと顔に出てしまっているらしい。
同じクラスの水谷や花井は、時々近寄ってこない。

「今度の日曜日ね、千代ちゃんと、瑠里と三人で、家でチョコケーキ、焼くんだ。私あんまりやった事無いから、ちょっと不安なんだけど、ね」
そう言って笑った廉の顔に見惚れて、電柱に自転車をぶつけそうになったのを回避しながら、手作りケーキなんて誰にもやらず、ホールごと食べ尽くしてやりたいと言いたくなるのを飲み込み、阿部は楽しみにしていると伝えようと、口を開きかけたが、阿部より先に、廉がこちらを向いて真剣な様子でこちらを見上げてきた。
女の集団の中では少し飛び出たように思う身長は、阿部にとっては丁度いい高さだった。

「あの、ね、阿部君」
「何、三橋」
本当は心の中で呼んでいるように、「廉」と呼びたいところなのだが、付き合っている訳でも、告白をした訳でもないから、あまり変な事は出来ない。
「あの……もしかして、阿部君、甘いもの苦手?」
「え?何で?」

突然の質問の意味が分からず、思わず足を止めて質問返しをしてしまった阿部に、廉は思い切り肩を竦め、いつものおどおどとした調子で視線をあちこちにさ迷わせた。
「う、あ、あの、う、家にき、来た、時……」
「あー、怒って無い怒って無い。ちょっと驚いただけだ。ゆっくりでいいから」
廉の様子に襲い掛かりたくなる衝動を押さえる為、目を閉じてそう言うと、廉は深呼吸でもしているのか、少し時間を置いて喋り始めた。

「あの、ね?家に来てくれた時に、コーヒーとか出しても、砂糖入れてない、し、クッキーとかも、あんまり食べてな、い……」
目を閉じたまま聞いていると、段々語尾が聞き取れなくなって来たので目を開けてみると、ぼたぼたと大粒の涙を零し始めた廉の姿があった。
「何でそこで泣けるんだよ」
「ご、ごめんなさい……怒らせ、た……」
再び、落ちたら音がするのではないかと思うほど大きな涙を零した廉は、それ以上話せなくなったようだった。
阿部は溜息をつくと、理性を総動員して、ゆっくりと手を廉の頭に乗せ、子供をあやすように滑らせた。

「甘いものは苦手じゃねぇけど、得意でもねぇってだけ。あんま食べ過ぎても良い物じゃないしな。それに、人の家に遊びに行ってお菓子がっつける程、俺の神経は太く無ぇよ」
少し不機嫌そうに言い放った後、阿部は口元をたわめた。
それを見て、三橋は少し間を置いたものの、いつものほんわかした笑顔を浮かべた。

どうしても確かめたい事を、確かめるのは今しかない。
不意にそんな切迫感で一杯になって、阿部は何気ない風に装いながら、視線は遠くに向けて尋ねた。

「なあ三橋。本命チョコは用意すんの?」

「それは、ヒミツです、よー」

廉にしては珍しく、速攻で紡がれた返事に、阿部は一瞬固まった。
は?秘密?
なんだそれは?

「あ、じゃあ、この辺で。また、ね……」
顔に満面の笑みを浮かべた廉は、自転車を押したまま、少し先にある自宅の庭先へと入っていった。
けれど、すぐに振り返り、遠くからこちらに向かって一所懸命手を振る姿が目に入って、それに手を振り返してやりながら、阿部は今の出来事を理解するのにかなりの時間を要した。

まず話を整理しよう。

廉達マネジは今度の日曜、田島が強請ったチョコケーキを作る。
それには何故か、群馬の廉の従姉が参加する。
それを楽しそうに、廉は報告していた。
そこまでは良いだろう。

そして、廉は阿部に甘いものが好きかどうか聞いてきた。
それに答えて、廉が本命に送るチョコを用意するのかどうか、何気なく聞いてみた。
話の流れから、特に変に思われるような話の振り方では無い筈だ。いつもの廉なら、つっかえながらでも、用意するとかしないとかくらいは答える筈だ。
それなのに、秘密とは何だ秘密とは。

廉の姿が庭先の木立に隠れ、玄関の扉が開かれた証の明かりが再び消えるのを見届けると、阿部はおのれの頭がはじき出した答えにガタガタと体を震わせた。

廉は本命チョコを用意する──

それはもう確信だった。

誰にその本命チョコを渡す?

そんな事を知るわけが無い。
だが、一つ分かっている事がある。
誰に送られる物であろうと、廉のチョコを受け取るに相応しからぬ男が相手であれば、全力を持ってそれを阻止するという事だ。

阿部は携帯電話を取り出すと、一人の部活仲間に向かって電話を掛けた。
数回コールする時間すら苛立たしく思いながら、相手が出るのを待つと、能天気な声が、耳元で『うえぇ』と悪態を吐いた。
『どーしたの阿部。珍しいね、俺の携帯に掛けてくるなんて』

いつもは必要事項の伝達にしか掛けない水谷の携帯に向かって、阿部は歯軋りするほどの憤りを噛み殺しつつ、用件を伝える為に口を開いた。
「水谷、三橋派のお前に情報だ。三橋は本命チョコを用意するぞ」
『はぁ!?』

通話口の向こうで何かを叫んでいる水谷は放置して、言うべき事だけを伝えた阿部は、早々に通話を切り、鞄の中に携帯を仕舞い込むと、家に帰る為に自転車の向きを変えた。
急いで帰らなければならない。
帰って、いかに廉の本命チョコの行方の情報を掴むかを検討し、廉がチョコを渡すかも知れない候補を絞り込まなければならないのだ。

廉はあのふわふわした外見の所為か、野球部内の派閥だけでなく、他のクラスの男子にも結構な人気があり、阿部も時々視線で廉を追いかけている男を見た事がある。
もちろん、見つけ次第にらみを利かせている為、直接廉にちょっかいを掛ける奴はいないが……

「絶っ対ぇ阻止してやる!」

冬の夜道、ペダルを漕ぎながら低く呟いた誓いを聞いているのは、夜空に輝く星々だけだった。



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